破られた扉と小さな密告者
「用意はいいか?」
「あ……ええ、はい……」
ハケットはぎこちなく肩を揺らしながら助手席のドアを開けた。防弾チョッキが重くて馴染まないようだ。まったく、軟弱なやつめ。
害虫駆除業者に扮したヴァンから降り、容疑者が住んでいるというアパートの前に立つ。ゴミが散らばる入り口は薄暗く、その上に伸びる階段は、永久の暗闇が待つ洞窟のようだ。そこに囚われたマリアを想像する。光のない牢獄で鎖に繋がれ、本来は瑞々しい桃のような頬を恐怖の涙で濡らしている。
「ゆ、許せない……」
今すぐ助けに行くぞ。待ってろ、マリア。
「うわぁ、汚い通りですね。なんか臭うし。ひぇぇ!」
文句を言いながら歩いてきたハケットは、ヴァンに描かれた憎々しく笑うゴキブリを見て飛び上がった。
「ああやだなぁ、オクラホマの僕の家には、こんな生き物いませんでしたよ。母がいつもきちんと管理してましたからね。そりゃぁ、庭で蜂とか蝶は見たことありますよ。でも、家の中にこんな虫がいたら……ああ! 想像しただけで鳥肌が立ってくるぅ!」
うるせぇなぁ。今頃、オクラホマにあるハケットの実家が、シロアリか何かで崩れていればいいのに。だいたい、こんな虫なんかにビビッてて、凶悪な犯罪者に立ち向かえるのか?
「ああ……この拳銃、重いなぁ」
無理だな。
もうバカに構っていられない。俺がアパートの中へ入ると、後ろからハケットがぎこちない足取りでついて来た。そしてその後ろには、黒ずくめの特殊部隊が、暗がりに流れる影のように足音もなくやって来る。やけに静かな廊下。このアパートに住民がいるのか、と疑わしくなるほどだ。
クロフォードの部屋の前に辿り着き、ドアをノックする。
「ごめんください。ミスター・クロフォード。害虫駆除の件で来ました」
応答はない。しかし、薄いドアは壁との間に隙間があり、そこから室内で何者かがカサカサと動く気配が感じられる。ドアノブを回したが、鍵はしっかりと掛かっている。
「よし」
特殊部隊にドアを破るよう合図を送る。ドアが薄いうえに人質がいるため、散弾銃は使えない。奥から破城槌を持った一人がニンジャのように音もなく出てきた。隊員はみな物静かでも、やることは派手だ。破城槌を後ろに引くと、思い切りドアにぶち当てた。やわな錠前と蝶番はいとも簡単にぶっ壊れ、ドアは轟音と共に部屋の内側に倒れた。もうもうと立ち込める埃などものともせず、特殊部隊は部屋に突入した。
「クリア!」
「クリア!」
「オールクリア!」
キッチン付きの居室にバスルームだけの小さな部屋だ。容疑者も人質もいないことは数秒で分かった。
「お疲れ様でしたぁ! いやぁ、かっこいいですねぇ!」
いまだ埃が舞う部屋から引き上げていく隊員たちに、ハケットが愛想よく声を掛ける。まったく、子供みたいにはしゃいで。隊員たちも呆れているんじゃないか。
特殊部隊と記念撮影しているハケットを無視し、クロフォードの部屋へ足を踏み入れた。予想外に片付いている。とても女性を監禁しているサイコパスの部屋には見えない。俺の経験からいうと、こういう輩の部屋には、ターゲットとなる人物の写真や資料などが山のように出てきたりするものだが。そう、偏執狂というか、ストーカー体質の奴が多いんだ。かといって、行き当たりばったりの犯行とも思えない。どこかに隠してあるのか。俺は家捜しを始めた。
バスルームもよく整頓されている。もしかして奴はシロなのかという思いが頭をよぎったが、それもシャワーカーテンを開けるまでの僅かな間だった。バスタブの上に、女物の下着と白いブラウスが干してあったのだ。マリアが連れ去られた日の服装と酷似したブラウスが。ここに彼女がいたことは間違いないようだ。
「ふん!」
この整然とした住まいがどこか苛立たしい。これじゃ、監禁じゃなくて同居みたいだ。彼女に対し、どこからか疑念が生じてくる。それを振り払いたくて、容疑者が人質を邪険に扱っている、という証拠が出てきてくれないものかと願った。
「うわぁ!」
居間からハケットの叫び声が聞こえてきた。
「何だ?」
慌ててバスルームから駆けつけると、顔面蒼白のハケットがダイニングテーブルの下を指差して震えている。屈んで覗いてみれば、特大サイズのゴキブリが瀕死の状態でのたくっていた。さっきドアの外で感じた、何者かが動き回る気配はこれだったのか。
「こんな不潔な環境で……」
激しい怒りと共に何とも言えない爽快感が込み上げてくる。ようやく馬脚を現したな、誘拐犯め。してやったりだ。
「あ、あとこれ見つけました」
いまだ震えの止まらないハケットが、手に持った手錠を差し出した。ジョークショップで売っているような偽物だが、か弱い女性を拘束しておくには十分だろう。
「押収しろ」
さっきの爽快感は瞬く間に消え失せた。鬼畜め。あの華奢な腕にこんなものを嵌めやがって。抵抗できない彼女に何をしやがった。
あまりの怒りに身体が震え出したその時、廊下でドスンという音が響き、俺は銃を抜いて振り返った。倒れたドアの向こう、アパートの廊下に中年の女が立っている。目を見開き、口をあんぐりと開けて。さっきの音は、女性が持っていた旅行鞄を落とした音だった。
自転車に乗ったカルロスが、フレディの住んでいるアパートの前に来た。今日、学校は休みなのだが、母親に豆乳を買ってくるよう頼まれたのだ。牛乳なら近所のデリにあるのだが、豆乳はビーチ近くのスーパーマーケットまで行かないと手に入らない。もうすぐ正午になるが、今日は朝から暑いうえに気温の上昇も激しく、外出なんかしたくない、などとブツブツ文句を言いながらも大好きな母親の頼みは断れない。
「あれ?」
フレディのアパートの前に害虫駆除のヴァンが停まっている。たしか昨夜も害虫駆除をしていたはずだ。宿題をしている振りをして、窓から外を眺めている時に目にしたのを覚えている。しかも違う会社だった。
カルロスは自転車に跨ったまま、ゆっくりとヴァンの周りを一周した。
背伸びをして運転席を覗く。
「……カーナビ、かな?」
やけにきれいな車内に、大きめのディスプレイが存在感を示すハイテクの装備。
「害虫を駆除する人達だから、やっぱりきれい好きなのか。それに儲かるんだなぁ」
口に出して感心してみたものの、何か腑に落ちない。昨夜停まっていた業者のヴァンは相当くたびれていたのに。
「おい! そこの坊主、何してる?」
振り向くと、濃紺のジャンパーを着た二人の男。しかめつらしい表情の背が高い黒人と、いかにもお坊ちゃんという感じの小柄な白人。
「なんだっていいだろ」
カルロスがムッとして言い返すと、声を掛けてきた黒人の方は眉間の皺をさらに深くし、威圧的に肩をそびやかして近付いてきた。
「ちょっとちょっと先輩、相手は子供ですよ」
白人の方がしゃしゃり出てきた。何か他人をすごくバカにしたような態度で、はっきり言ってカルロスはコイツの方がムカついた。「俺に任せろ」とでも言いたげに先輩とやらの肩を叩き、カルロスに向かって腰を屈める。
「君ねぇ、他人の車を覗くのは悪いことだよ。誰にだって見られたくないものはあるだろう? 分かるかな? 例えば、君の家に突然、移民局の人間が来たら困るだろう?」
カルロスはさらに腹を立てた。
「おい、ふざけんなよ。俺の先祖はなぁ、ここがアメリカになる前から住んでたんだぞ。れっきとしたアメリカ人だ。お爺ちゃんは軍人で、アフガニスタンにも行ったんだぞ」
「そ、それは失礼しました」
毅然としたカルロスの勢いにひるんだのか、相手は萎縮して後退った。
「ざまぁみろ」とばかりに胸を張るカルロスに、先輩とやらが一枚の写真を差し出した。
「ちょっと訊きたいんだが、この男性に見覚えはないか?」
写真にはカルロスがよく知っている男が写っている。
「知らねぇ、こんな貧乏臭いヤツ!」
写真を持った男の手を押しのけ、力一杯自転車を漕ぎ出してカルロスはその場を後にした。男の鋭い視線を背中に感じながら。
あまりにも天気がいいため、マリアは少し遠回りをした。陽射しを受けて輝く海が見たくなったのだ。砂漠のモーテルから真っ直ぐ西へ車を走らせ、海岸線を流してからフレディのアパートへ向かった。
ラジオから流れるポップスを二人で口ずさみ、緩やかな上り坂を走る。すると、自転車に乗って坂を下りてくるカルロスが見えた。視線が合うとカルロスは力一杯ブレーキを握り、後輪を少し浮かしてから停まった。何かがあったと直感したマリアは、カルロスの傍まで進んで車を停めた。
「なぁ、なんかヤバイの来てるぜ。警察……じゃないな、あの感じ。役人、もしかしたらFBIかも。ドラマによく出てくるようなヤツ」
「…………」
マリアは助手席のフレディと顔を見合わせた。
「ど、どうしよう……」
次第に蒼ざめていくフレディとは対照的に、マリアは冷静に頷いた。モーテルの駐車場でマシューズに電話をした時から、何故だかそういう予感がしていたのだ。カルロスに礼を言うと、財布から小銭を出した。
「え? いいよ、そんなの」
戸惑い顔のカルロスがマリアの手を押し戻した。
「いいのよ、何かお菓子でも買って」
そう言ってカルロスの手に小銭を握らせると、車をUターンさせた。
カンクンへ移る前、住んでいた村の主な産業といえばコカインだった。地元の警察はみな賄賂を貰い、見て見ぬ振りだったから脅威ではない。警戒すべきは、政府の役人や敵対するギャングだ。よそ者を見掛けた子供たちは、誰か大人にそのことを教えに行く。そうすると、きまって小銭を貰えるのだ。その村の子供達の間では、それが小遣い稼ぎとして定着していた。
「ちょっと待てよ。カルロスをギャングにするつもりか?」
マリアの説明を聞き、フレディは強い口調で問い質した。
「そ、そんなつもりは……」
突然怒り出したフレディに、戸惑ったマリアはしどろもどろで答えた。しかしフレディの叱責は止まらない。
「アイツ、歳の割に身体が小さくて、よくからかわれてたんだ。スクールバスに嫌なヤツがいてさ。一度、アイツが朝バスに乗り込む時に、身体の大きな生徒に頭を叩かれてるのを見たことがあるんだ。だから、スクールバスに乗らなくてもいいように俺の自転車をあげたんだ。アイツの家には赤ちゃんがいて、でもお母さんはシングルマザーだからカルロスまで手が回らないみたいで。いつも一人ぼっちなんだよ。アイツ強がりだから、助けてくれなんて言わないけど……」
フレディがカルロスをとても気に掛けていることは分かった。でも、金を渡したのは単に習慣であって、決して悪意があったわけではない。
「ご……ごめんなさ──」
小さな声のマリアの謝罪はフレディには聞こえず、言い終わることもできなかった。
「だいたいさぁ、ここはアメリカ。メキシコとは違うんだ」
確かに、情報をくれた見返りに金を渡したのは軽率だったかも知れない。それでも、フレディのこの言葉には、さすがのマリアも頭にきた。
「ひどい! あなたがそんな偏見を持ってるなんて思わなかったわ! 言っておきますけどね、あの村で作ってたコカインの顧客は、ほとんどがアメリカ人だったのよ!」
「話がずれてるよ! 俺は、カルロスに悪いことを教えないでくれって言ってるの!」
相手の母国を先に侮辱したのはフレディの方だ。確かに上品な育ちではないが、この男にそんなことを咎められる筋合いはない。
「なによ、誘拐犯のくせに」
その捨て台詞にフレディの顔は引きつり、言葉が止まった。
「あのガキ……」
自転車で去っていく少年の背中、どこかソワソワしていて落ち着きがない。何か知っているようで気になる。尾行しようか。
「ちょっとアンタたち!」
車に乗り込もうとした俺達に背後から声が掛かる。クロフォードの部屋の前に立っていた女だ。
「壊したドア、ちゃんと弁償してよね!」
腰に手を当て、怒りの形相で詰め寄ってくる。ハケットは「キャッ!」と女のような悲鳴を上げ、一目散に助手席へ乗り込んでしまった。ちゃっかりしてやがる。
そうこうしてるうち、陰湿な目つきの女が俺の前に立ちはだかった。そして背後には、不敵な笑いを浮かべるゴキブリの絵。多分、地獄ってのはこういう所なんだろう。
「アンタが責任者?」
面倒臭いことになりそうだなぁ。




