浅はかな策略と籠の中の鳥
「あ?」
「だから、司法取引だよ。そういうのあるんだろ? ドラマとかでよく見るぞ」
決死の覚悟で挑んでる感じだな。汗ダラダラかいて、声も上擦ってる。
「司法取引ってからには、それなりの情報を持ってるんだろうな?」
「マ、マシューズのことだ! ヤツの悪事の数々だ!」
そりゃあ、マシューズがクリーンな人間ではないことぐらい俺だって分かっている。
「例えば?」
「自分の医療ミスをジェイソンのせいにした。それから、セクハラ訴訟もマシューズのでっち上げだ」
相当悔しいんだろう、固めた拳がわなわなと震えている。
あの医者だったらそれぐらいの事はするだろうが、まるっと鵜呑みにするわけにはいかない。
「証拠は?」
「ジェイソンがそう言ったんだ! アイツは嘘をつかない!」
やっぱりバカだったか。
「じゃ、何か? 墓からジェイソン・クロフォードを掘り起こして証言させるのか?」
「…………」
ほら、黙っちまった。今にも泣き出しそうになってる。
「な、なんで、そんなひどいこと言えるんだよ……」
ヤツは俯き、垂れ下がった前髪の下から赤くなった鼻だけが見えている。
そんなに大事な人物だったのか。明らかに血の繋がりなどない男が。ちょっと言い過ぎたか。でも、謝ろうなんて気持ちはさらさらない。
「医療ミスの件はこっちでも調べさせてもらった。亡くなったモデルの遺族と病院との間では、すでに和解が成立している。お前が車の修理工場で働いてた時の年収と、ほとんど変わらないくらいの金額でな」
顔を上げたクロフォードは、驚きに大きく目を見開いている。
「それっぽっちで? 信じられない……人がひとり死んでるんだぞ……」
「お前もそう思うか? 俺もだ。だがな、彼女が生まれた国の、彼女が育った村では、その金で十二人の家族が安心して住める家が買えるんだ。お前がそれを告発したところでどうなる? 遺族は病院と和解したんだ。執刀医が誰かなんて関係ない」
「それでも! 遺族には真実を知る権利があるだろ?」
遺族の権利だと? この偽善者!
「お前の自己満足だろ? いたずらに話を蒸し返して、遺族の癒えぬ傷口に塩をすりこむつもりか!」
自分のやったことを正当化しようとしたって、そんなこと俺が許さん。
「そ、それだけじゃないぞ! アイツは浮気しまくってるらしいし、患者を選り好みしてる!」
「ふ~ん、それで?」
「しかもヅラだって聞いた! ほら、マシューズは世間を欺いてる!」
もうやけっぱちだな。
「そんなんで司法取引なんてできると思うか? だったらゴシップ誌の記者なんて、何をしてもいいことになる」
クロフォードは絶望したように頭を抱えた。
罪を逃れられると思ってるなら、大間違いだ。こんなヤツ、二度と彼女には会えないようにしてやる。
玄関のチャイムが鳴った。
「ん?」
来訪者にシャロンは顔を上げた。冷蔵庫に顔を突っ込み、口からハムをぶら下げながら。
今、家には誰もいない。グラントもマシューズと一緒に病院へ行っている。
「もう! 何の用?」
モニター画面には、見知らぬ中年女の姿が映し出されている。
「は? 誰?」
モニターに映る女は顔をグッとカメラに近付けた。ほとんど鼻の穴しか見えない。女はスピーカーの音がひび割れるほど、大きな声でがなり立てた。
「コノイエ、イマ、メイド、イナイ! ワタシ、メイド、ヤル!」
「…………」
開けっ放しにされた冷蔵庫を眺めてシャロンは考えた。すぐに食べられるようなものは底をつきかけている。そして、食事を用意する者は誰もいない。自分は料理などしたこともないし、する気もない。
シャロンはゲートを開けた。
特別病室へ続く廊下。毛足の長い絨毯は、足音を完全に吸収していく。
「あら、シェルビー捜査官」
ちょうどマリアの病室から出てきた心療内科の医師と鉢合わせになった。
「どうも、ドクター・シュナイダー。彼女の様子は?」
シュナイダーはファイルを両手で抱え、長い間止めていたのではないかと思うほど大きな溜息を吐いた。その後、辺りをキョロキョロと見回し、廊下にある監視カメラを気にしながら、口元に手を添え、声を潜めて俺に尋ねた。
「ストックホルム症候群ってご存知?」
「ええ、もちろん。誘拐されているという異常な環境下で、被害者が次第に犯人に対して好感を抱くって、アレですよね?」
ふたりを追いかけまわしている時と同じような、あの嫌な感じが蘇ってきた。シュナイダーが頷く。
「何を訊いても『彼は悪い人じゃない。彼の話を聞いてあげて』と、そればかり。しかも泣きながら。かなり重症ですよ」
予感は的中した。まったく……あんなアホのどこがいいんだ……。
シュナイダーは続けた。
「まあ、自分の生死は犯人が握っているわけですから、一種の依存状態ですね。なんとか相手を怒らせないように、なんとか気に入られて暴力を回避しようという自己防衛本能の表れでもあります──」
別の病室のドアが開き、きびきびとした足取りのナースが近づいてくると、シュナイダーは言葉を切った。
「では、診断書は後日お届けします」
ナースが横を通り過ぎる時、シュナイダーは事務的な声で言った。
「あ、ああ……それじゃあ、お願いしま──」
突然ロボットさながら無表情になったシュナイダーに戸惑いつつ頷くと、右の手首を強く握られた。ナースがエレベーターに乗り込んだのを確認してから、シュナイダーは俺の手を離した。
「特別病棟の患者の情報は極秘なんです」
古代ギリシャの彫刻並みに高い鼻の頭に皺を寄せ、シュナイダーはうんざりした声で続けた。
「特に彼女の場合、院長がうるさくて。検察に提出する診断書も、まず院長が目を通すから、と。かなりご執心の様子で」
やっぱりそうか、あのスケベ院長。クロフォードを地獄に落とすためなら、診断書の改ざんも厭わないってことか。
シュナイダーはそれから二、三分ほど、マリアの様子について語った。院長によって内容を歪められる前に、誰かに真実を話したいらしい。自分は正しい診断をしたという、彼女の医師としてのプライドか。
とにかく、現在のマリアの状態は俺が危惧していた通り、かなり厄介なものだということが分かった。
「何なの? これ」
シャロンは新しいメイドを睨みつけた。
「アナタノ家、トテモ大キイ。一人ジャ無理ネ。ダカラ、友達呼ンダ」
リビングには若い男女三人に腰の曲がった老婆、小学生くらいの子供も数人いる。そして、若い女の一人は赤ん坊を抱えていた。一族みんな連れてきたみたいだ。
「コッチノ子はホルヘ、靴磨キ、デキルヨ」
小さな男の子の頭を撫でながら得意げに胸を張る。
「…………」
シャロンは腕を組んで彼らを睨みつけたままだ。使用人の名前などに興味はない。ましてや子供だ。はっきり言って用はない。早く何か食べるものを作って欲しいだけだ。
「もう、どうでもいいから、食事の用意ができたら呼んで!」
自己紹介は続いていたが、シャロンは言い捨てると自室へ向かっていった。
「どうも……」
病室に入ると、ベッドの上で膝を抱えていたマリアが顔を上げた。目の周りが赤みを帯びて、泣いていたのがすぐに分かる。潤んだ瞳、濡れた睫毛、すべてが美しい。だからこそ、胸が痛む。
「シェルビー捜査官! あの人……フレディは?」
掠れた声。そんなにあの男が心配なのか。
「もう全面的に自供しましたよ」
努めて事務的に告げた。彼女の目から大粒の涙が零れ始めた。
「彼は……刑務所に入らなければいけないんでしょうか?」
「そうなるでしょうね。まぁ、我々は逮捕をするだけで、後は検察の仕事になります」
彼女は何か言いたそうに唇を動かしたが、俺はそれを遮った。
「いやぁ、顔色も良さそうで安心しました。ちょっと散歩でもしませんか?」
この部屋で彼女に何も言わせたくなかった。ピリピリと感じるんだ。誰かに見られている。廊下だけじゃない。この病室にも監視カメラがそこら中にある。きっと隠しマイクも。マリアとの会話を筒抜けにはしたくない。
彼女は少し考えるように視線を彷徨わせ、それから小さく頷いた。




