【154】弓術大会-中断中の
ふわふわしている。
くらくらしている。
(ここは――)
意識に霧がかかったような感覚。
けれど、見るべきものだけは分かっている。
(矢を――的に当てないと――)
耳に何か嵌っているように、音が遠い。
何かが届いても、頭の中が白く塗りつぶされて、分からなくなる。
(外す訳にはいかない――絶対に――)
弓を手放してはならない。
矢を射なければ。
大会の、前日。久方ぶりに二人で話をする時間を、ルイトポルトは作った。忙しいだろうに、わざわざ。そうして若い主人は、ルキウスに言った。
――「ルキウス。どうか最善を尽くしてくれ。お前の活躍を、私は信じている」
頑張らなくていいだなんて慰めではなく、ただ真っすぐな信頼。
(どこまで出来るかは分からないけど。俺なんかが優勝出来るかは分からないけど)
ルイトポルトに期待されている。
それは、ルキウスにとって、全力を尽くすに足る。そう思った。思えた。
その少し前にデバルに――ゲッツ時代の知り合いにあったからこそ、そう、思った。(もう昔の事だ。忘れられてたって関係ないだろう。俺はもうゲッツじゃない。もうルキウスなんだから。だから、昔の関係者だって、関係ない、俺には関係ない)そう頭の中で何度唱えても、胸の中の果てのない霧は晴れない。それは今も変わらない。
でも霧の中にいても、見えている光はある。それに向かっていく事は出来る。
(しなくちゃいけない。俺は、ルイトポルト様に与えられたものに、報いなければ――!)
◆
「力が入り過ぎては良い矢は射れぬぞ、若人」
まるで強い風が霧を吹き飛ばすようだった。その声が耳に入った瞬間、ルキウスの視界に、聴覚に、周りというものが入ってき始めた。
「ヒュッ!」
人間は呼吸をしなければ生きていけない事を思い出した体が、急いたように空気を吸い込む。ぐらついて、一歩、足が後ろに倒れる。思ったより力が足に入らなくて、焦ったまま踏ん張る。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
息が苦しい。その理由がルキウスには理解できず、混乱する。
先ほどまではあれほどいた人間がいない。ルキウスはそう思った。
(今、何を? 試合は? どうなった? どうして人がこんなにいない?)
必死に記憶を遡る。が、枠に入り、弓を構えたところから、記憶がどうしても思い出せない。何かつかみどころのないような感覚だけが胸に残っているものの、それが何であったかの判別がつかなかい。
片方しかない目で、必死に状況を把握しようと、周囲を見る。
「おぉーい」
声に反応して振り返る。そこには、プロェルス・ビーフブラッドルビー子爵が座っている。彼以外の人間は、プロェルスの近くで水や軽食を持っている侍女以外にいない。状況が読み込めないでいるルキウスに対して、プロェルスは自分が座っている隣、もう一つ用意されている椅子を親指で指さした。
「まあ、座れ」
気が付けばルキウスは指示されたまま、歩いて、壁際に寄った。日陰に入った途端、ドッと肩が重くなった気がした。椅子に座ると、膝が震え、これ以上立っていられるのか、不安を覚える。
「随分と集中していたな。その様子だと、意識は精霊様の所にでもいってたか?」
「……」
「おおっと、その前に水でも飲まないと、その汗じゃあ倒れるな。水を」
プロェルスが侍女に声をかけると、控えていた侍女はすぐさま水を用意し、ルキウスに渡す。それを受け取って水を飲んだ瞬間、急速に力が戻ってくるような気がした。
「良い飲みっぷりだ! もう一杯!」
と、プロェルスは酒か何かを求めるかのように、水を用意させ、ルキウスに呑ませた。
「汗は冷えると面倒だ。拭いておくといい」
と言われ、渡された布で拭える範囲の汗をぬぐう。布がしめったのを見て、自分がどれだけ発汗していたか、ルキウスは気が付いた。
随分水も飲んだのに、口の中がべたつく。汗を流し過ぎたのかもしれないと思い、ルキウスはもう一杯、水を飲んだ。
「どこまで記憶は残ってる?」
と、プロェルスから尋ねられたのは、ルキウスが落ち着いた頃だった。
「……その、並んで、矢を構えた所ぐらいまで、は」
「なんだ、お互い五十以上撃ったのは覚えてないのか!」
「ごっ……ごじゅっ……?? え?」
相手が貴族な事も忘れて、ルキウスは素っ頓狂な声を上げる。
ワハハハ、と豪快な笑い声をあげているプロェルスを、目を瞬きながら見上げた。
「今は大会が一旦中断されている。このままではワシとお主のどちらが上か、決まらないと判断されたのよ」
「……何故そんな、事に」
「ワハハハ! 主もワシも、ちっとも矢を外さないせいだな! わざと外す訳にもいかんのだから、仕方ないというのに、途中から恨めし気な視線が煩わしかったなあ?」
「……」
「覚えていないのだったな!」
ワハハハ、とプロェルスが笑う。
矢を外さなかったというが、その過程が思い出せない。
(何がどうなってそんな事に。あれほどいた人全てが、もう脱落している、という事か? それで、俺とビーフブラットルビー子爵だけが、残っている?)
とっくに痛みはなくなっているのに、癖で、ない方の目を手で抑えた。
「痛むのか?」
「っ、いえ。痛みは、もう、随分と前から、ありません」
「そうか。事故か?」
「そのようなものです」
答えてから、(何故素直に答えているんだ)と思った。
初対面の相手、当然ながら話をするのだって今が初めての相手だ。早々に尋ねられた事は随分とプライベートな事で、伝える事を拒絶しても良いようなタイミングだった。
けれどするりと、言葉が出てしまった。
(普通に話してしまった。いやでも、何だろう、何だろう、どこか……誰かに……)
何かを思い出しそうなのに、思い出せない。それが気持ち悪くて、もう一杯、ルキウスは水を飲んだ。
「そうだ。名乗っておらんな」
プロェルスが座っている椅子ごと、ルキウスに向き直る。ルキウスも慌てて、体の向きをプロェルスに合わせた。
「騎士、プロェルス。ルビー侯爵より、ありがたくもビーフブラットルビー子爵の位を与えられている」
「ルキウスと申します。姓も爵位もありません。ブラックオパール伯爵家が嫡男、ルイトポルト様の元で、侍従見習いをしております」
周囲にいた侍女たちが、少しざわついた。それは、ルキウスが騎士でもなければ騎士を目指している訳でもなさそうな肩書を名乗ったからであったが、ルキウスは気が付かなかった。
プロェルスは特に狼狽えもせず、片手をルキウスに差し出した。
「そうか。よろしく」
「よろしくお願いいたします」
握られた手はルキウスより一回り大きかった。歴とした成人男性であるルキウスの手が、まだ幼い子供の手のようにすら思える。大きさだけでなく、鍛え上げられた手は分厚く、そういう意味でも、子供の頃父に手を掴まれた時の記憶を思い起こさせた。
「その細腕で、よくあそこまで矢を飛ばすものだ。感心するぞ。ルキウス。お主は何歳から弓に触れるように?」
「子供のころです。最初は、父に、習って。小遣い稼ぎでしたが……」
父の仕事について、町の外に出ている間は、時折渇きや飢えに苦しむ事があった。荷物は多すぎても困るので、ある程度余裕はあっても、大量に食料や水を持って移動はしない。
定期的に町や村があれば食料をその時々に手に入れられる。が、全ての土地が、都合よく集落がある訳ではない。時には、予定より移動に時間がかかり、食べ物が質素になる事もあった。
そういう時は、弓を握って獣を狩りに行く。狩れなかったら余計に腹がすく。狩れれば、食べれる物が増える。
そんな思惑で弓を握った事はあれど、こんな大がかりな大会に出るようになるとは思ってもみなかったが。
「本格的に習いだしたのは、ここ数年です」
また、侍女たちがざわめく。けれどその声は、ルキウスにはあまり耳に入っていなかった。音としては届いていただろうか、意識出来ていなかった。
「数年か。なるほどな。弓の師はいるか?」
「細かい使い方を教えてくださったのは、イザーク・ブラックオパール様という方です。ブラックオパール伯爵家にて、第二弓兵隊隊長をしております」
「ほうほう。ブラックオパール伯爵家には弓兵隊が複数あるのか」
「第三までございます」
「素晴らしい! 数がない所に、優れた者が生まれる確率は低いからな。やはり母数が多くなければ。切磋琢磨するにも、張り合う相手がいるものだ」
(……そういう相手は、今までいなかったな)
イザークは師であり、競う相手ではなかった。少なくとも、ルキウスの認識では。
そのほかの弓兵をしていた騎士たちも、ルキウスにとっては、競い合う相手ではなかった。
強いて言えば、周りからの期待と張り合っていた、と言えるだろうか。
「弓を手に取るようになったきっかけは。侍従見習いならば弓よりも、剣や短剣の使い方を習った方が実用的だろう?」
実際、主人のすぐそばにいる事が多い侍従従僕といったものたちは、ある程度の近接戦闘を覚えさせられる。本格的でなくとも、最低限、主人の盾になる必要があるからだ。
父母を埋葬する墓欲しさに弓を習う事になった。
流石にそのまま告げると、訳が分からなさすぎる。
「えぇと……事情があって、成果を上げたかったのです。その際に剣も触りましたが、どうにも向いていないようだと判断されて、流れで触れたところ、イザーク様が才能があると、見出して下さり、特別に指導をしていただく事になりまして」
「成程なぁ」
言った後に、(いやだから、何故素直に答えてしまっているんだ!)と、自分の言動に突っ込んでしまう。
(いやだが、何か普通でないのは、多分、この方の方だ。貴族だよな? 貴族でこんな話しやすい雰囲気を出している事、あるか?)
ブラックオパール伯爵家の人々は、仕えている人間も含めて、殆どが貴族階級出身者である。完全な平民は、下男下女などの下働きぐらいだろう。
ルキウスの主観であるが、貴族は、平民とは纏うオーラが違う。
話しかけるのに少し戸惑いを覚えるし、別の生物という感覚すらする時がある。
温厚で、特段威圧感などを出していないルイトポルトやメルツェーデス、騎士であり比較的気さくなトビアスやオットマーが相手ですら、慣れるまでは言葉に詰まりがちだった。
まあ、これは、ルキウスが貴族に対して偏見を持っている部分も大きい。
貴族や、貴族の名を出して振舞う者に、理不尽な目にあった事は多い。その極みが、元妻に纏わる事件だ。
(俺が知ってる貴族とは、何か、違うような気がする。どういう違いかは、分からないけど)
「今大会へ参加した理由は?」
「……ピジョンブラットルビー伯爵子息であるカールフリート・ピジョンブラットルビー様が、私の主人であるルイトポルト様に持ってこられまして、参加する事に」
「では自分から参加を表明した訳ではないと」
「はい」
初対面の相手とは思えないほど、会話が進む。まるで流れる川の水のように、何かに躓く事もなく。
(不思議だ……)
口の中がまだ乾燥していて、ベチャベチャしていた。ルキウスが動くよりも先にプロェルスがまた侍女に声をかけ、水を渡された。お礼を言いつつ、またルキウスは水を飲んだ。




