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イストワール国~その花の名を私は知らない~  作者: 天音蓮
第三章 事件編

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襲いかかる魔獣

表現の修正をしました。

「まもなく雪が降ってくる。戻るとしよう」


 唐突なミゼリコルドの言葉に、ディアヌローズは貝紫の瞳で空を見上げた。見渡す限りの青空に小首を傾げる。


「どうして雪が降ると分かるのですか?」

「雪が降る前には、空気が凛としたものに変わるのだ」

「凛とした空気……」


 益々わからない。ディアヌローズの眉根は寄った。


「これは経験を積まねば難しいやもしれぬな。まずはこの空気を憶えておきなさい」


 言われるままに、ディアヌローズはすんすんと匂いを嗅いだ。鼻の奥が痛くなるほど透明な空気。あまりにも冷たくて、身体がブルリと震えた。


 ミゼリコルドは微笑まし気に青玉の目を細める。

「身体も冷えたようだ。戻るよ」




 暖炉の前でお茶を飲んでいると、窓の向こうでは粉雪がちらほら舞い始めた。

 ディアヌローズは尊敬の眼差しをミゼリコルドに向ける。


「凄いです。ミゼリコルド様」

「あすの朝には、きょうの倍の高さまで積もっているであろうな」

「……また雷が鳴るのですか?」


 昨夜のように、アルフレデリックは遮音してくれるだろうか──。ディアヌローズは、げんなりと眉尻を下げた。


「さては雷が怖くて眠れなかったのだな」

「……いえ。ア、アルフレデリック様が、雷の音を聞こえないようにしてくださいました……」


 目を泳がせるディアヌローズに、ミゼリコルドは含み笑いをする。


「ほう。アルフレデリックがな。これだから、生きることは止められぬ」

「寝不足で熱を出したことがあるのです。ですから……」

「手間を掛けさせられるのは面倒だ、とでも言われたかな」


「……はい」

「相も変わらず素直でない。

 大丈夫。今夜、雷は鳴らぬよ」


 ディアヌローズがあからさまにほっとすると、フォセットは困り顔で頬に手をあてた。


「お嬢さまを甘やかされて、アルフレデリック様には困ってしまいますわ。慣れていただかなくてはなりませんのに」

「アルフレデリックの珍しいところが見られたと思って、暫くは大目に見ればよかろう」


 白銀の顎鬚を撫でながら、ミゼリコルドは愉悦の笑みを浮かべた。


 ディアヌローズは、ふたりの話を訝しく思う。珍しくも、甘やかしでもない。アルフレデリックはとても迷惑そうだった。でも──。



 その夜、雷は鳴らなかった。




 ◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆




 朝。雪は、ミゼリコルドの言ったとおりに高さが倍になっていた。低木は半分ほどが雪に埋もれ、刈り込まれた樹上には雪が帽子みたいにこんもりとのっている。


 ディアヌローズがここまでの雪を見るのは、奏だった時でも滅多になかった。

 たしかに、獣たちは食料探しが大変だろう。さっそくミゼリコルドから教わった、フェブルと仲良くなる方法が効果を発揮しそうである。


 果物を手にディアヌローズが庭へ出ようとすると、ベアトリスが外套を手にやって来た。


「外套を着ないと、風邪を召されましてよ」


 さして遠くも無い低木の茂みをディアヌローズは指差した。

「すぐそこだわ。果物を置いてくるだけよ」


 しかしベアトリスは外套を広げて頑として譲らず、結局ディアヌローズは押し負けた。ふわふわの帽子を被り、手袋までして、やっとお許しが出た。



 アンベールとレオナールが道をつけ、ディアヌローズはオードレイと手を繋いで後ろを歩く。一人で歩けると思ったけれど、倍になった雪は手強かった。きのうミゼリコルドと歩いた時よりも、格段に歩き難い。


 それでも茂みに着いた頃には歩くコツを掴み、果物を置いたあとの帰りは手を繋ぐのを断った。


 もたつきながら順調に歩いていたものの、転んで身体の右半分がさらさらの雪に埋まった。オードレイに引き上げてもらい、外套についた雪をぽんぽんと叩き落とす。

 雪上には、倒れた跡がくっきりと残っていた。


「思っていたよりも、わたくしって小さいわ」


 どうせなら大の字で倒れてみたい。まったく子どもじみているけれど、今は正真正銘の子ども。外套を着せてくれたベアトリスに感謝だ。

 ディアヌローズは仰向けで新雪に倒れ込んだ。


「雪まみれではフォセットに叱られてしまいますわよ」


 呆れるオードレイが、両手をディアヌローズに差し出した。


 ちょうどその時────

 雪がバサバサ落ちる音と、バキバキと枝の折れる音が鳴った。



 オードレイに強く手を引かれ、ディアヌローズは勢いよく引き起こされる。


 杖を構えたアンベールとレオナールのふたりは、ディアヌローズを庇うように警戒態勢をとった。


「早く部屋の中へ!」

 アンベールが叫んだ。


 直後、イノシシに似た魔獣が、茂みを割って顔を出した。

 牙を生やした口からは涎をだらだらと垂らし、低い唸り声を上げるたびに吐き出す荒い息が口のまわりで靄になっている。


「レクタだ!」


 レオナールは言うなり杖を剣に変化させ、瞬時にアンベールも槍に変えて、レクタへと向かっていった。



 レクタが完全にその姿を見せた。

 全身こげ茶色。大型の幌馬車ほどもある体躯である。


 アンベールの構える槍の切っ先がレクタに届く直前、再び茂みが大きく揺れた。


 すかさず大きく後方にアンベールが跳び退るのと同時に、新たなレクタが現れた。


 新たなレクタは牙を低木の根元に引っかけ、勢いよく頭を振り上げた。

 引き抜かれた低木は土をまき散らしながら宙を飛び、真っ白な雪に根をさらして埋もれた。



 レオナールが剣柄を両手で掴み、胸の前で構えながら声を張り上げる。


「二頭、いや三頭いる。レクタは群れないはずだ。気をつけろ!」



 ディアヌローズは、オードレイに半分抱えられながら部屋を目指した。


 途中、茜色の髪を靡かせたクロティルドが、剣を手にすれ違っていった。


 常になく裾を持ち上げたベアトリスが、雪に足を取られながらやって来た。

 オードレイはベアトリスにディアヌローズを渡し、紺色の瞳を鋭くさせて杖を出す。即座にレクタに向かっていった。



「また出てきた! 全部で五頭だ」


 アンベールが槍の穂先をレクタに向け、薙ぎ払うように牽制した。


 一瞬足を止めたレクタだったが、すぐに唸り声を上げて向かってきた。


 ディアヌローズは必死に足を動かした。躓いては立ち上がり、必死に前へ進む。


 背後からは途切れることなく、尋常でない音が届く。

 唸り、咆哮するレクタ。

 風を切る刃。切り裂かれる肉。雪上に散る飛沫。


 すべてが、ディアヌローズにとって現実とは思えない。

 狼狽したまま、緊迫した状況に身を置いた。



「ベアトリス! 一頭そちらへ行ったわ!

 レクタはまっすぐ進む。脇へ逸れて!」

 クロティルドが叫んだ。


 すぐさまディアヌローズとベアトリスは道から外れ、まっさらな雪へと逃げた。


 雪に沈む足を、引き抜いては前へ進むディアヌローズの足が埋まった。(もが)けど抜けない足は、まるで雪に掴まれたみたいだ。

 ベアトリスに引き上げられたが、あっという間に倒れ、両腕までもが雪に埋もれた。


 四つん這いで振り向いたディアヌローズの貝紫の瞳に、レクタと戦う護衛騎士たちが映る。



 オードレイは細身の剣で一頭目のレクタの眼を突き刺し、レオナールは二頭目のレクタの首に鋭い一太刀を浴びせた。


 三頭目のレクタは横っ腹をアンベールに槍を突き立てられて呻き声を上げ、四頭目のレクタはクロティルドの剣に脚を斬り落とされて血を噴き出している。



 護衛騎士たちがレクタを切りつける度、血飛沫(しぶき)で真っ白な雪が穢されていく。

 白い雪のいたる処で、赤黒い血が滲んでいた。

 血腥(ちなまぐさ)い庭に、もはや朝の面影はない。


 ディアヌローズは悪心を堪え切れずに嘔吐した。



 ひときわ大きな五頭目のレクタが、白い息を吐きながら唸り声を上げた。

 ディアヌローズを獲物と定め、雪を蹴立てて迫ってくる。


 その様を、ディアヌローズはスローモーションのように眺めた。もう身体は恐怖で動かない。


 ベアトリスがディアヌローズとレクタの間に立ち、杖を盾に変えて構えた。


 レクタの鼻先が、ベアトリスの盾に迫る。


 その時────

 光の塊が、ディアヌローズの頭上を越えていった。


 網となって広がり、ディアヌローズを狙うレクタにバサリと覆い被さった。


 レクタは唸り声を上げて網の中で暴れ回り、自ら網に絡みついて動けなくなった。

 だが頭をもたげた興奮状態なので、全く油断できない。



「こちらへっ!」

 駆け付けたフォセットが、ディアヌローズを引き起こした。


「フォセット、ディアヌローズの耳を塞げ!」


 常にないミゼリコルドの声に従い、フォセットはディアヌローズの耳を塞いだ。



 ミゼリコルドが杖を打ち下ろす。

 杖先からは眩い光が迸り、網に絡まったレクタに向かって、まさに光の速さで飛んでいった。

 レクタ上空で(いかずち)に変化すると、天を裂くような轟音とともに、レクタの脳天を貫いた。


 脳天から血を噴き上げたレクタは断末魔のごとき咆哮を上げ、ゆっくり傾ぐように倒れていった。



 ディアヌローズはガタガタ震えた。心臓は胸を突き破らんばかりに激しく打ち、血肉の汚臭が呼吸を妨げる。瞬きすらできずに、魔獣の(むくろ)を凝視した。



 そんなディアヌローズを、フォセットが包み込むように抱きしめた。


 その刹那────

 ディアヌローズの脳裏に、悪夢の女性とフォセットの姿が重なった。

 黒い光を浴びて身を捩り、(くずお)れていった女性。

 奏が修了試験の前に毎夜見ていた、悪夢。


 ──でも……。



「お嬢さま! ディアヌローズ様!」


 フォセットの必死の呼びかけが、ディアヌローズの耳に遠く響く。


 ──フォセットさん。……違う。わたしの……。






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