4-9 相棒
闇より黒い、ゲル状の概念体の触腕が伸びてくる。
アライグマの俺とコモドオオトカゲの湯谷さんは、瞬間的に飛び退いた。
Olsisアプリはフリーズし、強制終了もできないまま、黒いナメクジに侵食されていく。
既に事務所の半分が抉られ、端から塵となって消失した。
接続が揺らぐ。周囲の構成物にノイズが走る。
目の前には、さっきより明らかに質量を増した黒い怪物。
その巨大な口が開いた先にいるのは、捕縛されて身動きの取れないキツネのアバター、つまり紺野だ。
「お、おい! 早くログアウトさせろ——」
捕縛解除の操作は、間に合わなかった。
ブラックホールを思わせる口腔が、瞬きする間にキツネを丸呑みする。
「ぁギャァアアァァァ……!」
断末魔のような不快な悲鳴を聞いた。ビリビリと五感に響く刺激の余波だけが残る。
「こ、紺野さん、どうなったんでしょう」
「このフルダイブ空間に強制接続された状態で、ユーザーの神経にまで響くプログラムに侵食されたんで……まあ肉体にもダメージ喰らってるでしょうね」
「えっ……」
「自業自得ですよ。湯谷さんが気にすることじゃない」
下手すると、現実世界で廃人になっているかもしれない。
自分の作ったプログラムの攻撃を、自分でマトモに食らったのだ。同情する気は微塵もない。
どれだけ言葉を交わしたところで、理解することも許すこともできない相手だった。
Olsisアプリが形作っていたサイバーシティはすっかり消え去り、俺たちは再び端末空間に放り出された。
「あっ……」
本人の姿に戻った湯谷さんが声を上げた。
「まずい、今ので外部回線が遮断されました。チームと連絡取れません」
「うわっ、フルダイブシステムにも異常が出てるし。これじゃ現実に浮上できない」
慌てる人間たち。
AIたるフルールだけが冷静に告げた。
「損傷の修復は可能だけれど、まずは脅威を排除する必要があるわ」
改めて、黒いナメクジと対峙する。変わり果てた姿となった、俺の相棒と。
紺野自体はどうでもいい。メメに、メメだったものに、あんな奴を攻撃させてしまったことが悔しい。人間を傷付けるようなAIじゃなかったのに。
俺と湯谷さんの隣にそれぞれ、スターりんとフルールが並ぶ。
「メメさん、なんとおいたわしい……元には戻せないのでしょうか」
「無理ね。完全に作り替えられてしまっているもの。ワタシたちにできるのは、プログラムを完全停止させることだけよ」
紺野の言う通り、メメはただのプログラムだった。ただのデータの集積だった。
だけど。
——人の望みがあるからこそ、AIの存在意義は生まれるんだ。
——つまり、アキトがいるから、ボクは存在する。
そうだ、俺は。
自分で望んで、メメを作ったんだ。
一緒に仕事をしたり、日常生活の手助けをしてくれる、唯一無二の相棒を。
『ア……キト……』
肥大した黒いナメクジが、切れ切れに俺の名を呼ぶ。
「ごめんな、メメ。苦しいよな。早く終わらせよう」
俺は再び仮想テキストエディタとキーボードを出現させた。
ナメクジがこちらへ向かってくる。
俺は無効化コードを打ち込み、黒いモヤを消失させていく。
湯谷さんが加勢に入ってくれる。
フルールは今一度、防護膜を展開する。
スターりんは俺の後ろに隠れる。
心なしか、ナメクジの増殖スピードが上がっている。俺の対抗プログラムを学習したことで成長し、紺野のコントロール下から外れたのだ。
端末空間のあらゆる箇所で侵食が進んでいた。既に複数のアプリやシステムが破壊されて、使い物にならなくなっている。
湯谷さんと二人がかりでも、防御の手が間に合わない。
「アキトさん、ナメクジさんたちがこちらに集まってきております!」
「この黒ナメクジさ、メメに関連するデータにはいっそう強く働くように組まれてんだ」
「つまり?」
「俺の中にあるメメの記憶に引き付けられてる。攻撃喰らったら、それこそヤバい」
防護膜の一部が欠けて弾け飛ぶ。
じわじわと侵食の範囲を拡げる黒い塊を、俺は手早く消し飛ばす。
「くそ、キリがねえ! 湯谷さんたちだけでも、先に上がってもらおうかと思ってたんですが……っ!」
「いえ、覚悟の上で来てますから!」
「すいません、今度メシ奢りますんで!」
「お構いなく!」
さらっとフラれた気がしたが、今はそれどころではない。
擬似的なアバターを使うフルダイブ空間とはいえ、現実世界にある肉体には疲労が蓄積されていく。
だんだんと俺の集中力も途切れて、ミスが増えてきた。
「ああ、もう、どうすりゃいいんだよ……!」
対応が間に合わない。わずかでも気を抜いた隙に、どんどん侵食は進む。
最悪のシナリオが否応なく頭を掠めていく。
「アキトさん、あちらをご覧ください!」
スターりんの声で顔を上げる。
緑の毛に覆われた手が示す先、外付けHDDのデータ領域に、一つだけ無傷のフォルダがある。ただし、鎖で雁字搦めに縛られ、南京錠で留められた状態の。
暗号化された、メメのバックアップデータだ。
どういうわけか、そのファイルだけはナメクジに襲われても無傷のままだった。メメのデータなのに。まるで結界でも張られているかのように。
ハッとする。
「そうだ、あのバックアップ!」
メメ自身が暗号化したデータだ。
——どうせボクがいないと何もできないでしょ。せいぜい頑張って鍵を開けることだね。まあ、翼でもなけりゃ無理かな。
俺の隣にいるのは、翼の生えたパンダである。
「スターりん、あそこまで飛べる?」
「あの地点まで、ですか。途中、侵食されているエリアの近くを通過せねばなりませんが」
「俺がギリギリまで抑え込む。お前の背中の翼が解除のキーなんだ」
「なるほど、承知いたしました。メメさんにいただいた翼を活用できるならば、本望でございます」
「ありがとう」
「とんでもございません。これにより、自分の生まれた理由はこのためなのだと、わたくしは自分で定義することができます」
イケボで微笑む緑のパンダは、パンダなのにイケメンだった。
「防護膜は私が守ります。安藤さんはデータの方を!」
「了解です! お願いします!」
湯谷さんにフォローを任せる。
スターりんが飛び立つのと同時に、俺は経路上の侵食を阻むためのコードを書く。
増殖を一瞬抑えたところで、悪性プログラムはすぐに復活して湧き立ってくる。
速く、もっと速く。集中を切らすな。少しでも速く正確なコードを打ち込め。
俺は天才でも何でもない。やれることを馬鹿みたいに繰り返すことしかできない。
それでも、必ず活路を拓く。
驚くべき速度で追い縋るナメクジの触腕。それらを見事な反応で悉く躱しながら、目標へ向かって飛ぶスターりん。
触腕の一つが、彼の片脚に巻き付く。
「なんのっ!」
這い上がる黒に臆することなく、翼が大きく羽ばたかれる。
捕えられた片脚が消失する。
緑の片手が目一杯伸ばされる。
その爪の先が南京錠に触れた瞬間。
眩い光が大きく弾け、空間全体を覆い尽くした。
「うわっ……」
俺は堪らず目を瞑る。
一瞬の静寂。
いったい、どうなったのか。心音がうるさい。
恐る恐る瞼をこじ開けるうち、聞き慣れた懐かしい声が耳に届いた。
「やあ、手こずってるみたいだね」
頭上から、ゆっくりと舞い降りる小柄な人影があった。
鮮やかなオレンジ色の髪は燃えるよう。水色の瞳には理知的な輝きが灯る。
我が相棒・メメは、背中に生えた純白の翼を大きく広げ、細かな光の粒子を纏いながら、この穢された電子空間に降臨した。
「メメさん!」
いつの間にか隣に戻っていたスターりんが歓声を上げた。その背からは翼が消えている。軽快なステップを踏むための大事な片脚も。
「やっぱり、アキトにはボクが必要だね」
まるでいつもと変わらない生意気なセリフを口にしたメメは、空中に身を浮かせたまま、周囲をぐるりと見渡した。
「状況は把握した。悪性プログラムを排除して、ここから脱出しよう」




