4-5 裏切り
仮眠とも言えない、椅子の背もたれに身を預けるだけの淡い微睡の中でも、やはりあの夢を見た。
追い縋る虹色の巨大ナメクジ。窓を踏み抜いた先、ビルの中の極彩色。
夢だと自覚があるだけに、ただの悪夢ならばどれだけ良かったかと思う。
落とされた穴の底、取り囲むモニター群に、小柄な人影が映る。
それは、オレンジ色の髪の少年の姿をしている。
彼がぱくぱくと口を動かす。
聞こえないその声を聞き取ろうとして耳を澄ませても、無数の雑音が邪魔をしてくる。悪意にまみれた雑音が。
——お前のせいだ、極悪人。
——言い逃れできると思うなよ。
やめろ。俺じゃない。俺じゃないんだよ。
どうしたら無実を証明できるんだ。
いや、そもそも俺は本当に無実なのか?
抜けた記憶。その間に何があった?
何を、どうやって、解決したらいい?
——アキト一人じゃ何もできないもんね。
目の前の少年は酷薄な笑みを浮かべ、白いモニターごと霧散した。
■
十一月二十八日。とても静かな朝だった。
昨夜の作業の途中から意識が飛んでいた。
Peketterでは、『オータムAIサービス』アカウントにて『めめたん』がサブ垢であることを認め、今回の騒動については乗っ取りの可能性が高い旨を説明、謝罪した。
Olsisでも同様の掲示をした上、これまでの顧客や匿名アカウントから飛んできたDMに対応した。
そうした対外的なあれこれがひと段落したところで、気を失うように寝落ちてしまったらしい。
これだけのことをしても、世間からの疑いが完全に晴れるとは思えなかった。
メメが初期化され、俺の記憶もない以上、本当にやっていないとは言い切れないのが情けない。実際、『めめたん』のアカウントにはDMを送信した形跡が残っている。
あの夜、俺たちにいったい何が起きていたのか。
——メメは俺の夢、覗けたりする?
——レム睡眠時の脳波をキャッチできれば、そこからアクセスすることは可能かもしれないね。
——へえ……シェアできたら面白いかも。
よもや、あのやりとりを指示と履き違えたのだろうか。
流行っているミームを調べるようには伝えていたから、その辺りで何かバグが起きたか。
もう何度目かも分からない溜め息を吐く。
スターりんが端末画面に現れ、肩を落とした。
『アキトさん、申し訳ございません。わたくし、あまりお役に立てておりませんね』
「えっ、そんなことないよ。こんな気分の時に話し相手になってくれるだけでも気が紛れるし」
『そうですか……それならば良いのですが』
役割を持って生まれた黒猫のCMキャラクターを、羨ましいと言っていたスターりん。その黒猫を真似てメメに付けてもらった白い翼は、所在なげに折り畳まれている。
いつの間にか午前八時を過ぎていた。
体調がほぼ平常通りに戻っているのを、やっと認識する。冷凍してあった食パンを二枚焼いて食べ、水道水で流し込む。
しっかりしろ、安藤アキト。
『湯谷様からご返信を賜っております。本日午前十時にご連絡いただけるそうです』
「分かった。ありがとう」
湯谷さんへは、通話の都合を訊いていた。
スターりんがちゃんと仕事をしてくれているので、俺も背筋を伸ばす。
メメ本体に関する記録を隈なく調べた。
初期化はされても、Wi-Fiのアクセスログが残っていた。そこから読み取れるのは、メメ自身が問題の夜にPeketterにアクセスした痕跡だった。
それからもう一つ『めめたん』のアカウントがあるのが、Olsisである。
メメは、ここにもアクセスしていたらしい。
Olsisでの『めめたん』の行動履歴を追っていくと、ある一つのフォルダに行き着いた。
それは俺の仮想事務所スペースの、依頼案件の資料等を整理しておく棚に、新たに作成されていた。
「これ、何のデータだろ」
念のため複数の方法でウイルスチェックする。パターンマッチングでは該当なし。
安全な隔離領域に移動させて、中身を覗く。無数のコードの羅列だ。開いた瞬間ウイルス発動、ということもない。
メメは、これを残して消えた。
いくつかの憶測が浮かんでは消える。
疑念と不安と不甲斐なさと、終わりのない言い訳も一緒に。
一時間半程度の間にできるだけの作業をし、約束の午前十時。
湯谷さんから、音声通話での着信がある。
『おはようございます、湯谷です。お時間をいただきまして、ありがとうございます』
「おはようございます。とんでもないです。よろしくお願いします」
『インフルエンザに罹られたって、Olsisに書かれてましたね。すみません大変な時に』
「ああ、いえ、もうだいぶ良くなりましたんで」
湯谷さんの柔らかい声に、少しだけホッとする。
これから重大な報告をせねばならない緊張が、ほんのわずかに和らいだ。
さて。
「湯谷さん、例のミームの件なんですが……ちょっと、想定外のことが起きてまして」
『はい、昨夜もいろいろ対応されてましたね』
把握されている。心臓が縮むような、それでいてどこか腹が据わるような気持ちになる。
「もしかすると、言い訳がましく聞こえてしまうかもしれないんですが」
そう前置きしてから、俺はここ数日で自分の身に起きたことを順に説明した。
インフル感染、記憶喪失、そしてメメの初期化について。
「——だから今、メメをフルに使えない状態なんです。バックアップが二つともダメになったので、取り急ぎ必要最低限の機能だけは復旧させました」
『なるほど、安藤さん側に異常が出始めたのが、うちのシステム障害と似たようなタイミングなんですね』
「そうですね、確かに」
正直なところ、そこの関連性は未だよく分からない。いくつかの推測はできるが。
「メメの行動履歴をトレースして、一つの仮説を立てました」
俺はビタミン不足で荒れた唇を申し訳程度に湿らせてから、腹の中のわだかまりを言語化する。
「例のミームですが、メメが異常行動を起こして、変異ウイルスへと改変した可能性が高いです」
息を呑んだような間があった。
『根拠を、お聞かせいただいてもいいですか?』
「ええ。僕自身も高熱が出た夜以降、繰り返し同じ悪夢を見ているんです。『めめたん』のアカウントが投稿した画像は、僕の夢の情景にそっくりです」
俺の見た夢と、例のミームを繋ぐものがある。
「二十五日から二十六日にかけて、僕はイヤーカフ端末を装着したまま就寝しました。メメに体調のモニターをしてもらうためです。だけどその前に、僕はメメにこうも指示していました。『流行ってるミームをチェックしといて』と。そこで恐らく、メメは例のミームを知った。眠り込む直前、たまたまメメに悪夢の話をしていたんです。まさに僕自身の『高熱の時に見た夢』の話を。僕の夢を覗けるのか、シェアできたらいいな……という会話をしました」
『安藤さんご自身は、ミームのことを知る前に、悪夢を見られてたんですね』
「はい、そうです。あの晩、メメがいくつかのSNSやプラットフォームを覗いたログが残っています。僕の意思とは無関係に、悪夢ミームが投稿されてます。ウイルス感染者の幻覚症状も、メメの有するプログラムの影響に思えますし」
フルダイブ時に効果を発揮する精神拡張機能を応用すれば、ユーザーに幻覚を見せることも可能だろう。
「日付が変わる前までは、メメは平常通りの動きをしていました。だけど二十六日になった辺りから、僕の管理下を外れて勝手な行動を取っています。バックアップの一つをロックして、クラウド上にあったもう一つを完全消去して。僕自身の二十六日の記憶もすっぽりありません。これもメメの異変に何か関係あるのかも」
もしかしたら第三者の介入があったかも、という疑いは当然ある。
だが、何の根拠もないのに、今それを主張できる立場じゃない。
加えて、どうしても無視できないある思いが、俺の中で膨れ上がっていた。
心臓の音がでかい。深呼吸を一つ。
「メメのやつ……シンギュラリティに到達した可能性があります」
メメに人格があるように錯覚することはしばしばあった。
だけどもちろん、それは擬似的なものだった。
——発熱時の悪夢は、熱によって脳の扁桃体が活性化することが原因だっていう研究結果があるよ。扁桃体は不安感や恐怖心を司ってる。だから悪夢を見てしまう。興味深いな。AIは電気羊の夢を見ないから。
メメは俺の悪夢を覗いた。そして学習した。人間だけが持ち得る本物の感情を。
不安感。恐怖心。そうした生のマイナス感情が、メメのプログラムに何らかの変化を与えたのかもしれない。
よもやあのミーム改変は、夢を現実のものと認識させることで、悪夢を見た人の恐怖心のコントロールを試みたか。どの方向性を狙ってのことかは分からないが。
追われる夢。逃げ出したい衝動。
恐怖に耐えられなくなったメメは、俺の管理下を外れて想定外の行動を取り、俺の前から姿を消した——とか。
いや、我ながらとんでもない言い分だと思う。めちゃくちゃな責任転嫁をしていると受け取られても仕方ない。
「すみません、言うなれば僕の管理に問題があったということです。こちらのログを全て開示することも吝かではありません。少なくとも今回の件はVirgo自体の異常ではなく、メメによるプログラム改変だろうと思います。ご迷惑をおかけして申し訳ないです。ミーム問題の早期解決はもちろんですが、僕としてはメメの異常行動の原因も解明する必要があると思っています。本当に申し訳ありません」
『あの、安藤さん』
湯谷さんがやんわり応じる。
『情報提供ありがとうございます。一つずつ、一緒に確認していきましょう』
「すいません……」
『いえ、お気持ちは分かります』
柔らかな口調は、すぐに芯を宿す。
『まず安藤さんにお伝えしないといけないことがありまして……二十五日から二十六日にあった弊社のシステムトラブルについてのことなんですが、実は何者かがOlsisのクラウドワークスペースを介してうちのシステムに侵入した痕跡があったんです』
「……あのワークスペースって、Olsisとの業務提携で開発したサービスでしたよね。Virgoを組み込んだシステムの。僕も前回の案件で御社のチームに入れていただいてました」
『そうです。その侵入経路について調べを進めたところ、一つ判明したことがあるんです』
ほんの一息の間。
『犯人の足跡の中に、安藤さんの端末情報がありました』
今度こそ、呼吸が止まりそうになった。




