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洟たれの挑戦と悪意の朝

「先輩、僕にやらせてください」

マジックミラーの向こうで項垂れているクロフォードを見つめながら、いつになく意欲満々のハケットが言った。

「僕なら彼と歳も近いし、一度話もして好印象だったし、心を開いてくれると思うんです」

根拠のない自信に満ちた顔。こんなヤツに任せられるか、と思ったものの、あの気の弱そうなクロフォードが俺を見たらどうなるか考えた。きっと、ビビりまくって声も出せないだろう。

「分かった。お前が行け」

 意気揚々とクロフォードの元へ向かうハケット。ドアを少しだけ開けて顔だけ出すと、ヤツに向かってにっこり笑いかけた。

「ハーイ、また会ったね」

この場にまったくふさわしくない軽い呼び掛けに、ゆっくりとクロフォードが顔を上げた。どんよりとした目で首を傾げる。誰だか分からないようだ。

「僕だよ。ついこの間、ガソリンスタンドで車を動かしてくれたでしょ? 忘れちゃったかな?」

「ああ、あの時の。アンタ、FBIだったんだ……」

「そうそう、あの時は助かったよ。どうもありがとう」

「いや、お礼はいいけど、免許持ってないの?」

よく分からないが話は弾んでいる。ハケットの意外な才能を見たようだ。

「運転免許は持ってるよ。だけど、母との約束があってね。運転はできないんだ」

「へぇ、もう大人なのに? ずいぶん過保護だね」

俺が言えなかったことをはっきり言ってくれた。もう友達になったみたいだ。

「彼、やるね」

俺の隣で様子を見ているベテランのプロファイラーも感心している。

 ハケットはにこにこと笑いながらクロフォードの向かいに座り、携帯端末を取り出した。

「自慢の母なんだよ。ほら、見て見て」

クロフォードの目の前に、母親の写真を誇らしげに掲げた。

「ね、奇麗でしょ? しかも、料理なんか絶品なんだよ」

「あ、ああ……そう……」

ほら、クロフォードが戸惑い始めた。しかし、そんなことに気が付くハケットじゃない。

「多くの人が思い浮かべる理想の母親像っていうのかな、まさにそういう人だよ。母はオクラホマに住んでてね、離れているのは寂しいよ。君にもこの気持ち分かるだろ?」

 その後もハケットの母親自慢は続く。最初は戸惑っていただけのクロフォードも次第に眉間の皺を深くさせ、異常なまでのマザコン男に嫌悪感を示しだした。

「──それでね、大学の入学が決まって実家を離れる時は、そりゃあもう寂しくて。しばらくは泣き通しだったよ。だから、君の気持はよく分かるんだよ」

「何でだよ。ていうか、事件のこと訊かないの?」

クロフォードが不機嫌な声で尋ねた。そりゃそうだ。誘拐事件を起こした凶悪犯だが、なぜだか常識人に見える。

「訊くよ。でもその前に、僕のことよく知ってもらおうと思ってね。そのためには、僕の母を知ってもらわないと」

ハケットが再び携帯端末を操作し、母親の別の写真を出した。

「これはね、僕がプレゼントしたブラウスを着た母だよ。よく似合って──」

クロフォードはもう我慢できないといった様子で机を叩いた。

「いい加減にしろよ! 何なんだよコイツ!」

まぁ、怒るのも当然だな。

 キョトンとしているハケットをよそに、クロフォードはマジックミラーに向かって怒鳴った。

「おい! そこで誰か見てるんだろ? 他のヤツ連れて来いよ!」

「ちょ、ちょっと。どうしたの? 落ち着いてよ」

なぜ怒っているのか、まったく分からないハケットの様子に、頭に上った血が沸騰したらしい。クロフォードはひと際声を高くして喚いた。

「誰かいるだろ? コイツ以外だったら誰でもいいよ!」

「ハケット、戻れ」

俺はハケットのイヤホンに指示した。

「えっ? でも……」

戸惑ってやがる。どうして戸惑うのか、まったく理解できない。

 ガキみたいに口を尖らせたハケットは、入ってくるなり不満を吐き出した。

「ひどいですよ、あの人。いきなり怒り出して。話はまだ終わってないのに」

「バカか、お前は! アイツは生まれてすぐ、施設の玄関に置き去りにされたんだぞ! 何で母親の自慢話なんかするんだ!」

「母親がどんなものか教えてあげようと思って……」

開いた口が塞がらない。プロファイラーも腕を組んだまま、ポカンとしてハケットを見ている。

「……異常だね……」

プロファイラーはやっとのことで言葉を発した。


「次のニュースです。昨夜起きた誘拐事件の人質救出の一部始終を、偶然現場に居合わせたモス記者のカメラが捉えていました」

 マシューズ病院の特別室。豪華な応接セットがあるだだっ広い部屋のベッドの上、マリアはリモコンでテレビのボリュームを上げた。

「──興奮した容疑者が、人質のマリア・フェルナンデスさんを盾にして何か叫んでいます」

音声のない映像にナレーションが入る。

「容疑者の一瞬の隙を突き、通行人に変装した特殊部隊が人質を救出しました」

「一瞬の隙って……彼は私を解放したのに……」

テレビに向かって訂正したところで誰も聞いていない。

 取り押さえられてもがくフレディを、往生際の悪い凶悪な犯人として説明している。

「被害者のマシューズ氏は、自宅で働くメイドのために、多額の身代金と高級外車を用意したということです」

画面は昨夜の逮捕劇から、今朝の病院の入口へと変わった。そこではマシューズがインタビューに応えている。

「当然のことをしたまでです。メイドといえど、家族も同然ですから」

威厳に満ちた態度は、さぞかし多くの人から尊敬を得ることだろう。実際、ニュースキャスターはマシューズの人柄を賞賛していた。

 マリアはベッドの上で膝を抱えた。こんなだだっ広い病室で一人、することもなくベッドの上にいることが、とてつもなく居心地悪くてしょうがない。もともと貧乏性なのだ。

「フレディ……」

押さえ込まれるフレディの映像に、マリアの胸が締め付けられるように痛んだ。そしてテレビでは、興奮して叫んでいる時のフレディの顔が、名前と共に大きく画面に映し出された。彼を知らない人が見れば、短気で凶暴で、いかにも犯罪を犯しそうな顔だと思うだろう。

「なんでわざわざ、こんな瞬間の表情を……」

とてつもない悪意を感じてしまう。


「アイツは変態なんだ。許してやってくれ」

目の前にはいかつい顔の男。セリフとは裏腹に、それは頼みごとをしている口調ではない。有無を言わせぬ威圧感。フレディは胃の奥が冷たくなるのを感じ、震え出しそうな脚に力を込めた。

 ちゃんと話をしなければいけない。さっきのヤツは愛想が良いだけで、まともな会話などとてもできないと悟った。恐怖に背けたくなる目を見開いて、フレディはこのシェルビーと名乗った捜査官を見つめた。それでも睨みつけてくる目が、まるで突き付けられたナイフの切っ先のように心をひくつかせる。およそ二、三日くらい寝ていないかのように充血した目。

「あの空き家で何をした?」

「へ?」

噛みしめた奥歯から絞り出すような声。動揺したフレディは素っ頓狂な声を上げた。それが気に障ったのか、シェルビーは机に両手を叩き付け、顔をフレディにグッと寄せてきた。

「あの、空き家で、彼女と、何を、してたんだ?」

一語一語を区切りながら問い質す。

 フレディの頭に、やけにキラキラとした映像が蘇ってきた。手を繋いで見上げた虹、窓から差し込む光の中でのダンス。そして、マリアからのキス。思い出すだけで身体じゅうが震えてくる。でも、それは言わない方がいいとフレディは思った。何となく、マリアのために。

「えっ、えっと……すごい雨が降ってきたから、雨宿りを……」

自分の声が震えているのを認めざるを得ない。でも、ここで挫けたら、すべてが台無しになる。唾を飲み込む喉の音が、空気の張りつめた小部屋に轟いた。

「そこでラジオを聴きながら……雨が止むのを待ってた」

嘘をついてはいない。ただ、足りない部分があるだけだ。

「…………」

シェルビーは品定めをするようにフレディを睨みつけている。フレディのこめかみに冷たい汗が伝った。

「まぁ、いい……」

シェルビーが折れた。ホッとしたフレディは自分がちびりそうになっているのに気づき、両膝をきつくくっ付けた。

 沈黙が流れ、やがてシェルビーが俯いて小さな咳ばらいをした。気を取り直すように頭を上げたが、フレディを見つめる目は依然として厳しいままだ。

「それで、何であんなことをした?」

この質問を待っていた。フレディは大きく息を吸い込み、まっすぐシェルビーを見返して口を開いた。

「取引しよう」


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