天界送り
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「ほぅ……」
月冴ゆる空を見上げて、ディアヌローズは感嘆の声を漏らした。透き通った冷気で鼻の奥がツンと痛くなる。白い息が冬の静寂に広がっては薄れ、消えていく。
鉄紺の空には雲一つなく、エイレヴェールの日特有の青い満月は吸い込まれるように美しい。地面に積もった雪も、梢の雪も、月の光で仄かに青く煌めいている。
魔獣に襲われてから数日ぶりの庭は、何だかとても懐かしく思えた。
「寒くないかな?」
「はい。ミゼリコルド様」
着ぶくれした自身を見下ろして、ディアヌローズは苦笑を浮かべる。動き難いが仕方ない。側仕えたちの心配の表れである。
「では、参ろうか」
ミゼリコルドが差し出してきた手とディアヌローズは手を繋いだ。
その途端、足元に魔法陣が現れる。
光が渦巻き、ふたりの周囲を覆っていく。髪が靡いた。
浮き上がった感覚は無いのに靴裏の感触が消えた。
眩暈のような気持ち悪さにぎゅっと目を瞑り、ミゼリコルドと繋いだ手にしがみついた。
やがて瞼向こうの光が暗くなって、ディアヌローズはそっと目を開けた。
ぼやけた視界に、二度三度とまばたきする。
「大丈夫かな?」
「……はい」
ディアヌローズは辺りを見渡した。
窓も扉すらもない。真っ白な壁に囲まれた狭く四角い部屋だった。
ミゼリコルドは数歩先にある正面の壁に掌をつけた。
魔法陣が浮かび上がり、光の線が白い壁を四角く切り分けるように走っていく。
やがて光の線と魔法陣が消えると、何もなかった壁に扉が現れた。
「ついておいで」
扉を開けたミゼリコルドに続いて、ディアヌローズも外へ出た。
振り返るとそこに扉は無く、白い壁だけがあった。
「扉が消えました……」
「秘密の隠し扉だ。使える者は限られる。決して口外してはならぬよ。
さて、ここが何処かわかるかな?」
ディアヌローズはぐるりと辺りを見渡した。雪が積もってはいるものの、どこかしら見覚えのある広場だった。人の往来でできた細い道は、長い階段の上まで続いている。その向こうには──。
「中央聖堂の広場です」
「そのとおり」
話すふたりの背後で、男性が雪に足を取られながら走っていった。聖堂へ向かっているらしい。
ディアヌローズは自分たちが出てきた壁の脇、その男性が現れたところに目を遣る。
「ここは門なのですか?」
「さよう。ここは礼拝門。祈りの日と儀式の時のみ開かれる。人しか通さず、一人ずつしか通れぬ。門の向こう側には宿街があるのだ」
以前、ディアヌローズが祈りの日に見かけた親子は、たぶんこの門を通ってきたのだろう。あの日は陽炎の立ち昇る、とても暑い夏の日だった。
ディアヌローズにとっては《奏の世界》に還れると期待に胸を膨らませ、ある意味イストワールに転移して一番幸せな瞬間だったかもしれない。あれから現実も心情も目まぐるしく変化して、何年も前のことのように思えた。
暫くすると、聖堂の方で多くの人の気配がした。
ディアヌローズが意識を聖堂へ向けて間もなく、仄青いランタンが一つ、ふわりと空へ昇った。その後を追いかけるように一つまた一つと次々に、ランタンは空高く昇っていく。
まるで青い満月の一部になろうと天を目指しているかのようで、薄布をぼんやりと青く光らせたランタンはしだいに空を埋め尽くしていった。
その様をディアヌローズは瞬きを惜しむように見上げた。なぜ青いのか。燈ならば橙色だろうに。でも、とても幻想的で厳かだ。
ミゼリコルドはいつの間にか手にしていた杖で、ほんの僅か弧を描いた。
まっすぐ天を目指していたランタンは、おもむろにふたりの方へと流れを変えた。
ミゼリコルドは物入れからランタンの薄布を取り出すと、杖の先端で触れた。
今にも飛んでいきそうなほどランタンは空気をはらみ、仄青い光を燈らせる。
ディアヌローズがランタンに書いた母と祖母へ届ける言葉が、ホログラムのように薄布から浮き上がって見えた。
そのランタンをミゼリコルドはディアヌローズに渡す。
「飛ばさぬように両手で持ちなさい」
ディアヌローズがしっかり持ったのを確認すると、ミゼリコルドはもう一つランタンの薄布を取り出して空気をはらませた。浮き上がった薔薇の絵は、アルフレデリックが手本に描いたものだった。
「アルフレデリック様はご自分で飛ばされないのですか?」
「手本に描いただけだそうだ。処分しようとしたのでな、私が貰ってきたのだよ。ふたりで飛ばした方が楽しかろう?」
ディアヌローズは僅かに首を傾げ、頷いた。たしかに、もうランタンを飛ばして喜ぶ歳ではないだろう。
「さあ、合図で共に手を離そう。一、二の、それっ」
ミゼリコルドの合図で手を離した。
仄青い光を揺らめかせながら上昇していくランタンをディアヌローズは見送る。
やがてふたつのランタンは、聖堂から流れてきたランタンの群れに吸い込まれていった。首が痛くなるほど天を仰いで見つめても、もうどれなのかわからない。ふいに淋しくなった。
「では次だ。おいで」
隠し扉のある壁に戻ったミゼリコルドは、その壁に触れて扉を出現させた。
中に入って魔法陣を起動させる。
ディアヌローズは目を瞑り、そして開けた。
何一つ変わらない、真っ白な四角い部屋にいた。
ミゼリコルドの後ろについてディアヌローズも外に出る。ざくりとブーツが雪に沈んだ。
雪深い木立の中だった。
「ここはどこですか?」
「ランメルト領事区域の庭の外れだ。少し待っておいで」
そう言ったミゼリコルドの手許から光が迸り、鴟鵂によく似た大きな魔獣が現れた。
「ウルクスという」
ミゼリコルドがウルクスの身体を優しく撫でると、ウルクスはさも気持ちよさそうに目を細めた。
ディアヌローズは前屈みになったウルクスの背に乗せられた。羽根はコンスタンティンのグリフォンよりも柔らかい。思わず頬ずりしてしまいそうだ。
ミゼリコルドはディアヌローズの後ろに乗ってお腹に腕を回すと、音もなくウルクスは舞い上がった。
眼下は、領事棟の庭はもちろん、中央聖堂の大天蓋や広場、城下街すべてが一面の雪景色だ。青い月の光に照された地上は、深く澄みきった水底のように幽青の雪を湛えている。
まもなく、空を征くふたりはランタンの群れに追いついた。
「上からランタンを眺めよう」
ミゼリコルドはウルクスを上昇させた。
ディアヌローズ達の真下で浮かぶ無数のランタンは、水面に漂う海月の群れのようにも見えて、仄青く光りながら浮遊する様はとても幻想的である。
やがて、煌めく光がランタンの群れから昇ってきた。
「この光は何ですか?」
「おそらく、ランタンに書かれた託けであろうな」
光はサンゴの産卵のように次々と昇ってきた。ディアヌローズ達を越え、さらに天を目指していく。
気づけば、ランタンは徐々にその数を減らしていた。
ディアヌローズは脇を掠める光に目を凝らす。
それはホログラムのように揺らめいていて、ミゼリコルドの言ったとおりにランタンの薄布に浮かび上がった言葉と同じだと思えた。
揺らめく光をディアヌローズはただひたすらに無言で見送った。
「そろそろよいか?」
「……はい、ミゼリコルド様。……届くのですね。良かった……」
ディアヌローズの紡いだ言葉のお終いは、なり損ねの言葉となって青い月明かりに溶けていった。




