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時を止めた夢と屋根の上の遭難者

「正しくは、ジェイソンの家だったんだ」

ポーチで雨粒を払いながらフレディは説明した。

「結婚が決まって、すぐにこの家を買ったんだ。でも、医師免許を失って、ローンが払えなくなって差し押さえられた」

松の木に半ば隠れている看板に目を遣り、マリアは頷いた。さっきは気付かなかったが、通りに向いた面には『売り家』と書いてあるのだろう。

 フレディはポケットを探り、鍵を取り出した。

「ダメもとだけど……」

鍵を差し込んで回すと、意外にもドアはすんなりと開いた。フレディは驚いた様子で口を開け、自身の手から離れた木製のドアをしばらく見つめていた。

「あの不動産屋……鍵も替えてないのかよ……」

呆れたように呟くと、溜息をついて首を振った。

「まぁ、俺が合鍵持ってるなんて知らないだろうしなぁ」

仕方ない、と一人で納得しながら、マリアを促して家の中へ入った。

 太陽が分厚い雲に隠れているため室内は薄暗い。それでもかなり古い家だということは分かる。広い玄関ホールに二階へ続く木の階段。右手には、壁をくり貫いただけでドアのない居室への入り口があり、そこから弱い光が射し込んでいる。フレディは迷うことなくそちらへ歩いて行った。後に続くと、そこはリビングルームで、改装の途中だったのが分かる。まず目に飛び込んできたのは、正面の大きなガラスの扉。道路からは木立に遮られて見えなかったが広い庭があり、そこに面している。大雨ではあるものの、微かな外光がこの空間を照らし出していた。晴れていれば、陽光がいっぱいに降り注ぐ明るいリビングなのだろう。そして、所々剥がれた壁紙に、左手には半分が壊された壁。その向こうには、真鍮の蛇口がついたシンクやオーブン付きのガスコンロが見える。元々は昔ながらの独立したキッチンだが、リビングダイニングとの境をなくすために壁を取り払う途中だったようだ。どんな時も奥さんと一緒にいたい。そんなジェイソンの人柄がよく分かる気がした。

 フレディが電気のスイッチを押すが、止められているようで点かない。

このまま雨が止まなかったら、夕方には真っ暗闇になってしまう。マリアが不安に思っていると、フレディはキッチンの引き出しをあちこち開け、キャンドルを持ってきた。

「勝手が分かっているんですね。合鍵も持っているし」

「うん。改装手伝ってたしね。合鍵はジェイソンがくれたんだ。『いつでも来てくれていい。兄弟だから当たり前だろ』って。その時、彼女の方は嫌な顔してたけどね」

それはそうだ、とマリアも思う。いくら家族同然といっても、新婚家庭に赤の他人が出入りするのは嫌だろう。もしかしてこの二人、絆が強すぎて周りが見えていなかったのかもしれない。

「でも俺だってさぁ、呼ばれないかぎり来るつもりはなかったよ」

キッチンカウンターに置いてあった埃だらけのラジオを手に取りながらフレディが言う。

「そうだったんですか」

そこまでジェイソンに依存しているわけではなかったか。

「もう、呼ばれることは永遠にないけどね……」

フレディが呟いた時、雑音しか出さなかったラジオから『ティアーズ・イン・ヘヴン』が流れてきた。ギターの切ないメロディにフレディの唇は震え出し、瞬く間に涙が頬を伝う。

「ジェイソンはただ、幸せな生活を夢見てただけなのに……」

突然、灰色の窓に稲妻の閃光が飛び込んできた。


 雨雲の野郎、俺たちの先回りしてやがる。それとも、俺たちが雨雲を追いかけているのか。ここは砂漠のはずだが、激しい雨は景色を覆い隠し、ハイウェイのセンターラインも分からない。道路と砂漠の境目の溝は、さながら急流の如しだ。

「こ、これマズイんじゃないですか?」

ハケットもさすがに声を震わせている。

 確かにまずい状況だが、逆に考えればチャンスかもしれない。この豪雨で犯人も動くに動けず、モーテルに足止めをくらっている可能性がある。

「待ってろよ!」

気合を入れてアクセルを目一杯踏み込んだ時だ。視界に飛び込んできたのは、道路ではなく川だった。岩だらけで起伏の激しい荒野にできた溝に大量の雨が溜まり、それが激流となってこのハイウェイを横切っているのだ。ふわりとした感覚の直後、車は路肩に向かって流された。ハンドルが利かない。当たり前だ。タイヤが地面に接してないんだ。こんな非常時に分析だけは冷静にできるが、対策案は一向に出てこない。

「ママ! ママ!」

ハケットは携帯端末を抱きしめながら、呪文のように叫んでいる。

 オールを失ったゴムボートのように、車は激流に弄ばれるがままだ。前後左右に揺られ、もはや方向すら分からない。すると、いきなりとてつもない衝撃に見舞われ、同時に金属の板がひしゃげるような音が鳴り響いた。ハンドルに叩き付けられそうな身体をエアバッグが受け止める。どうやら、岩か何かに車体が挟まったようだ。

「ああっ! ああっ!」

ハケットが鼻を押さえて叫び声を上げた。指の間からは真っ赤な血が流れている。

「ああ、どうしよう! 血が出てる! ママ、僕死んじゃうよ!」

その情けない姿を写真に撮ってネットに流してやりたいところだが、あいにく今はそれどころじゃない。フロントガラスには絶えず激しい波が押し寄せてきているのだ。流されてきた石か何かでガラスが割れたとしたら、あっという間に浸水しちまう。

「おい、バッテリーがやられる前に、窓を開けて逃げるぞ」

「ああっ! ママ! ママ!」

ハケットはパニくってる。俺の指示なんて聞こえちゃいない。しかし、足元には既に水が入ってきている。ハケットに言い聞かせてる暇はない。

 俺はハケットのシートベルトを外し、運転席と助手席の窓を開けた。途端に大量の水が流れ込む。フットボール選手のタックルさながらの水圧に抗い、俺は何とか窓から抜け出すとヴァンの屋根に出た。予想はしていたが、そこは波打ち際のように水が押し寄せ、恐ろしく滑りやすい。ルーフレールを掴んで這うように助手席側へ移動し、窓から車内を覗く。

「ハケット! 早く窓から出るんだ!」

「ママ! ママ!」

ダメだ。膝まで水に浸かってるってのに、動こうとしないで現実逃避してる。

「おい! いい加減にしろ!」

一緒にいる時に死なれては夢見が悪い。ハケットの襟首を掴み、力ずくで窓から引っ張り出した。

 屋根に上がっても座り込んだまま、両腕で携帯端末を抱きしめているハケット。大量の水を浴び、そんなものはとっくに壊れているだろうに。「捨てちまえ!」と言いたいところだが、俺は右手でヤツの首根っこを抱え、左手でレールを掴み、押し寄せる激流に口も開けられないんだ。俺の携帯電話はウィンドブレーカーの内ポケットの中だから、おそらくまだ生きているだろう。しかし、両手が塞がっていて助けを呼ぼうにもどうにもならない。

「くっそ! ハケット! こら、スティーブン! しっかりしろ!」

こいつをファーストネームで呼ぶのは初めてだったが、茫然自失の状態ではいつもと同じ呼び掛けに応じてもらえない。それなりに効果はあったようだ。ハケットが顔を上げた。しかし、目の焦点が合っていない。

「ママ……怖いよ!」

泣き叫びながら俺にしがみついてきた。どうやら俺を母親と間違えているらしい。おかげで片手は自由になったが、なんで俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。

 細心の注意を払って内ポケットから携帯を出し、救助を要請する。しかし、天候が回復しないとヘリは飛ばせないと言われた。

「くっそぉ!」

こんな所でこんなヤツと心中なんて冗談じゃない。毒づいた途端、それまで押し寄せる濁流を照らしていた車のライトが消えた。とうとうバッテリーが逝っちまったようだ。まだ午後三時にもなっていないはずだが、厚く垂れこめた雨雲のために辺りは真っ暗だ。こんな暗闇で豪雨に耐えながら男に抱き付かれてるなんて、いったい俺は何をしているんだ。

「!」

いきなり閃光が空間を切り裂いた。雷だ。そう悟った瞬間、大地を揺るがす轟音が鼓膜に襲い掛かった。

 もう、勘弁してくれ。


 工場からラッセル邸へ戻るバスの中。いつものようにフレディの隣にはジェイソンがいた。その日、昼勤務の誰かが置いて行った雑誌をジェイソンは楽しそうに眺めていた。政治と経済、流行りの店や商品、さらに水着姿でセクシーなポーズをとる女性と精力剤の広告、まさに男性向けの雑誌だ。すると、ページ一面を使った煙草の広告がフレディの目に飛び込んできた。テンガロンハットを被った渋い映画俳優が、白いマスタングのボンネットに寄り掛かり、美味そうに煙草を燻らせている。

「かっこいいなぁ」

思わずフレディは口に出した。

「大人になったら、こんな車に乗りたいなぁ」

「それで? この車に乗って、どこに行くんだ?」

ジェイソンに問われ、フレディはこの車を運転している自分を想像した。

「そうだなぁ、とびきり可愛い彼女を乗せてドライブしたいな」

「それから?」

そう訊かれ、フレディは困ってしまった。隣に美人を乗せてハイウェイを疾走する。そんな映画のワンシーンのようなイメージしか浮かばな。

「……分かんない」

ジェイソンは笑いとも溜息ともつかぬ声を漏らした。

「フレディ、そんなんじゃダメだぞ。人生は長いんだ。恋人とドライブして、それで終わりじゃない。その先を考えなきゃ」

「じゃ、じゃあジェイソンは考えてるの?」

フレディが口を尖らせながら尋ねると、ジェイソンは誇らしげな笑みを浮かべた。

「見てみろ、これ」

ジェイソンは雑誌のページをパラパラと捲り、フレディに差し出した。芝生の庭で仲良し家族がバーベキューをしている。晴天の下、グリルの前の若い父親がステーキ肉を焼き、小さな男の子と女の子の兄妹が皿を持って肉が焼けるのを待っている。そして、瓶入りのバーベキューソースを持った母親がカメラ目線でこちらを見つめている。フリル付きの白いエプロンを着け、上品なピンクの口紅に彩られた口元が優しく微笑んでいる。

「こんな風に、幸せな家庭を築くのが俺の夢だ。もちろん、その前にドライブやコンサートに一緒に行ったり、デートを重ねてさ。家族を養えるだけの基盤を固めるのも忘れるな。それから結婚して、愛する妻に可愛い子供たち。仕事が休みの日は、こうやってバーベキューをしたり、芝生の手入れをしたり、みんなでピクニックに行くんだ」

大きな目を誇らしげに輝かせて語るジェイソン。

「う、うん……すごいね」

圧倒されてしまったフレディはそれだけ言うのが精いっぱいだった。


「俺その時まだ十三歳でさ、結婚して家庭を築くなんて考えられなかった。その広告の女性は、妻なんかじゃなくて母親としか見えなかったんだ。俺の持つことができなかった、きれいで優しい理想の母親にしか。もしかしたら、その頃ジェイソンにはガールフレンドか、好きな女の子でもいたのかも知れない。だけどガキの俺には、ジェイソンの話は全然ピンとこなかった……」

キッチンカウンターに両肘をつき、独り言のように話すフレディ。激しさを増す雷鳴と雨音にも気付いていないようだ。

「もう少しで夢が叶うところだったのに、何でこんなことになっちゃったんだろう……。不公平だよ」

やりきれない溜息を吐き、フレディはカウンターに置いた腕の中に顔を埋めた。

 マリアはフレディの肩にそっと手を置いたが、彼の身体はピクリとも動かない。改装途中で放置されたこの家と同じように、フレディもジェイソンとの思い出の中に囚われ、時を止めてしまったように感じる。出会ってから、フレディに対して時折感じる不安がまた襲ってきた。一緒にいるのに、どこか遠くを見ているような、心だけ手の届かない遥か彼方へ行ってしまったような気がするのだ。

 どれくらいの時間、そうしていたのか分からない。数秒にも数時間にも思える。どんなに時間を掛けたとしても、フレディの心の傷は癒えないのだろうか。

「フレディ……」

呼び掛けると、やっとこちらを向いた。

「あ、ごめん。どうしたの──」

無理やり起こされてまだ寝ぼけているような、ぼんやりとしたフレディの顔を両手で挟み、その半開きの口にマリアは自分の唇を押し付けた。

「なっ! ちょっ!」

フレディは慌てふためいたようで、しばらく両手をバタバタした後、マリアの両肩を掴んで引き離した。

「どどど……どうしたの?」

真っ赤な顔のフレディが裏返った声で問うてくる。

 ただ、フレディのことがたまらなく愛おしくなり、自分を見つめてほしかっただけだ。それで衝動的にキスをしてしまった。でも彼は今、ジェイソンへの悲しみにうちひがれているのに、自分の感情を押し付けて。あまりにも利己的ではないか。そう思い、マリアは心の中で自分を罵った。でも、もう後戻りはできない。

「わ、私じゃ……慰めになりませんか……?」

「…………」

フレディは黙りこくり、肩を掴む両手の力が少しだけ強くなった。

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