掌
サブタイトルを【掌(前編)】から【掌】に変更しました。
表現の修正をしました。
一面真っ白な雪の庭にディアヌローズ佇んでいた。血に穢されていない雪は、現実ではなく夢であることを告げている。
新雪に倒れ込んで作った自身の人型もあって、その窪みをディアヌローズは見下ろした。思っていたよりも小さな人型。これがイストワールでの自分の大きさで、五歳のシェリールの、本当の自分の大きさらしい。
奏は二十一歳の大人だったけれど、どれくらいの大きさだっただろうか。尺度の違うイストワールでは《奏の世界》の数値も単位も意味を成さず、転移してきた時に着ていた衣装も子どもサイズに変化していた。だからもう本当に知る術はない。
転移してきたばかりの頃、衣装のサイズや見目の変化した理由がわかれば、転移した理由もわかると考えていた。
本当に分かっちゃった──。
イストワールに迷い込んだ理由が……。
迷い込んだのではなくて、イストワールが本当の世界だったってことが。
だから、《奏の世界》に還ることは叶わない。
お祖母さまにも会えない。
《奏》を守るために、仮初めの《ディアヌローズ》になったのに。
本物は《シェリール》で、《奏》も仮の姿だったなんてね。
《奏》が消えていく……。
この姿が正しい《わたし》。
幸せだった《奏》の思い出が、《シェリール》を苦しくさせる。
転移した日から頑張ってきたのは、お祖母さまの許へ還りたかったから。
胸を張って会うために。
なのに、お祖母さまは、神様があてがったらしい。
なら、頑張る意味はあるのかな?
それに、母さまも、家族も、いないって。
ほらね、頑張ってどうするの?
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
仕事を終わらせたアルフレデリックは、足早にディアヌローズの処に戻った。
沈痛な面持ちでフォセットは首を横に振り、あれからディアヌローズは一度も目覚めていないと言った。
アルフレデリックは窓の外に目を向けた。冬特有の暗灰色の雲が空を覆い尽くし、耳を澄ませば遠く雷鳴が聞こえる。じきに稲妻とともに轟音を響かせることだろう。
今ディアヌローズを起こせば雷に怯えるのは目に見えているが、目覚めるきっかけになるともいえるのだ。
寸の間アルフレデリックは顎先に手をあててディアヌローズを見つめ、それからディアヌローズの肩を揺すって声をかけた。
目覚めないまま声をかけ続けているうちに、雷鳴はかなり近くなっていた。
一方、ディアヌローズの意識は雷鳴とアルフレデリックによって徐々に浅くなっていた。
ああ、雷だ──。
奏がディアヌローズのように幼い頃、雷が鳴るたびに祖母の寝台に逃げ込んだものだった。
祖母は『仕方ないわね』と、笑って招き入れてくれた。
べそをかいた頬を温かな両の掌で包み、
『眠れるおまじないよ』と、額に口づけをくれた。
抱き寄せて頭を撫でてくれたあと、
怯える心を宥めるように、眠るまで背中をトントンと優しく叩いてくれた。
もう、お祖母様の掌は無いの……。
頬を包む掌も、頭を撫でる掌も、宥める掌も、全部ね。
だからお願い。起こさないで。
アルフレデリックはディアヌローズの眦に滲む涙を見て、肩を強く揺すった。
「ディアヌローズ!」
直後、稲妻と同時に雷鳴が轟いた。地響きがして、玻璃がビリビリと震えた。
一気にディアヌローズは眠りから引き上げられた。薄く目を開ければ、アルフレデリックが見えた。起こされなければ雷も分からなかった筈だったと思うと許せず、何よりも、もう頑張る意味がなかった。不満に眉根が寄る。
「……起こさないで」
直ぐに瞼を閉じようとするディアヌローズの頬を、アルフレデリックは微かに叩く。
「起こさねばどうするつもりだ?」
「それは……ひゃう」
再びの雷鳴に、ディアヌローズは身を縮こまらせた。
アルフレデリックは遮音の魔術を展開し、フォセットに命じる。
「帳を下ろし、呼ぶまで外で待機してくれ」
「なりません」
フォセットが纏う気を尖らせていると、ミゼリコルドが戻ってきた。
「どうしたのだ?」
「いくらお嬢さまが幼く、お相手がアルフレデリック様であろうとも、殿方と二人きりにはできませんわ」
ミゼリコルドはアルフレデリックを横目に、切々と語るフォセットの言い分を聞いた。
それから白銀の長い髭を撫でて、「フォセットの言は尤もである」と前置きする。
「アルフレデリックは、コンスタンティンからディアヌローズを支えるようにと言われておる。今回は私の顔に免じて、アルフレデリックに任せてはくれまいか。また目覚めないとなれば、其方も心配が募るだろう?」
幾分かフォセットは雰囲気を和らげた。青緑色の瞳でアルフレデリックを暫し見つめ、嘆息するとミゼリコルドに向き直った。
「……不本意ですが、ミゼリコルド様のお顔を立てますわ」
「ありがとう、フォセット。私に茶を淹れてはくれまいか」
「特別なお茶をご用意いたしますわね」
フォセットは帳を下ろして、ミゼリコルドと寝台から離れて行った。
二人きりになった帳の中で、ディアヌローズは上掛けを掴む自身の手を見つめながら、寝台脇の椅子にいるアルフレデリックの視線を感じていた。
暫くの沈黙ののち、口を開いたのはアルフレデリックだ。
「……祖母が恋しいか?」
思いがけない問いかけに、ディアヌローズはアルフレデリックを見た。
途端に淡い金瞳と視線が合う。
効率重視のアルフレデリックのことだから、『忘れなさい』とか『会えない者のことなど考えても無意味だ』と言われるのがせいぜいだと思っていた。せめて慰めの言葉だったなら無言でいられるのに──。
ディアヌローズは嗚咽を呑み込んで言葉を絞り出す。
「……祖母との再会を願って、きょうまで過ごしてきました。ですが、もう願いは叶いません。祖母に胸を張って会うために頑張ってきたのに、もう会えない。……頑張る必要がなくなりました」
顳顬を伝う涙がディアヌローズの髪を濡らした。涙って枯れないものらしい。
束の間アルフレデリックは遠くを見つめた。
「頑張らずともよい。……ただ日々を生きてみないか?」
ディアヌローズは目を瞬かせる。一体アルフレデリックはどうしたのだろう。再びのらしくない言葉が気になったが訊ける雰囲気でもなく、やみくもに反発するのも違う気がした。
とはいえただ日々を生きるとしても、日常の中に祖母との思い出は色濃く残っている。例えば、ヴィオリナを弾く時。跪礼する時。そしてきょうのように雷の鳴る日は、ことさらに祖母が恋しくて堪らない。転移した当初から感じている、子どもに戻ったことで心までもが幼くなってしまったせいなのか。あるいは、祖母にもう会えないと知ったせいなのか。
だから、つい口をついて出た。
「祖母は……雷の鳴る日には温かな両の掌でわたくしの頬を包んで……『眠れるおまじない』と額に口づけてくれました。それから抱き寄せて頭を撫でて、……眠るまで背中を優しく叩いてくれました。……もう叶いません。……そして雷が鳴る度に、思い出して苦しくなる」
アルフレデリックはやや目を伏せて、
「──そうか……」と、ぽつりと言葉を落とした。
呆れられただろうか。ディアヌローズは思う。ここまで胸の内をさらけ出すつもりはなかった。けれどひとたび祖母への思慕を口にしてしまえば、今まで堪えていた思いが溢れてくる。
「……わたくしは祖母を忘れることができません。慈しんでくれた掌を。愛情のある眼差しを。抱きしめてくれた腕を。それなのに……。あの優しい祖母を、神様があてがったなんて! 信じられない。信じたくない。……もう、ムリです」
ディアヌローズは涙に濡れる両の目を両の掌で押し付けた。
そうか、と事務的な抑揚で同じ相鎚の言葉をアルフレデリックは口にする。
「父がこの状態を見れば、『シェリールに関する記憶を消す』と仰るだろう。それでよいか?」
たしかにディアヌローズはシェリールについて打ち明けられる前、『耐えられなければ記憶を消す』との条件に同意した。
目に押し付けていた手を外して、ディアヌローズは半身を起こした。
「祖母について伺ったことも消されますか?」
「ああ」
祖母が神によってあてがわれたことを、記憶を消されて知らなかったことになれば、気持ちは楽になるだろうか──。ディアヌローズの心は揺らいだ。
そんなディアヌローズの心を見透かすように、アルフレデリックは口を開いた。
「だが消すのは記憶であって、事実は変わらない。どうする?」
事実に蓋をして、偽りの平穏を求めるなんて滑稽だ。そんなことくらいディアヌローズにもわかっている。でも祖母にもう会えないなんて辛すぎる──。
「……酷い」
「父はああ見えて、最善と判断すれば情は挟まない」
アルフレデリックはディアヌローズの貝紫の瞳をまっすぐ見つめた。その眼差しは嘘偽りの無いことを告げている。
受け入れ難い真実。記憶を保持するにしても消去されるにしても、遣り切れない思いがある。成人の奏であっても耐えられそうになくて、子どもになってしまったディアヌローズには猶更だ。膨らんだものは自棄に近い。
「記憶を消すと仰るのなら、消してくださって構いません。事実であろうとなかろうと、それすらも、もうどうでもいい。どれも、わたくしの意思は関係ない。どこにも、わたくしの意思は存在しない。祖母と過ごした日々も、ここへ戻されたことも、記憶を消されることも全て! わたくしは──」
ディアヌローズは続く言葉を見失う。
頭の中が真っ白になった。
アルフレデリックの────




