【155】弓術大会-中断中のⅡ
水を再び口に含んでいると、プロェルスから、「軽食もあるぞ」と言われる。
「食べ物は……」
「食える時に食わねば力が出ないぞ。腹が減ってはどうにもならん!」
「!」
つい、目を丸くしてしまった。
プロェルスから差し出された、侍女たちが持っていた軽食と、プロェルスの顔を数度見比べる。
今の言葉で、ルキウスは、最初に感じた「何か思い出せないもの」の正体に気が付いた。
(……ああ、そうだ。どうしてこんなに、気が抜けるのかと思ったけれど。……この人は、どこか、父さんに似ている)
――「こらゲッツ。疲れてるなら食べるんだ。腹が減ってはどうにもならんぞ」
疲れ果ててもう動きたくないと文句を言う息子に、父はいつもそう言っていた。何かある時はいつも、ゲッツに沢山食べ物をくれた。「食べないと元気も出ない」と言いながら。
勿論、ゲッツの父親はプロェルスのように、鍛え上げた肉体などない。燃えるような赤い髪も瞳も持っていない。
それでもなんだか、父を彷彿とさせる。プロェルスとルキウスの間に、親子でもおかしくないぐらいの年齢差があるからかもしれない。
プロェルスに差し出された軽食を食む。
「……美味しい」
「だろう。ピジョンブラットルビー伯爵はあれで美食家でな、合理的な食事には、味も含まれているべきだと、ビーフブラットルビー伯とはいつも言い争いをしている。ビーフブラットルビー伯は、食えれば良いという御仁でな。今日食べれるものは旨いものばかりでありがたい!」
「ブラックオパール伯爵家も、いつもご飯が美味しいです」
言ってから(何言い返してるんだ俺)と、ルキウスは慌てた。
父を思い起こすからといって、父相手のような会話をしてよい訳がない。
しかしプロェルスは、年下で、地位も下である相手からの言葉を気にした風もなかった。
「うむ。良い舌を持つ料理人がいるというのは、良い事だ。ワシは野外飯が多いから、確りとした食事を食べる事は中々少ないものでな」
「携帯食ですか? 乾きものとか」
「それも多いな。干し肉はもよく食す。喉が渇くが、腹は満ちた気になれる」
「分かります。旅の途中、よく、勝手に盗んで勝手に食べて、喉が渇いて、勝手に水を飲んで父に叱られました」
「ワハハ、場が悪くなければ可愛らしい子の悪戯だ。……旅か。意外と野外活動の経験があるな?」
「父が、荷運びの仕事をしていたので。父について回って、色々な街に行きました」
「良い経験だ。生まれ育った土地から一歩も外に出ないという者は、この国の大半を占めている」
「そう、ですね。俺にとってはそれが普通の生活でしたけど……今にして思えば、とても恵まれていました」
昔を思い出し、目を細める。そんなルキウスを見ながら、プロェルスが言った。
「良い父君なのだな」
「はい。素晴らしい人でした」
ルキウスは即答した。
「俺に、いろんなことを教えてくれたのは、いつも父でした。文字の書き方も読み方も、地図の見方も、星の読み方も、空気の匂いも……」
旅をするにあたり、必要な事は、全て父から仕込まれていた。
騙されないようにと、文字を読んだり書いたりできるように。
迷わないようにと、地図や、星を見て場所が分かるように。
天気が悪い事に気づかず大変な目に合わないようにと、雨が近づいた時の匂いとかも、教えてくれた。
(でもそんな父に、酷い扱いを受けさせてしまった)
死後、墓を掘り起こされ、無様にさらされる。死人に対する最大級の侮辱と言える行為だ。
ルキウスが、変に貶められなければ、父も、母も、そんな目に合う事はなかったのに。
表情が暗くなるルキウスに気が付いたのか無視をしたのか、プロェルスは頷きながら言った。
「そうかそうか。そこまで思われる父君は幸福者だ」
「……そんな事ないですよ」
今でこそ、ブラックオパール伯爵家の領地に眠る事が出来たけれど、一度受けた屈辱は簡単には消えない。
「俺が息子だったせいで、ひどい目に合わせてしまったのですから」
「お主は今、不幸か?」
「え?」
突然の話題転換に振り落とされそうになりつつ、応える。
「……いえ。身に余る、幸運を、与えられています」
「では父君も満足だろう」
「は?」
「すべてがそうとは言わんが、大抵の親は、子の幸福が、一番の幸福だ。お主の親は、そういう人間だっただろうな。何せ、お主が、そういう親に育てられた子だと分かる」
目を開く。片方しかない目を。
きゅ、と唇をかみしめた。そうしないと、変な事を口走ってしまいそうだった。
半ば、記憶の奥に沈ませていた、ゲッツだった頃の記憶が、蘇ってくる。
思い出すと、辛い事も思い出してしまうからと、ずっと、目を反らしていた過去が。
(……いいのかな)
名を名乗る、ただそれだけの気力が起きなくて答えなかった。
名乗って、また、迫害されるのも怖かった。
そうして逃げた一人の男に、ルキウスという新しい名が与えられた。
そしてその名前だけを名乗って、ここ数年は生きて来た。
(今の俺でも、父さんや母さんの事を、自分の親だって、堂々と言ってもいいんだろうか。父さんたちは、名前すら捨てたように生きている俺を、認めてくれるんだろうか)
ゲッツだった頃には想像もしていなかった生活。
まるで別人のような生き方。
ただの平民だった、父と母の子供の生活とは思えないような、生き方。
「……幸福、だと、そう、思いますか」
「ワシはな。お主はどう思う? お主の父君は、今のお主の悩みに、どう助言する?」
「……小さい事でしょげてんな、って、叱られると思います」
父だったらどういうか、なんて仮定すら、久しぶりにしたと気が付く。
それだけ、ずっと、父の事も母の事も、考えないようにしてきた。
「なら小さい事だと笑い飛ばせばいい」
「そっか。小さい事かぁ」
壁に後頭部を凭れさせる。
実際に父親にそう言われた訳でもないのに、なんだか勝手に、納得してしまった。
随分と自分が単純な人間で、苦笑が漏れる。
「悩まず矢を撃てるか、ルキウス」
「ええ。なんだか、とても、軽くなりました」
「ならばよい。最後の試合は、互いに全力を尽くさねば、面白くない」
ぱちくりと、瞬きを一つして、プロェルスを見る。
先ほどまでの親しみやすさすら感じる雰囲気から変わり、そこにいたのは誇り高き騎士であった。
「……さて。そろそろ休憩は終わりのようだな」
プロェルスの言葉の通りだった。視線をずらせば、ピジョンブラットルビー伯爵家の席が、どうやら話が纏まりつつあるようであった。
プロェルスが先に立ち上がり、歩き出す。
彼が手に持つ弓は、ルキウスでは運ぶのがやっとなのではないかというほど、見るからに頑強な赤い弓だった。
とはいえ、自分の手の中にあるルイトポルトから賜った弓も、劣ってはいない。いや、ルキウスにとってはこの弓が一番だった。
「優勝はワシがする」
「!」
突然の宣言に、ルキウスは一瞬目を丸くし、プロェルスの背中を見る。彼は振り返ってはいなかった。ルキウスより先に、日陰から、日向に出て、立っている。
「……ふぅー……」
一度目を閉じて、それから、弓を握っていない方の手で、膝を打ち、立ち上がる。
(この方は、騎士だ。俺より遥か高みにいる。貴族で、実力も功績も伴っている、到底横に並べないような相手だ。でも出来るなら)
ルキウスは前に足を踏み出した。そうして自身も、日向に立つ。先に立っている、プロェルスの横に。
(勝ちたい)
顔を合わせて話をして、少ししか経っていない。なのに、強くそう思った。
ルキウスは前を真っすぐ見つめたまま、強い声で言った。
「俺が勝ちます。勝って、ルイトポルト様に勝利を捧げます」
プロェルスはそれを茶化す事も否定する事もしなかった。横を見なかったルキウスには見えなかったが、静かに笑っていた。
「――両者、前へ!」
審判の声に、二人の男が前に進み出た。




