掌(2)
サブタイトルを【掌(中編)】から【掌(2)】に変更しました。
表現の修正をしました。
腕に囲われていた。
「こうすれば、落ち着くのだろう?」
アルフレデリックはそう言って、ディアヌローズの白金の頭を撫で始めた。その大きな掌は、ぎこちなく遠慮がちだ。
イストワールに転移して子どもに戻ってからというもの、ディアヌローズは抱き上げられて運ばれたことも、馬車の中で膝の上に乗せられたこともあった。それらは奏が子どもの頃に憧れたことで、気恥ずかしさはあっても思い出の穴を埋めるようで嬉しかった。
でも、これは違う。いくらアルフレデリックにとって、ディアヌローズが五歳児と思ってのことだとしても。これは大人の奏が憧れた展開。恋すら未経験の身としては、落ち着くどころか内心が忙しくて仕方ない。頬に熱が集まるのが分かった。
ディアヌローズが固まっている間に、アルフレデリックはディアヌローズの背を不器用にトントンと叩き始めた。その掌は次第にリズミカルになっていく。伝わる温もりも相まって、ディアヌローズの強張りは解けていった。
落ち着いてきた頭でディアヌローズは思う。これまでは心細くなると祖母を思い浮かべて、自分の腕に縋るように自らを抱きしめてきた。でも祖母を否定された今、心の拠りどころを何に求めればいいのかわからない。
だから尚のこと、この腕の中で子どものように守られていたいと思ってしまう。それはディアヌローズ自身でも時折り感じることのある、幼くなってしまった心の部分なのかもしれない。
今だけ──。決して寄りかかり過ぎたり、縋りついたりしない。ディアヌローズは胸の内で繰り返す。
それでも抱えるには重すぎる胸の内から、つい言葉が零れてしまう。
「酷い……。お祖母さまに会いたいだけなのに……。お祖母さまとの思い出がたくさんあるのに……」
アルフレデリックは背を叩く掌を止めずに、「──ああ」と言った。
「シェリールの記憶を消されたら、せっかく思い出した母さまも忘れるのでしょう?」
「そうだな」
ディアヌローズが瞬く度に、雨垂れのように雫が落ちてゆく。
「酷い、ひどい……ヒドイ……」
「……」
「……母さまを失ったのは、わたくしの所為」
「いいや。母君は其方を守ったのだ」
「違う……。わたくしの行為が悪いから、母さまが代わりに罰を受けたの……」
「其方は、……君は、悪くない」
「どうして、わたくしなの? わたくしでなくてもいいのに! どうして……どうして、どうして!」
囲われた腕の中で、ディアヌローズはアルフレデリックの胸を叩いた。何度も、何度も、繰り返し。
アルフレデリックはされるがまま、その腕を解かなかった。
やがてディアヌローズはアルフレデリックの胸に顔を押し付けて、むせび泣いた。
その背をアルフレデリックは宥めるように叩き続ける。
腕の中から漏れる押し殺した泣き声が少しずつ小さくなっていき、整った呼吸音になって暫くすると、ディアヌローズは顔を上げた。
「わたくしは命を懸けて護ってくれた母を忘れません。この記憶はわたくしのもの。誰にも奪わせたりしない」
決意の籠ったディアヌローズの眼差しに、アルフレデリックは目を瞠る。それから眩しいものを見るようにその目を細めた。
「ならば奪われないように振る舞いなさい」
「泣いているのは、雷が怖いからです」
手の甲で両の目をグイと拭ったディアヌローズに、アルフレデリックは薄く笑んで片眉を上げた。
「ああ、分かってる。嘆かわしいほど酷い顔だ」
「酷いです!」
プイとディアヌローズは横を向いた。
ディアヌローズの涙に濡れた頬を、アルフレデリックは隠しから取り出したハンカチで拭った。そのハンカチにディアヌローズは目を留める。
「使ってくださっているのですね」
「用意したの側仕えだ」
「今なら、もう少し出来のよい物をお渡しできました」
「将来渡す相手への練習台なのだろう?」
「意地悪ですね。お世話になったお返しでしたのに」
「そうか」
アルフレデリックは微かに笑むと、ディアヌローズの額に掌をあてる。
「やはり熱が出ている。額をここにつけているときから、熱──」
と自身の胸許を指さした途端、眉を吊り上げた。
「酷いのは其方だ。どうしてくれる!?」
アルフレデリックの胸許は、涙に濡れてシワだらけだ。もしかしたら洟もついているかもしれない。
しゅんと肩を落として、ディアヌローズはアルフレデリックを見上げた。
「も、申し訳ございません……」
「このままでは、フォセットに何を言われるか分からぬ」
アルフレデリックは眉間にしわを刻んで、
「ラヴァージュ」と、口にした。
その瞬間、小さな水流がアルフレデリックの胸許で渦巻いた。あっという間に水流は消えて、涙と、おそらく洟で汚れた衣装はすっかり乾いている。アイロンをかけたようにシワ一つない。
ディアヌローズが目を瞬かせていると、アルフレデリックは『しまった』という顔をした。こんな表情をディアヌローズは初めて見る。
「私の失態だ。いま聞いた呪文は忘れなさい。洗礼前の子どもが知ってはならぬのだ。もちろん試すのも禁止だ。まあ、呪文だけでは試せはしないが、加減を知らぬ者がやれば大惨事となる。自分の魔術で溺れたくはないだろう?」
ディアヌローズは奏だった時に溺れたことがある。その恐怖を思い出して身震いした。きっと今だって泳げない。
「決して試しません」
きっぱりと返答したディアヌローズを見て、アルフレデリックは安堵したように頷いた。
「さて、フォセットが心配している。もうよいか?」
「はい」
アルフレデリックは遮音の魔術を解除して帳を開けた。
途端に稲光が暗い庭を青白く照らす。雷鳴が轟いた。
「ひゃう」
短い悲鳴を上げて、ディアヌローズは上掛けに潜り込んだ。
「まだ止んでいなかったか」
「酷いです!」
そこにフォセットがやって来た。
「お話は終わられまして?」
「ああ。遮音を解除したら上掛けに潜り込んだが」
アルフレデリックは上掛けの小山に向いて嘆息する。
「ディアヌローズ、遮音の魔術を使ってばかりいては私がフォセットに叱られる。いい加減、慣れなさい」
「無理です!」
すっぽり潜った上掛けから出る気などディアヌローズには毛頭ない。
困ったようにフォセットは頬に手をあてた。ディアヌローズは昼食を摂っておらず、もう夕食の頃合いである。
「食事を召し上がっていただかないと」
遅れてミゼリコルドがやって来た。
「どれ、私がフォセットに叱られよう」
遮音の魔術をミゼリコルドが展開すると、フォセットは眉を顰めた。
「殿方はお嬢さまに甘くて困りますわ」
「食事を摂らせたいのだろう? 早く用意した方がよい」
「……そ、そうですわね」
フォセットが寝台を離れると、ディアヌローズはのそりと上掛けから頭を出した。
ミゼリコルドとアルフレデリックは顔を見合わせ、肩を竦めた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
アルフレデリックとミゼリコルドは帰り、遮音の魔術は展開されたままだ。帳は閉められているので、稲光に怯える心配もない。
一口だけでもと勧められた食事を終えて、ディアヌローズはひとり物思いに沈む。
あまりにも目まぐるしく、辛く耐え難い一日だった。
だからといってアルフレデリックに八つ当たりするなんて──。最低の行為。愚の骨頂。しかも、今までどおりに振る舞うと大見えを切ってしまった。
知らされた幾つもの事実。
心の底が苦しくて堪らない。
どれ一つとっても自分にとっては重要で、どれが自分を苦しくさせているのかがわからない。
本当はシェリールで、イストワールが本当の世界と分かった事実?
あの女性が母で、家族はいないと明かされた現実?
違う。それらは辛くとも受け入れられる。
でも──。祖母と過ごした年月を否定されたくはない。
奏の思い出を踏み躙られたようで嫌だったんだ。
奏の世界とイストワール。
奏の思い出とシェリールの記憶。
今はまだ奏の思い出も時間も多い。
けれど、やがてシェリールとしての思い出や時間は、奏を超えていく。
その時、自分はどうなるだろう。どう思うのだろう。
この引きちぎられるような胸の痛みは無くなっているだろうか……。
堪らず、ディアヌローズは上掛けを引き寄せた。きつく目を閉じる。
すると────
誰かの掌が頬に触れた。




