迫り来る手(1)
加筆修正しました。
サブタイトルを【迫り来る手(前編)】から【迫り来る手(1)】に変更しました。
ディアヌローズは喉の渇きで目を覚ました。
視界に入ってきたのは丸くぽっかりと空いた天井と、そこに広がる夜空。
まだ半分夢の中で自分がどこにいるのかわからず、半透明な壁の向こうに森を認めて漸く大樹の洞にいるのだと思い出した。
耳に届く幾つもの安らかな寝息は子ども達のもの。みんなぐっすりと眠っている。
安全であることに改めて安堵の息をついた。
とはいえ、夜中の森に出れば獣に襲われる危険がある。夜明けまでは喉の乾きを我慢するしかない。
子ども達も目を覚ませばきっと水を飲みたがるだろうから、明るくなったらみんなで沼に行くことにしよう。みんなが喉を潤している間に、生水を飲めない自分は果物を探せばいい。
そう決めてしまうと、ディアヌローズはいっそう朝が待ち遠しくなった。
丸く広がる空を見上げれば未だ数多の星が煌めいていて、夜明けはまだ遠いらしい。
ディアヌローズは不意に、ドゥドゥとグエンが戻っていないのかが気になった。ふたりが戻ったら起こしてほしい、とレミには伝えてあったのだが。
もしかすると、声をかけてもらったのに目が覚めなかったのかもしれない。だとしたら恥ずかし過ぎる。
レミに尋ねてみようと身を起こしかけ、途端、痛みが身体中を駆け巡った。この痛みには覚えがある。星の欠片に魔力を籠めたときと同じものだ。今になってぶり返すなんて思わなかった。
熱も下がっていないようで、どうやら気が緩んでしまったらしい。
それでも。
精霊の助力を得て、みんなを無事にアジトから脱出させることができた。
あとのことはドゥドゥとグエンがきっと何とかしてくれるだろう。
自分の役割は終わったのだ。そう思えば、ディアヌローズは痛みよりも喜びの方が勝った。
「レミ……ゴホッ、コホ……」
呼びかけた声はざらついた喉で掠れて、ディアヌローズは思わず咳きこんだ。
返事は無く、眠る前にレミがいた場所に目を向けた。
レミ!? 痛みも忘れてガバリと身を起こし、周囲を見渡した。
だが。洞のどこにもレミの姿はなかった。
ディアヌローズは嫌な予感しかしない。夜中の森は危険だと、レミは十分に知っている。それでも敢えてレミが出ていった理由なんて、ディアヌローズは一つしか思いつけなかった。
レミは薬草を採りにいったのだ。
あんな話をしたせいだ……。血で爛れた指先を睨み、ディアヌローズは後悔に唇を噛んだ。
半透明な内壁を通して広がる夜の森、そこにレミの姿を求めてディアヌローズは目を配った。
ふと、不自然に揺れた茂みが目に留まった。
やがて────
狼のような獣がその茂みから現れた。
においを嗅ぐように鼻を地面に擦りつけながら、確実にこの大樹へと向かってくる。
ディアヌローズの鼓動は跳ね上がった。
大樹の外では、獣に対する森の精霊エリィオンの守護はない。
矢も楯もたまらず、ディアヌローズは立ち上がった。痛みを感じる余裕すらない。
近づく獣の前に内壁を隔てて立ち、外からは見えないと知りながらも息を詰めた。
茂みに目を走らせて、レミが現れないことを祈った。
ついに獣は大樹までやって来た。ウロウロと幹の周りのにおいを嗅いでいる。
ディアヌローズも獣の動きに合わせて洞の中を移動しながら、獣越しに茂みへと目を配った。
獣はにおいを辿るように地面から幹へと鼻先を動かし、その動きをピタリと止めた。
いきなり幹に両前脚の爪を突き立てたかと思うと、引き千切る勢いで樹皮を剥がした。
それからは狙いを定めたかのように同じ場所を繰り返し、左右の前脚で交互に爪を食い込ませては樹皮を引き剥がしている。
半透明の内壁を挟んで、ディアヌローズからはその肉球までもがよく見えた。至近距離から涎に塗れた牙や鋭い爪を見てしまっては、安全とわかってはいても恐ろしさの方が上回った。こんなもので襲われたらひとたまりもないだろう。
どうかレミが戻ってくる前にいなくなってほしい、と強く念じた。
ディアヌローズの念が通じたのか、それとも獣が飽きたのか。獣は茂みの中へと消えていった。
ほっと息をついたのも束の間、重大なことにディアヌローズは気づく。
獣の消えた先は沼かもしれない──。
恐ろしい可能性に指先が氷のように冷たくなった。
だというのに。
肝心の沼の方向がわからない。どの茂みをまじまじと見ても、同じにしか見えなかった。
沼からこの空き地にやってきた時、普段なら方向感覚に乏しいこともあって注意深く見ておくのだが、今回その余裕は全くなかった。
内壁に沿って歩きながら森に手掛かりを求めていると、大枝に留まる梟を見つけた。ドゥドゥとグエンを見送った時のままなら、ふたりの向かった方向に沼があるはずだ。
ディアヌローズは内壁を越えて森に出た。
見上げた梟と、また目が合った気がした。
「レミが何処に行ったか知ってる?」
気休めで梟に尋ねて、森の奥を窺った。
人の気配は一つとしてなく、心配と不安だけが募っていく。レミがあの獣に襲われる、そんな想像を必死に振り払った。
どうか無事に帰ってきて──。ただひたすらに祈る指先は白く震え、祈るしかできない自分がもどかしくて仕方ない。
せめてレミの状況を知りたい。そのためにできることなら何でもする。
ぎゅっと目を瞑って何度も願っているうちに、願いが自然とディアヌローズの口をついて出ていた。
──真か?
突如、聞いたことのない聲がディアヌローズの頭の中に響いた。
聲の主を探していると、また頭の中に同じ聲がする。
──真か、と訊ねている。
相手を見つけられないまま、ディアヌローズは頭の中で答える。
──わたしができることで、誰にも迷惑をかけないのなら。
──吾が望むは、魔力満ちる魔石。
──これでいいの?
ディアヌローズは隠しから煌めく星の欠片を一つ取り出して、掌に載せた。
──然り。
──どうぞ。差し上げるわ。でもその前に。
あなたはどなた? もしかして精霊?
姿を見せず、ましてや頭の中に話しかけてくる存在など、ディアヌローズは精霊しか知らなかった。
──汝とは、二度目を合わせた。先に問うたは汝だ。
まさかと思いながら、ディアヌローズは大枝に留まる梟を見上げた。
丸い双眸と視線が合ったと思うや否や、梟は音もなく飛んできた。翼を広げた梟は、ディアヌローズの背よりも大きい。
ディアヌローズの前で停空飛翔した梟は、器用に嘴で掌に触れることなく星の欠片をくわえると、元の大枝に戻っていった。
目を丸くして、ディアヌローズはその一部始終を眺めた。
──ごめんなさい。答えてもらえるとは思わなかったの。
報酬はお渡ししたわ。レミが何処にいるのか教えて。
──尋ね人は沼の帰途である。
──無事なの? 獣に追われてない?
──獣に遭わず、無事である。
「よかった……」
ディアヌローズはほっと息をついた。固く組んでいた手が緩んでじんじんした。
──ありがとう。
──汝、吾と契約せぬか? 汝の魔力は好ましい。
──契約?
──吾は汝の命を受け、汝は吾に魔力を供する。
──対等、ということなの?
──然り、であり、否である。
汝の魔力の対価として、吾は命を遂行する。これは対等である。
吾が汝より魔力を得るには、契約が必須。契約の縁を結ぶため、吾は汝より名を授かる。
名の授受は従属を意味する。その点に於いて、対等とは言えぬ。
以前、アルフレデリックは精霊使いだとエレオノールが教えてくれた。精霊と契約しているのだと。
契約の詳細を聞いたわけではなかったが、忌避感を覚えたことをディアヌローズは忘れていない。精霊は友なのだ。
そして今知ってみても、やはり気持ちは変わらない。
この梟が精霊であれ、聖獣や魔獣であれ、対等でないのならディアヌローズに契約する気持ちは毛頭ない。友としてなら大歓迎だが。
──ごめんなさい。契約はしないわ。お友だちではダメなの?
──友では魔力が得られぬ。
──……そうね。時々なら会いにきて、渡せるかもしれないけど……。
──契約ならば常に傍らに控え、魔力を得られる。
──やっぱり、ごめんなさい。契約できないわ。
──理解した。
梟は交渉の終わりを告げるように目を瞑った。
ディアヌローズは大樹の中に戻った。
レミの帰りを待って、沼へと続く茂みを見つめる。もしかしたら、ドゥドゥとグエンと三人一緒なんてこともあるかもしれない。
暫くすると、樹々の間に見え隠れするレミの姿が見えた。さすがにドゥドゥとグエンはいないようだ。
出迎えのため、ディアヌローズは内壁に足を入れた。
すると──。
レミにほど近い茂みから、また狼に似た獣が顔を出した。
獣は待ち伏せる気なのか、出てきた茂みの前で身を伏せた。
レミは獣に気づかないらしく、あと少しで茂みを抜けてしまう。
「レミッ!」
咄嗟にディアヌローズは叫んだ。だが、大樹の外に声は届かない。
一気に外へ飛び出た。
「獣が左に!」
すかさずレミは近くの樹に身を寄せた。
獣はその場で狩りの姿勢になると、レミとディアヌローズに向かって唸り声を上げた。
冷たい痺れがディアヌローズの背中を走った。蝋人形のようにじっとして、息さえも凍りついた気がする。
目だけでレミを窺えば、レミも微動だにしていない。
おそらくふたりが少しでも動いたら、獣は襲い掛かってくるだろう。
レミを助ける術が見つけられなかった。
──汝、吾と契約せよ。然すれば、吾が彼の獣を退けよう。
再びの梟からの提案は、一刻の猶予も許されない中で選択の余地などなかった。
ディアヌローズは覚悟を決めた。
獣から目を離さないまま、梟に返答する。
──レミを獣から護ってくれるなら、契約を受け入れるわ。
──汝、吾に名を。名は声に出せ。さすれば契約は成立する。
契約完了後、吾は汝の腕環、魔石の一つに控える。
命あらば名を呼べ。吾は顕現する。
この状況で名って……。気が逸る中、たった一つ絞り出した名をディアヌローズは口にする。
「ウルラ!」
その刹那、光がディアヌローズの腕環と梟とを繋いだ。
光はさらに螺旋を描いて梟を包み込み、カっと眩く輝いたのち梟もろとも消え去った。
腕輪を見れば、石の一つに光が揺らめいている。まるで命が宿ったかのようだ。
ディアヌローズはその石に向かって命じる。
「ウルラ! 獣からレミを護って!」
再び、光が石から迸った。
光を纏って現れたウルラは、両翼に光の残滓を零しながら獣めがけて飛んでいった。
ウルラは音もなく羽搏きながら鋭い鉤爪を突き出して獣の目を狙い、片や獣は威嚇の低い唸り声を上げて近づくウルラに前脚を振り上げた。
寸前で躱したウルラは上昇し、旋回すると攻撃に転じた。
目前で繰り広げられる攻防に、ディアヌローズとレミは固唾を呑んだ。
ディアヌローズはその目をもぎ離して叫ぶ。
「レミ! 早くこっちに!」
我に返ったレミが大樹に足を向けた。
その時────
突然、ガサガサと茂みが割れた。




