然るお方(3)
改稿しました。
領事棟にディアヌローズが戻った翌朝は春らしい陽気で、昼には窓を開けるほどに暖かになった。当のディアヌローズは一度も目を覚まさないまま、丸一日以上眠り続けている。
ピュル、……ピュル、ピュルルル────
突然、ビジュが囀り始めた。
透き通った軽やかな声はまるで一緒に歌おうと誘っているかのようで、その様子に側仕えたちは皆ほっとした表情を浮かべた。
というのもディアヌロー不在の間、ビジュは声を失ったのではないかと思うほど元気がなかったからだ。
とはいえ、ずっと囀られては支障がある。
側仕えのマリレーヌはビジュに向かって唇に人差し指をあてた。
「静かにしてね。お嬢様が起きてしまわれるわ」
「ご様子を見てきましょう」
フォセットはそう言って寝台帳の合わせ目から身体を滑り込ませた。
◆◇◆
──ああ、ビジュの声だ……。ビジュと合奏したい。
夢現の境で、ディアヌローズはこの数日間ずっと胸にあったことを願った。
だんだん意識がはっきりとしてくると、帰棟中に眠り落ちたのだと思い至った。ビジュの声がするのだから自分の部屋に戻ってこられたのだろう。
数日ぶりの石床でも地面でもない、ふかふかで沈みこむ寝具の感触が何とも心地いい。なのに、どうしたことか肌寒い。目を開けるのが億劫だ。
不意に衣擦れの音がした。
続く控えめな靴音に、ディアヌローズは重い瞼を上げた。起き抜けの目を二度三度瞬くと、薄明りの中に慣れ親しんだ天蓋が見えた。
思わず涙が零れて、拭おうとした手の包帯が目に留まる。
レミの止血で爛れた手────
気づいた途端にじくじくと鈍く痛みだした。けれどレミの傷の痛みに比べればなんてことない。
レミはバンに斬られて傷を負ったのだ。しかも、ディアヌローズを庇って。
ディアヌローズの手は、レミの傷口から流れ出た血の感触と温かさを憶えている。
幾重にも巻かれた包帯をしみじみと見つめた。
「お目覚めでしたのね」
懐かしい声に顔を向ければ、「お帰りなさいませ」とフォセットは微笑んだ。
ディアヌローズはこくりと喉を鳴らす。さて、声は出るだろうか。
「……ただいま」
細くかすれた声だった。でも構わない。帰ってこられたと実感できて嬉しい。なんて素敵な言葉だろう。
「ビジュの声が聞こえたの」
「急に囀り始めたのですよ」
「きっと起こしてくれたのね」
「ええ。きっとそうですわ」
フォセットはそう言ってディアヌローズの頬に触れると、目を細めた。
「お熱はないようですね。ご気分はいかがですか?」
「大丈夫よ。きょうは肌寒いのね」
「……お寒いのですか?」
怪訝そうなフォセットの声に、ディアヌローズは小首を傾げる。
「ええ、少し。……お腹が空いているからだわ。たぶん……」
本当はお腹なんて空いていないけれど、つい言ってしまった。
「すぐに温かいスープをお持ちしますね」
「ありがとう。起きてもいい?」
「寝台から出られるのでしたら許可をいただきませんと」
「残念だわ……。おとなしくしてるから、せめて帳を開けて。それならいいでしょう?」
ビジュや皆の顔を見たいのは言うまでもなく、ディアヌローズは元気だとアピールしたいのだ。
フォセットが扉を開いた。
薄暗がりから一転して昼の陽光に晒され、ディアヌローズはぎゅっと目を瞑った。
そっと目を開けると、視界いっぱいに暗い地下室で切望した光景が広がった。思わず知らず涙が滲む。
もっとよく見ようと身を起こしかけた、その時。
「痛っ!」
身体中を激痛が走った。顔が歪み、内心で失敗したと舌打ちするが、もう遅い。
「無理してはなりません。まだ打ち身も爛れも治っておりませんのよ」
フォセットが心配そうに眉尻を下げた。
どうやらフォセットは外傷による痛みだと思ったらしい。
バレずに済んでディアヌローズは胸を撫で下ろした。たしかにその痛みもあるが、まだ耐えられる。
耐え難い痛みは身体の中だ。星の欠片に魔力を籠めて以来、レミを治したいと願ってからは一段と。痛みが増していた。
けれどもうこれ以上心配をかけたくはない。にこりと口角を上げる。
「大丈夫。前よりも痛くないわ」
フォセットは慎重にクッションをディアヌローズの背に挟みながら、眠っている間にミゼリコルドとアルフレデリックが治癒魔術を施していたのだと語った。だから良くなってきているとも。
話の終わりの言葉はたぶん、安心させようとしてくれたのだろう。
ディアヌローズはそんなフォセットに笑顔で応えて、この場にいる皆に謝辞を伝えた。
ただ、最も謝りたかったアンベールもクロティルドも不在であることが、とても気がかりでならない。
その後クッションに凭れてビジュを眺めていると、不意に窓から流れてきた風にぶるりと身体が震えた。
側仕えたちが大急ぎで窓を閉め、暖炉に火が入れられた。
ほどなくして、スープが運ばれてきた。
フォセットが小ぶりのスープボウルとスプーンを手にする。
「さあ、お口を開けてくださいませ」
包帯の巻かれた両手に目を落とし、ディアヌローズは小さく息を吐いて口を開けた。
フォセットは湯気の立ち昇るボウルからスープを一匙掬い、ディアヌローズの口許に寄せた。
瞬間ディアヌローズの脳裏に、地下室での出来事が甦った。押し付けられた木椀と生臭いニオイ。そして、バンの顔。
咄嗟に痛みも忘れて口を覆った。
その拍子に、弾いたスプーンとボウルが宙を舞う。
スプーンが床でカシャンと音を立て、ボウルはスープを撒き散らしながら掛け布の上で逆さになった。掛け布にス-プが滲んで広がっていく。
束の間目を丸くして固まったフォセットが、パチパチと目を瞬かせた。
「どうされましたの⁉」
今、ディアヌローズに答えられる余裕はない。
あの時とは違うとわかっていても、喉にせり上がってくるものを抑えこむのに必死で、口に押しつけた手が離せないのだ。
焦ったようにフォセットがディアヌローズの背を撫で、そうこうしているうちに異変に気づいた皆が集まった。
騒然とする中、アルフレデリックがやって来た。
アルフレデリックはフォセットから状況を聞き取ると、暖炉前の長椅子にディアヌローズを移して治癒の光で包んだ。
症状の治まったディアヌローズにアルフレデリックが尋ねる。
「説明できるか?」
「……地下室で、無理やり生臭いスープを飲まされました」
食事を拒否すると鼻を摘ままれ、息苦しくなって開けた口に生臭いスープを流し込まれた。容赦なく傾けられた木椀から零れたスープが顎を伝い、息をするためにはスープを飲み込むしかなかった。
話すだけで気持ち悪くなる。
脂汗が滲んできてまた口を押さえると、もう一度治癒の光に包まれた。
なんとか落ちついたディアヌローズの汗をフォセットが拭う。
その傍らで、アルフレデリックは何やら思案気だ。親指で頤を摩ること、暫し。
「ミエルなら口にできそうか?」
また嘔吐いてしまうかもしれない。それでもディアヌローズは喉に残る、何とも言えない酸っぱさを消してしまいたい気持ちもある。
「……たぶん」
すぐにミエルが用意されて、黄金色の蜜がトロリとスプーンに移された。
差し出されたミエルをディアヌローズはおずおずと口にする。
「おいしい……」
嘔吐くことも、気持ち悪くもならなかった。口の中はミエルの甘さと香りで満たされて、喉の違和感もかなり薄まった。
相変わらず寒気がするものの人心地がつき、ふと感じた視線にそちらを見ると、いきなりアルフレデリックと目が合った。
ディアヌローズは叱られる気しかしない。思い当たる事なら幾つでもあった。
けれどできることなら、先に謝りたい。確かめたいことだって。頭の中で、この数日間考えていた言葉たちがひしめいた。
ところが。
ふっ、とアルフレデリックは視線を逸らした。
珍しく躊躇いを見せたアルフレデリックに、ディアヌローズは戸惑った。どうも叱られるのではなさそうだ。とはいっても、これまでにアルフレデリックが躊躇うなんてあっただろうか。ディアヌローズにはとんと見当がつかない。
じわじわと緊張感が高まってきて、いっそ先に謝ってしまおうかと考え始めた矢先、視線を上げたアルフレデリックと再び目が合った。
「──事件の聴取をする」
……えっ、そんなこと⁉
一気にディアヌローズの肩から力が抜けた。当然、話すつもりでいたことだ。
承諾の返事をしようとすると、一拍早く、沈痛な面持ちのフォセットから声が上がる。
「アルフレデリック様。それは……」
「記憶の鮮明なうちに聴き取らねばならぬ」
躊躇いの消えたアルフレデリックは、極めて事務的だ。
「ですが……」
「話すわ」
なおも止めようとするフォセットに、ディアヌローズは言った。
ついでに「大丈夫」と微笑みも追加すると、フォセットは青緑色の目を大きくした。
あろうことか、アルフレデリックは信じられないものを見る目をディアヌローズに向けている。
愚図ったり、泣いたりするとでも思っていたのだろうか。失礼な。ディアヌローズは口が尖りそうになるのを堪えた。
きちんと聴取は受ける。でも、その前に。
「アンベールさんとクロティルドさんは罰せられたりしていませんよね? 拐われたのは、わたくしが我儘を通したからです」
悪いのは全て自分で、ふたりに非は無い。強請ったばかりに、多大な迷惑をかけて反省している。この場にいない皆にも謝りたい。
アルフレデリックの淡い金瞳を見つめて、ディアヌローズは必死に言い募った。
「処罰を判じるのは其方ではない」
取り付く島もない。ディアヌローズは唇を噛む。この様子では諦めるしかなさそうだ。
それからはアルフレデリックに問われるまま、パレードの馬車が暴走したところから、森でバンに頸を絞められて気を失うまでの経緯を語った。
ただ一点、然るお方については話さなかった。バンに仕事を依頼した正体不明の然るお方。その人には他領に追いやりたいほどに疎まれている。
心が震えて、口にする勇気が出なかった。アルフレデリックに訊かれなかったというのもある。それを幸いと思った。けれども。
……意図的に触れなかったのだとしたら?
然るお方の正体は判らない。もしかしたらこの中に……。可能性が無いわけではない。
怖くて怖くて堪らない。そして、こんな風に考えてしまう自分自身が何よりも、ディアヌローズは嫌で嫌で堪らない。
一通り聴取が済むと、アルフレデリックは捜索のあらましをディアヌローズに語った。
最もディアヌローズが嬉しかったのは、フロラント商会のクロエが自分に気づいていてくれたこと。
城下街ですれ違ったあの瞬間の、その絶望が薄れていく。
思いがけない話もあった。最初の髪飾りに付けたチャーム型迷子対策は地下に対応していなかったという。
ところが路地裏の冠水時に、測位石が反応して居場所を特定できたとか。
つまり、水を呼ぶ魔術を発動させる努力は無駄ではなかったのだ。運も良かったと思う。地下室に水が溢れたことで、たまたま髪が測位石ごと明かり取りから外に流れ出たのだから。
一番衝撃的だったのは、僅差で救出できなかったと聞いた時だ。しかも地下室の時だけでなく、宿でも。
バンがアルフレデリックの上を行くとは信じられず、すぐに然るお方の存在が頭に浮かんだ。今度こそ話すべきとは思ったものの、やはりその存在が心に重くのしかかって、結局打ち明けることはできなかった。
アルフレデリックは後手に回ったことを「すまなかった」と謝ってくれた。けれどアルフレデリックは少しも悪くない。寧ろ、迷惑を被っただけだ。
そもそもこの事件は、ディアヌローズの我儘がなければ起きなかった。皆を振り回すこともなかった。そう思えば思うほど、ディアヌローズの罪悪感は膨らんだ。
俯きたくなる気持ちを叱咤して、ディアヌローズは改めて謝罪と感謝を伝えたのだが。
「まずは寝台から出られるようになりなさい」
アルフレデリックは言い、傍らでフォセットも同調するように頷いた。
……皆から受けた数多の恩に、どのように報いればいいのだろう……。
寝台で過ごす間、ディアヌローズはこの難題にじっくり向き合わなければならない。
聴取と説明でかなりの時間が経ち、会話も途切れた。
そろそろ多忙のアルフレデリックは仕事に戻る頃合いではないだろうか。知られたくないことは上手く隠しおおせたに違いない。
そう思ってディアヌローズが気を緩めた時。
ちらとアルフレデリックがディアヌローズの手許を見た。
つられてディアヌローズも自身の手許に視線を落とすと、「さて」とアルフレデリックの声がした。
「──急ぎ対処せねばならぬ問題がある」
……まさか身体の内側の痛みがバレた⁉
ディアヌローズに緊張が走った。
思わず顔を振り上げると、目に入ったのはアルフレデリックのすぅと細めた金瞳だ。
不安を押し隠してディアヌローズは小首を傾げた。知られたくない。心配かけたくない。しらを切り通したい。心臓が早鐘のように胸を打った。
「何故、随獣と契約した」
非難のこもる声音でアルフレデリックは問うた。
我知らず、ディアヌローズはウルラの控える腕環に触れた。
すっかり忘れていたが、確かにウルラについて説明するよう言われていたのだった。
痛みがバレていないことに内心で安堵の息を吐き、当時を思い返す。
契約を持ちかけてきたのはウルラだ。いきなりのことで、さすがに断った。ところが、リュコスが現れて状況が一変した。契約しなければ、レミは確実にリュコスの餌食になっていただろう。ディアヌローズ自身もどうなっていたことか。
但し、レミについては伏せた。イストワールでは子どもでさえ身分を重要視する。この度それを痛感したので、念のためだ。
「──わたくしではどうにもできなくて、ウルラを頼りました」
あの時、他に方法など無かった。間違っていないとディアヌローズは胸を張る。まっすぐアルフレデリックを見つめた。
だが、アルフレデリックは渋面だ。
「ウルラ、と名を与えたのか。仮の契約にしなかった理由は?」
……?
ディアヌローズはぽかんとする。仮の契約なんて話、ウルラから聞いた憶えがない。
話にならないと言わんばかりに、アルフレデリックは顳顬を押さえて頭を振った。
「通常は、仮に契約して相性を確かめるのだ。相性が良いと判断した場合に限り、名を与えて本契約する。報酬はどちらの場合も魔力だ。但し、仮契約では魔力を籠めた魔石を渡す。本契約だけが直接魔力を渡すのだ」
「……知りませんでした。……あの、契約する前に星の欠片を渡して頼み事をしました。これは仮契約にあたりますか?」
「はぁ……。ウルラを呼びなさい」
盛大に嘆息したアルフレデリックを見上げて、ディアヌローズはしゅんと肩を落とした。まるで巣から落ちた雛鳥を拾って咎められている気分だ。ウルラは雛じゃないけれど。
もしかしたらアルフレデリックは、元の場所にウルラを返すつもりなのかもしれない。
ディアヌローズの呼びかけと同時に、ウルラは腕環から顕れた。光の残滓を零しながら音もなく室内を一周し、ビジュの止まり木に舞い降りた。
途端にビジュが威嚇の声を上げ始め、籠には覆いがされた。
席を立ったアルフレデリックが、真正面からウルラを鋭い眼光で見据えた。
「悪辣だな。あれで同意を得たと?」
『吾は主の求めに応じたのみ。主は言った。「できることなら何でもする」と。故に、吾は魔石を報酬として依頼を受け、果たした』
皆の目が一斉にウルラからディアヌローズへと移った。
ウルラの聲はこの場にいる全員に届いているらしい。
いたたまれずに縮こまったディアヌローズをアルフレデリックは一睨みすると、ウルラに向き直った。
「本人に仮契約の自覚はないがな」
『先に依頼があった。達成後、契約の説明もした。打診の一度目、主は断った。──だがリュコスが現れ、主は契約を受け入れた』
「さすがは知恵を司るヘクモナ。洗礼を迎えぬ幼子相手にも容赦がない」
苦々し気な表情でアルフレデリックはウルラに言い放つと、ディアヌローズに向くなり残念な子を見るような目をする。
「隋獣契約は、魔力を扱える者であれば可能なのだ。たとえ洗礼前であっても例外はない。──其方は己の迂闊さを反省するように。魔力を動かしてはならぬと言い聞かせてあったのだがな」
この様子では契約解除は無理なのだろう。予想どおりの内容に、ディアヌローズは返す言葉もない。
けれど何度思い返してみても、ウルラと契約する以外に助かる道なんてなかった。ラヴァージュも然り。火を消さなければどうなっていたことか。居場所だって報せられなかった。
そしてウルラについて、ディアヌローズはアルフレデリックとは異なる印象を抱いている。
ウルラが聲をかけてきたタイミングは、差し迫ったときばかりだった。見て見ぬふりができたのに、ウルラはそうしなかったのだ。
きっとアルフレデリックなら、契約に持ち込むためだとか、報酬の魔力を得るためだとか言うかもしれない。
それでもディアヌローズは思うのだ。バンに頸を絞められたあの時、ウルラの聲には焦りがあった。言葉の奥で、命を惜しんでくれていた。
だからどうしても、確かめずにはいられない。
「ねえ、ウルラ。あなたはわたくしの魔力を好ましいと、だから契約しようと言った。でも本当にそれだけ?」
ウルラは片足を羽毛に隠して目を瞑った。
名称を変更しました。
イブソピア → ヘクモナ




