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イストワール国~その花の名を私は知らない~  作者: 天音蓮
第三章 事件編

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迫り来る手(3)

加筆修正しました。

 聞こえるはずのない声にハッと向いた途端、ディアヌローズはレミに突き飛ばされた。両足が一瞬宙に浮き、背中から地面に倒れ込んで息が詰まる。すぐにレミが覆い被さってきて、その胸許に抱き込まれた。

 状況が呑み込めずに見上げたレミの顔は、苦しそうに歪んでいた。


「……レミ?」

「動かない、で……」


 混乱の中、ディアヌローズの耳が土を踏む足音を拾う。

 僅かな隙間からくたびれた男物の靴が見えてすぐ、レミの右腕に頭を覆われ、腰に回された左腕に力が加わった。


 間を置かず、レミの右上腕がぐいと男に掴まれた。レミの身体は抵抗虚しく持ち上がり、ディアヌローズの腰に回されていた腕がするりと抜けていく。レミは塵芥(ゴミ)のように手荒く放り投げられた。



 男はレミには目もくれずにディアヌローズを見下ろした。


 月を背にした男の顔は逆光で、ディアヌローズがいくら目を凝らしても判然としない。だが、襲ってくるとしたら拉致犯の一味だろう。どうやら、ドゥドゥとグエンの手を逃れたのはバン一人ではなかったらしい。

 露ほども思いたくないが、まさかドゥドゥとグエンに何かあったのだろうか。拉致犯たちを捕まえると自信たっぷりに笑んだふたり。その顔を思い出して、ふたりは無事だとディアヌローズは自分に言いきかせた。


 まずは目前の危機に立ち向かうべく、男から目を離さずにディアヌローズは半身を起こした。すると。



「火を消すと思ったぜ。お前、商会を水浸しにしたからな」


 男の声に、ディアヌローズは目を瞠った。


「バン……」


 ラバージュで流されたはず──。と、思った瞬間。ディアヌローズは自身の迂闊さに気づいた。ラバージュの水は跡形なく消える。つまり、戻ってこられるということだ。

 呑気にラバージュの結果を確かめていた己の愚鈍さに腹が立つ。さっさと大樹の中に戻りさえしていれば、こんな事態は起こらなかった。今更の後悔に唇を噛む。


 先のバンの言動から、一番の目的が自分であるのは明らか。せめてレミだけでも大樹の中に逃がしたい。その時間を何としても稼ぐ。

 バンの注意を引きつけるため、決意をもってディアヌローズは立ち上がった。暗く判然としないバンの顔が僅かに見えるようになって、その特徴的な狐目を見据えた。


 バンはズボンに(なす)りつけたナイフを月の光に翳し、小莫迦にしたように嗤った。


「脅すだけのつもりだったんだぜ。なのにテメェから切られに来るとはな」

「!」


 信じたくない思いで、ディアヌローズは突っ伏すレミを見た。目に飛び込んできたのは、無残にも斜めに切り裂かれた服の背。濃く滲んでいるのはおそらく、血だ。


「っ、レミ!」


 叫ぶなり走り寄って、もどかしく脱いだ上着を丸める。レミの傷口に押しあて止血するもすぐに血が浸みてきて、深手であるのは明らかだ。

 上着を押さえる手が血で爛れていく。だが、ディアヌローズにはその痛みよりも心が痛くて堪らない。自分の所為(せい)でレミは傷を負ったのだ。


 そして何より、凶行に及んだバンが憎い。怒りで全身が染まった。止血の手をそのままに、バンを睨めつける。


「脅しだけでこんなに深い傷になんてならないわ!」

「いきなり飛び出てきたんだ。オレが()られるかもしんねぇ。手加減なんざ無用だろ?」


 ディアヌローズの抗議に、バンは自論を展開して嘲るように嗤った。手にあるナイフを右へ左へ行き来させたとかと思えば、片手で器用にくるくる回して弄んでいる。

 それはまるで、物わかりの悪いディアヌローズが理解するのを待つかのようで。或いは、ディアヌローズが抵抗を諦め、従順になるのを待つかのようで。そして。レミが弱るのを待つかのようで。


 犯罪者の心情なんて、ディアヌローズに理解できるはずもない。打開策が見つからないまま無為な時間だけが過ぎて、レミの血がじわじわと上着に滲んで広がっていく。


 温かい血はレミが生きている証。喪いたくなくて「治って」と心の中で繰り返した。その度に、身体中を幾つもの氷針が(めぐ)るような痛みが走った。

 痛み、凍てつくほど、掌に熱が集まっていく。これは魔力。でもその先が、呪文が、わからない。出口のない魔力がディアヌローズの掌中で渦巻いた。


 レミの血に塗れ、深く爛れていく自身の手を見つめて、ディアヌローズは後悔に苛まれた。

 あんなにもアルフレデリックから治癒の光を受けたのに、肝心の呪文を知らない。けっして声には出さなかったアルフレデリックだったけれど、注意深く見ていれば声なき呪文でも唇を読めたのではなかったのか。知り得る機会を、自分はみすみす逃したのだ。そう思えば思うほど、為せない自分が悔しくて。もどかしくて。情けなくて、仕方ない。


 唇が戦慄(わなな)き、嗚咽が漏れそうになって唇を引き結ぶ。泣いても解決なんてしないし、バンに怖気づいたと勘違いされたくもない。なのに目の縁に涙が溜まってきて、レミの姿が朧になった。



 不意にレミが身動(みじ)いだ。


「ナディ。……な、中へ、入っ……て」

「動けるの?」

「…………あと、から……行きま、す」


 レミは消え入りそうな声で絞り出すよう言うと、力無く微笑んだ。額には脂汗が滲んでいる。


 応えるように、ディアヌローズも口端を上げて笑みを(かたど)った。何て優しい嘘。自分を逃がすための嘘。置いて逃げるなんて、できるわけない。


 大樹まで五歩。そのたった五歩が、今は遠い。



 バンはナイフをディアヌローズに向けた。


「さて、と。そろそろお遊びは終いだ。一緒に来てもらおうか」

「嫌よ!」


 怯むことなくナイフを一瞥して、ディアヌローズは毅然と告げた。


「言われたところで屁でもねぇ」


 バンが尚も、ぐいとナイフを突き出してくる。

 目前に迫った刃先にディアヌローズは身を強張らせ、ぎゅっと目を瞑った。


 突如────

 光る何かがディアヌローズの右頬を掠め、瞼向こうが眩く輝いた。


 ほぼ同時に「ぐはッ」とバンが声を発した。


 何事かとディアヌローズが目を開けば、片膝立ちで腹を押さえたバンの姿が目に飛び込んできた。服はところどころが裂け、露出した肌には無数の傷が。足元にはナイフが落ちている。


「てめぇ、何しやがった!」


 身に覚えのない言い掛かりをつけられて、ディアヌローズは目を丸くする。

 バンは怒りの形相でナイフを拾って立ち上がると、ディアヌローズとの距離を詰めてきた。

 再び、ナイフの鋭い刃先がディアヌローズに迫った。


「っ!」


 いきなりバンが体勢を崩して、たたらを踏んだ。

 何が起きたかわからないディアヌローズに、レミの声が届く。


「ナディ。……い、今のうち、に」


 見れば、レミが両腕でバンの片足を抱え込んでいた。ディアヌローズの胸が熱くなる。一体、どこにそんな力が残っていたのだろう。


「邪魔すんじゃねぇ! どきやがれっ!」


 バンはもう片方の自由がきく足で、レミの頭や傷のある背中を容赦なく何度も蹴った。にも拘らず、レミはしがみついた手を離さない。


 止まない凶行を目の当たりにして、ディアヌローズの心は悲鳴を上げ続けた。自分が大樹に逃げ込むまで、レミはその手を離さないつもりなのだ。けれど、ディアヌローズにはレミを置いていく選択肢なんて、無い。だから──。


「一緒に行くわ。だから蹴らないで!

 レミ、ありがとう。もういいから……」

「……ダメ、です……ナディ……」

「お前はすっこんでろ」


 バンは苛立ちを滲ませた表情で後ろに足を振り上げると、尚も足にしがみつくレミの胸を勢いよく蹴り上げた。


「かはっ!」


 弾かれるようにレミの腕は外れ、仰け反った半身が小さく弧を描く。地に両腕を投げだすようにして倒れた。


「レミッ!」

「おっ、と」


 一歩踏み出したディアヌローズの行く手を、バンが塞ぐ。

 またもや、ナイフをディアヌローズに向けた。


「ちっとばかり仕置きしねぇとな」


 ニヤついたバンがナイフを大きく振りかぶる。

 その鋭利な刃先をディアヌローズは凝視した。


 ナイフが振り下ろされた、刹那────

 眩い光が、目にも留まらぬ速さでディアヌローズの左頬を掠める。

 目前のバンに達した瞬間、爆散した。


「ぎゃっ!」


 一瞬光に包まれたバンは、尻から転倒した。手にあったナイフが鈍い銀光とともに放物線を描き、かなり離れた地面に突き刺さった。


「ただじゃおかねぇ!」


 バンは言うが早いか立ち上がった。両手をディアヌローズへと伸ばす。ギラつく目が凝視するのは、じりじり後退るディアヌローズの(くび)だ。


 バンの迫り来る手が、ディアヌローズにはスローモーションのように見えた。僅か数歩の距離が、永遠の距離に思える。命の航海を惜しむかのように、時がことさら遅く、静かに流れていくようだった。



 ──(なれ)(われ)に命じよ。 ()く!


 ウルラの(こえ)が、ディアヌローズの頭蓋に響いた。


 ──わたしが死んだら、ウルラも死ぬの?


 ──まず、命じよ!


 ──先に教えて。


 ──契約解消のみ。


 ──そう。よかった。



「ウル──」


 ディアヌローズが声を発せられたのは、そこまで。(めい)は為されない。華奢なディアヌローズの頸は、土と血に塗れたバンの両手に掴まれた。


 より近くなった血のニオイが鼻をつく。土が肌にざらつき、やや遅れて、血による爛れの痛みに襲われた。ぬるりとするのは誰の血だろう。バンの血か。それとも、レミの血か。


 酸素を求めてバンの両腕に手をかけた。びくともしない腕を辿って、頸との境に指をさし込む。爛れた肌を引っ掻いてしまって、激痛に顔が歪んだ。


 バンの両手が、ゆっくりと力を加えてくる。まるで、楽しみを終わらせまいとするかのように。


 ふと、バンのシャツにある幾つもの血の滲みが目に留まった。袖の裂け目からは血に濡れたタトゥーも見える。バンにとっては、血に塗れることも、こんな行為も、日常なのだ。そう思い至り、ひとり納得する。



 やがて。息苦しさで唇が震えてきた。額までもが疼きだす。顳顬(こめかみ)がどくどくと脈打ち、頭が破裂しそうに熱い。反対に、手足の先は氷のように冷たく強張った。



 狂気に陶酔するバンの顔を見るうち、ディアヌローズから恐怖が引いた。疎まれている人に差し出されるくらいならこれでいい。結局、『()るお方』の正体を知るのが怖かったのだ。たぶん。……否。きっと。


 これまでお世話になった人の顔を思い浮かべては、感謝の言葉を胸の内で述べていく。最後は、ウルラに。


 ──ごめんね。ありがとう。


 ──莫迦者……。


 ウルラの聲が、ディアヌローズの頭に(こだま)した。



 最期に見るものは、綺麗なものがいい……。

 蛮行に溺れるバンの肩越しに、ディアヌローズは空を見上げた。


 青緑色()の月が、数多の星を従えている。

 星々の煌めきは《奏の世界》と変わらない。

 月の色も同じだったらよかったのに。

 もう一度、お祖母(ばあ)さまに会いたかった。

 それとも、これから会えるだろうか……。


 不意に、きらりと夜空を走る一筋の光芒が目に映った。


 流れ星? きれい、ね…………。



 ディアヌローズの重くなった瞼が静かに下りていく。

 眦から涙が一粒、流星のごとく頬に尾を引いた。






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