愛の目覚めと魔女との遭遇
「お願いです。私を逮捕してください」
いきなり何を言い出す。
病院の敷地内にある庭園を並んで歩きながら、決意に満ちたような声でマリアは言った。
「何の容疑で?」
努めて平静に訊いた。
この病院の至る所にあるマシューズの像。奇妙な形の松が植えられた日本風のこの庭園にも、奥の一番目立つ所に銅像が据えられている。そいつを通して実際のマシューズにも監視されているような気がして、近づくことなく俺は足を止めた。
「私も共犯です」
「何を言ってるんだ、君は……」
唇をきつく引き結んだマリアと、その後ろに見える石灯籠がどこかアンバランスだ、とそんなことを考えた。そして、捜査中どんなに否定しても頭にこびりついて離れなかった言葉。それを彼女の口から聞き、軽い目眩に襲われた。何より聞きたくなかった言葉。
「彼は一度、私を解放しました。でも、私が自分の意志で留まり、彼をけしかけたんです!」
「馬鹿な……」
「本当です! あの人が刑務所に入るなら、私だってそうなるべきだわ!」
本気で言ってるのか、段々腹が立ってきた。
「いい加減にしなさい」
思っていたより強い声が出た。
「いいか、アイツは自分の身内の名誉を守りたいという、極めて利己的な動機で誘拐事件を起こしたんだ。しかも、あなたを誘拐したのは、ヤツの手違いに過ぎない」
聞きながらマリアは、『そうじゃない』と言いたげに首を横に振っている。分かっているくせに。
「ヤツの計画では、マシューズの娘を誘拐するはずだったんだ。それに、手に負えなくなれば、殺していたかもしれない」
そう言いながら、あの娘だったらクロフォードの命の方が危ないだろうと考えていた。
「だいたい、あなたが有罪になったところで、一緒の刑務所には入れない」
ついに、マリアの頬を涙が伝った。こんな筈じゃない。彼女を泣かせるつもりなんてなかった。
「あなたは病気なんです。凶悪犯から身を守るために、無意識に犯人に同調しただけなんです。解放された今、その区別がつかなくなってる。あなたも本当は分かっているはずだ。あいつはあなたを利用したんだ」
マリアは困惑した様子で涙で光る瞳を泳がし、しきりに自分の髪を触っている。儚げで、何より哀れだ。俺は名刺を差し出した。
「困ったことがあれば、いつでも連絡してください。どんなことでも力になります」
マリアは名刺を受け取ると黙って俯いた。
「ねえ! まだなの? いつまで待たせるつも──」
三十分経っても呼びに来ない使用人たちに激怒しながら、勢いよくダイニングのドアを開けたシャロンは言葉を切った。
テーブルには、グリルした魚やチキンの料理が並べられている。しかし、テーブルを取り囲んだ使用人たちは、仕事もせずリラックスして椅子に座り、楽しそうに談笑しながら食事をしている。その光景を見て仁王立ちしているシャロンの足元を、砂糖をまぶしたドーナツを咥えた子供が走り過ぎた。
「ちょっと! どういうこと?」
テーブルの上座に座った老婆にお茶を注いでいるメイドが顔を上げた。
「イマ、休憩ネ。オ嬢様モ、一緒ニ食ベル?」
「何言ってんの? これ、うちにあった材料で作ったんでしょ?」
シャロンは走り回る子供の手からドーナツを取り上げた。
「うわぁーん! おばあちゃーん!」
子供は泣きながら老婆に抱き着いた。
「まあまあ、可哀そうに」
老婆が子供の頭を撫でると、そこにいる全員がシャロンへ非難がましい視線を向けた。そんなことにシャロンは気付くはずもなく、皿を抱え込むようにして料理を頬張っている。
ドクター・シュナイダーから届いた、マリアに関する報告書を前にして、マシューズは頭を抱えていた。
「あのクソ野郎……」
マリアが誘拐犯に対し、執着ともいえるほどの好意を寄せているらしい。怒りと焦りで過呼吸に陥り、机をひっくり返したい衝動に駆られたが、オーク材の机は余りに重たいし、外科医がケガをするなどあってはならないと必死で自制した。
「あら、頭痛ですか? お疲れなんじゃありません?」
書類を持って入ってきたオコナーが、粘りつくような視線を送ってくる。しかも、マシューズの机の上に、突き出すように尻を乗せた。
一週間前ならそれで欲情していたかもしれないが、今のマシューズは違った。
「何て下品な女だ」
マシューズは心の中で呟いた。
相手が嫌悪の目を向けていることにも気づかず、オコナーは身体をくねらせている。マリアには溢れるほどの可憐さがある。しかし、このメス猿にはその欠片もない。いや、それはサルに対して失礼か。
初めて知る感情だった。今の自分は以前とは別人だ。愛などというものの存在など、マシューズは信じたことがなかった。妻にさえも。
「降りろ」
「は?」
オコナーは真っ赤に塗りたくった口をだらしなく開いた。ただの間抜けにしか見えない。
「用があったら呼ぶから、書類を置いたらさっさと仕事に戻れ」
オコナーはポカンとしたまま机から尻を降ろした。
「出ていけ!」
マシューズが怒鳴ると、首を絞められた鶏のような悲鳴を上げ、オコナーは逃げて行った。
頭の中は、マリアのことでいっぱいになっている。なぜなのか、マシューズは自問した。美しい女は今までたくさん見てきた。マシューズの財力を知る女は、喜んで身を投げ出してくる。簡単に手に入る女たちだ。
でも、マリアは違う。彼女には、単なる銭ゲバたちとは違う高潔さがある。
「マリア……」
マシューズは呟くと、目を閉じてしばらくその名前を噛みしめた。
その後、おもむろに受話器を取り上げた。
シェルビー捜査官と別れ、病室に戻ったマリアはベッドに座って虚空を見上げていた。そこに浮かぶのは、もちろんフレディの顔だ。ジェイソンを思い、涙ぐむ顔。虹を見つけて喜ぶ顔。そして、マリアがダンスに誘った時の、頬を真っ赤に染めてはにかんだ顔。そのすべてにキラキラとした星が飛び、色鮮やかなバラが周りに咲いている。
マリアは虚空に手を伸ばした。あのダンスの時、この手を取ってくれたフレディを思い出して。しかしマリアの指は、天井のエアコンから吹いてくる乾いた冷気に触れただけだった。
「うう……」
自然と嗚咽が漏れ、涙が零れてくる。胸を締め付ける切なさも、病気のせいだというのか。
「あら?」
突然ドアが開き、顔じゅうに包帯を巻いた女が入ってきた。
「間違えたわ」
高級なシルクのガウンを翻して出て行こうとしたが、泣いているマリアの顔を見つめると、静かにドアを閉めてベッドに近づいてきた。
「あ、あの……?」
戸惑いながら尋ねるマリアも、その女の包帯の隙間から覗く目を見つめ返した。と言うより、目が離せなかったのだ。強く惹きつける印象的な眼差し。どこかで見たことがある。マリアは記憶を辿った。
大きなスクリーン。十代の時に見た、名作映画のリバイバル。恋に恋する少女時代、アルバイト代をこっそり貯めて恋愛映画を観に行った。きらびやかなドレスを着た奔放な美女。吸い込まれそうな青い瞳に憧れた。
「も、もしかして……アリス・マッケン──」
「ええ、そう。こんな包帯だらけの顔で、よく分かったわね」
驚いているマリアの言葉を遮り、アリスは頷いた。
「あなた奇麗ね、女優? モデル? エージェントはいるの?」
矢継ぎ早の質問に、マリアは声も出せずにただ首を横に振った。
「──で、なんで泣いてるの?」
「えっ? わ、私……泣いてなんか……」
慌てて否定したものの、相変わらず見つめ続けるアリスの瞳には、抗えない強さがあった。マリアが俯くと、涙がその頬を流れ落ちていく。
「いいのよ。若い女が泣く理由なんて大体分かるわ」
顔の前で骨ばった手を優美に振る。
「あなた、昔の私にそっくり」
「えっ?」
この大物女優には驚かされてばかりだ。肌や目や、髪の色だって全てが違う。どこが似ているというのか。マリアは眉をひそめた。
「その自信の無さ。いつでも誰かに従って生きてきたんでしょ?」
「あなたが……?」
アリス・マッケンジーがハリウッドの重鎮だということくらい、マリアにだって分かっている。そして、相当に自分勝手な人物だとも。マリアだって、ゴシップ雑誌くらい読むのだ。
「世間が私のことをなんて言ってるかは知ってるわ」
懐疑的なマリアの視線に気付いたのか、アリスは鼻を鳴らして言った。
「子供の頃からこの世界にいて、周りの大人が言うように演技をしてきたの。何十年も他人に従ってきて、ここ数年でやっとものが言えるようになったのよ。これからは好きにやらせてもらうわ」
アリスはいたずらっぽくウィンクをしてみせたが、顔の手術跡が痛んだようで、眉間に深い皺を寄せた。
「痛……。とにかく、私たちみたいな女を支配しようとする男はたくさんいるわ。でも、自分の人生は自分で生きなきゃ。何が大切なのか、それを忘れたらダメなのよ」
マリアは目を閉じて顔を俯かせた。アリスは続ける。
「つまらない男のために、人生を無駄にするなんて馬鹿げてる。女だって目標を持つべきよ」
自分の目標は何だったか、マリアは自問した。
「あら、もうこんな時間。今頃、院長が痛み止めの注射を持って病室で待ってるわ」
マリアの手を軽く叩くと、高笑いしながら部屋を出て行った。
嵐のような女性だ。ゴシップ誌が書くように、周りを振り回しているというのも頷ける。
改めてマリアは、アリスが言ったことを考えてみた。
「ラウル……」
マリアは呟いた。
彼こそ、マリアがこの国に来た理由。弟をアメリカの大学に入れるためだ。ラウルにはもう時間がない。余計なことに心を奪われている余裕などないはずだ。
「しっかりしなきゃダメよ……」
強い決意で自分を戒めたつもりだったが、口から出てきた声は情けないほど弱々しかった。




