もう一人のマザコンと迷走のハードレイン
どうして、こんなことになってしまったのか。フレディは自問した。
ケンカなんかするつもりはなかった。多分、FBIが自宅まで来たと聞いて、ひどく動揺してしまった。どうしたらいいのか全く分からなかった自分とは対照的に、マリアはとても冷静だった。何もできない苛立ちから、あんなに激しい言葉が出てしまったのだろう。カルロスのことを持ち出したのは、不甲斐ない自分に対する失望をごまかすためだ。
自己分析したところで役に立たない。一度口から出た言葉を取り消すことはできないのだ。
「とんだクソ野郎だ……」
自虐の台詞が口をついて出た。窓ガラスに額を預けていたため、マリアの唇が悲しそうに歪んだことには気付かなかった。ただ、海の方角から近づいてくる黒ずんだ雨雲が気になっていた。
幸せを感じた途端に忍び寄る不幸。今日の天気みたいだ。予感は本当だった。マリアに嫌われてしまっただろうか。どうすればいい。
そんなことを考えているうち、フロントガラスに大粒の雨が落ちてきた。アスファルトが黒いまだら模様に染められていく。歩道では、雨から逃れようとするたくさんの人々が右往左往し始めた。あっという間に雨足は激しくなり、まるでバケツをひっくり返したようだ。全力で動くワイパーも、滝のように流れる水の塊に苦戦している。
「どうしよう……」
視界も悪くなり、マリアは前方に身を乗り出して困ったように呟いた。どうしたらいいのか、フレディにも分からない。自宅にはもう戻れない。行くあてなんてどこにもない。ガソリンが空になるまで走り続けるのか? フレディは頭を抱えたくなった。
「こんなことじゃダメだ……」
これ以上情けない姿は見せたくない。どうにかしなくちゃ。
きょろきょろしているフレディの目に、水煙の中で青く回転する光が飛び込んできた。警察だ。前方にある交差点、対向車線で信号待ちをしている。心臓が口から飛び出てきそうなほどの早鐘を打ち始めた。
「そこ! そこ右に曲がって!」
警察から逃げたい一心で咄嗟に口にした。
「は、はい!」
フレディの勢いに驚いた様子のマリアだったが、きちんとウィンカーを出すのは忘れない。車はスムーズに右折した。
この界隈は、比較的リーズナブルな小ぢんまりとしたホテルや、カジュアルなレストランや商店が立ち並ぶエリアだ。突然の大雨はランチタイムと重なり、普段から賑わっている街は人の多さも手伝って騒然としている。まるで、エイリアンや巨大ロボットからの襲撃を受けて逃げ惑う人々、そんな映画のワンシーンを見ているようだ。フレディが客観的かというと、そうではない。何かから逃げているという状況は、今の自分も同じだからだ。しかも、この雨はそのうちに止むだろうが、警察だかFBIだか分からないが、彼らはいつまでも追いかけてくる。こちらの方が状況は桁違いに悪い。分かっていることだが、改めてそう認識すると、フレディの胃の辺りはズキズキと痛み出した。
恐る恐るバックミラーを覗いたが、パトカーが追いかけてくる気配はない。ひとまず安堵の息を吐く。マリアはチラチラとこちらを気にしながらハンドルを握っている。指示を待っているようだ。彼女もまた、どこへ行ったらいいのか分からないのだろう。大雨の中、車はただ、道なりに進む。この通りはそのうちY字に別れ、右に行けばショッピングセンターや劇場が建つ商業地域へ、左に行けば自分がよく知っているあの場所へ行く。
「あ、そうだ……」
フレディが声をあげると、マリアは不安そうに顔を向けた。
莫大な身代金を用意すべく、慌てふためきながらあちこちに電話を掛けまくる父親を横目に、シャロンは思い切り鼻を鳴らした。
「バカじゃないの」
メイドのために金を出すなんてあり得ないし、こんな茶番に付き合ってられない。シャロンはどこかへ出掛けようと思った。
「くっそ、車がない」
ここ数十時間にわたって何度となく繰り返した台詞。言えば言うほど腹が立ってくる。何人か友達に電話を掛けたが誰も出ない。きっとみんな、昨夜のパーティーでぐでんぐでんになって寝ているのだろう。
「ったく、使えないヤツらだなぁ」
悪態をつきながら、最後の手段とばかりに母親に電話を掛けた。
「ああらぁ! 可愛いシャロンちゃん、どうしたのぉ?」
酔っ払っているのか、やけにハイテンションな母親の声が聞こえてきた。
「ママ、聞いてよ! パパったらひどいの!」
シャロンは哀れっぽい声で、バカなメイドが車を壊したこと、何処へも出掛けられずに困っているのに、父親は何もしてくれないこと、自分がとても不幸だということを訴えた。
「あらぁ、相変わらずひどいパパね。そんなことより、可哀想なのは私の方よ。昨夜パーティーがあったんだけどね──」
母親は、新しく買ったドレスが他の招待客と被って恥をかいた、と自分ほど不幸な人間はいないとまくし立てた。
いつもこうだ。シャロンはうんざりした。ママは自分のことばっかり。
「それでね、その同じドレスを着てたひとっていうのが、スタイル悪くて。
二の腕なんかぶよぶよなのよ。あんなひとが着てたら、私まで同類と思われちゃう──」
止まらない文句を遮り、シャロンは声を張り上げた。
「ねえママ! お金ちょうだい!」
「……あっ、いけない。エステの予約の時間だわ。じゃあね、スイートハート」
電話は切れた。
「信じらんない……」
エステの予約なんて絶対嘘だ。金の話になったから切ったに決まってる。
「守銭奴ババア!」
携帯電話を放り出したシャロンは、イライラと爪を噛む。無性に誰かを痛めつけたい。ふと自分のベッドを見ると、そこで獲物がまどろんでいる。
「おい!」
怒鳴りながらグラントを蹴飛ばすと、ヤツは寝ぼけ眼で首を絞められた鶏みたいな悲鳴を上げた。
「な……なんですか?」
グラントは完全に怯えている。その情けなさがシャロンの苛立ちを増長させた。こうなったら、完膚なきまで叩きのめしてやりたい。
「犬みたいに四つん這いになれ」
床に落ちていたグラントのスラックスからベルトを引き抜き、二つ折りにして引っ張ると「バチン!」と乾いた音が部屋中に響き渡った。
「分かりました。女王様!」
突然嬉しそうに目を輝かせたグラント。その顔にシャロンの苛立ちはさらに高まった。
「ふう……」
ここ数日で一番疲れた。あのアパートの大家と名乗る女に、大声で散々文句を言われた。狂悪な犯罪者の逮捕を快く協力できないなんて、この世の中はいったいどうしちまったんだ。
しかも、病院で宇宙人と戦っている旦那がいるという老婆がやってきて、歩道で言い合っている俺達に突然「邪魔だ!」と怒鳴り出した。その物言いに大家の女がさらに怒り出し、老婆に言い返して──。まさに修羅場だった。二人がやり合っている間に、俺はこっそり逃げ出してきたってわけだ。
助手席に座ったハケットは、さっき特殊部隊の隊員と撮った写真を母親にメールで送っている。マジか……。『自覚』って言葉を知らないのか、コイツは。
「返信きました。すごく喜んでくれてますよ! 嬉しいなぁ」
ああ、そうかい。頼むから転職してくれ。もう、付き合いきれない。
俺達が車で走り出してすぐ、自転車に乗ったあのガキが見えた。片手に買い物袋をぶら提げて、こちらへ向かって走ってくる。目で追っていると、向こうもこちらに気付いた。敵対心を剥き出しにして睨みつけてくる。すれ違う間、真っ直ぐに繋がった視線は、漫画でよくある青白い火花を飛ばすほどだ。生意気なガキめ。しかも、クロフォードと何か関係がありそうだ。共犯者? あんな子供が? どうしても気になった俺は車を停め、開けた窓から後ろを振り返った。幸い、ガキは俺が車を停めたことに気付いていないようだ。エンジンを点けたまま車を降り、適度な距離を保ちながら後を追った。
活気ある商業地からほんの数キロ離れただけなのに、まったく寂れきったこの通り。暑さから逃れるためか、建物の日陰にたむろする生気のない大人達をかわしながら、ガキは自転車を走らせる。汗で色が変わったTシャツ、たまに立ち漕ぎしながら先を急いでいる。なんだか、この界隈で生きているのは、アイツだけみたいな気がしてくる。
ガキはクロフォードの自宅から一ブロック隔てたアパートの中へ消えた。俺はエントランスの脇に立ち、中を覗く。クロフォードが住んでいる暗いアパートとは違い、狭いながらも自然光が差し込む吹き抜けの中庭を取り囲むようにドアが並んでいる。中庭には花壇とベンチが置いてあったりして、きっと、ここの大家はさっきのガミガミ女とは違い、明るく社交的な人物なのだろう。
階段の金属製の手すりに自転車をチェーンで繋ぎ、二階に上がってすぐの部屋にガキは入っていった。俺は足音を立てないように階段を上がり、廊下に面した窓から中を覗いた。すぐダイニングテーブルが目に入り、その横に母親らしき女性が立っている。こちらには背を向けていて顔は見えないが、ウェーブのかかったブラウンの長い髪に紺地に小花柄のワンピースを着て腕に赤ん坊を抱いている。細く開いた窓から会話が聞こえてきた。
「汗びっしょりじゃない、カルロス。暑いのに悪いわね」
あのガキの名前が分かった。
「いいって、こんなのへっちゃらだよ」
小さな身体で得意げに胸を張る。なんだ、母親には素直じゃないか。 変なことに感心していると、母親に抱かれている赤ん坊と窓ガラス越しに目が合った。その途端、小さな顔が引きつり出し、わなわな震えたと思ったら、火が点いたように泣き出した。
「あらあら、どうしたの?」
やばい。母親がこちらを振り返りそうで、俺は慌ててその場を離れた。
アパートの階段を下りている途中、中庭から覗く小さな空が灰色に変わっているのに気が付いた。久し振りの雨が降りそうだ。とにかく、あのカルロスというガキはクロフォードと知り合いかも知れないが、誘拐事件とは直接関係ないだろう。ただ生意気でマザコンなだけだ。同じマザコンと言っても、母親に頼りっきりのハケットとは違う。愛する母親のためなら何でもやってのけるタイプだ。
アパートを出てみると、大粒の雨がぱらぱらと降り出してきた。それまで目的もなく通りにたむろしていた連中も、わらわらと重い腰を上げ始めている。間もなく大雨になるだろう。俺はヴァンまで走った。
「どうかしたんですか?」
運転席に乗り込んだ俺に、助手席のハケットは携帯端末から目を離すことなく尋ねた。ナメた野郎だ。
「俺がいない間、何か動きはあったか?」
「は?」
ハケットはきょとんとしながら顔をこちらに向けた。
「見張れなんて言ってませんでしたよね?」
これだよ。もし犯人が戻ってきていたらどうするんだ。
「あ、そうだ。さっきの電話の場所が分かったようです」
説教しようとしたら、ハケットが携帯端末の画面を差し出した。地図の中に赤い丸が点滅している。州境近くのモーテルの駐車場だ。
「バカ野郎! 何でもっと早く言わないんだ!」
思いっきり罵倒してやってから車を出した。
案の定、雨はすぐに視界を覆い隠すほど激しくなった。助手席で女みたいにすすり泣く声を無視しながら、俺はハイウェイを目指した。
「ここで停めて」
フレディに言われ、マリアは慌ててブレーキを踏んだ。激しい雨のため、坂は流れの早い川と見紛うほどだ。マスタングは後輪を少しだけ滑らせながら止まった。
ずいぶんと丘を上り辿り着いた場所。沿道に並ぶ松の木が途切れた所から一軒の家が見える。
「あの、ここは……?」
ハンドルを握ったままマリアが尋ねた。フレディは助手席の窓に顔を向けたままだ。ガラスと土砂降りの雨の向こうに霞む家を見つめている。
長い沈黙の後、フレディの息を飲む音に続いて溜息が聞こえた。
「……ここは、ジェイソンの家だ」




