明日を生きる糧(後編)
ディアヌローズは口端を引き上げ、
「承ります」と、祖母仕込みの毅然とした微笑みで応じた。
フォセットは青緑色の瞳をディアヌローズに向けた。
「では──『頼っていただくこと』を罰の追加として、希望いたします。
あなたは聡く、遠慮ばかりして甘えず、ご自分で何とかしようと為さる。
お小さいのですから、もっと頼ってくださいませ。
それとも、──このフォセットでは頼りになりませんか?」
フォセットはやる瀬ない表情を浮かべて、そう言った。
ディアヌローズは瞬きすら忘れてフォセットを見つめた。
フォセットの表情が、
言葉のひとつひとつが、
ディアヌローズの胸を優しく締め上げた。
すると、ベアトリスやアンベール達も次々に罰の追加を求め出た。
皆が皆、フォセットと同じ罰を口にしていった。
──どうして、……そんなに優しいの?
嘘つきなのに。
騙してたのに。
利用してたのに。
ディアヌローズは震える唇を結んで嗚咽を堪えた。
なのに、涙は貝紫の大きな目の縁にこみ上げてゆく。
見る間に視界はぼやけ、温かな雫となって頬を伝った。
とうとう堪え切れずに喉の奥が鳴った。
その途端────
はらはらと涙は零れ落ちてゆき、整え重ねられた手を濡らした。
アルフレデリックは薄い唇でニヤリと笑む。
「罰の重さで、自由の身となるには刻が掛かりそうだな」
嗚咽の漏れそうな喉をぐっと押さえ、ディアヌローズは一呼吸置く。
「……はい」と返して、涙で重くなった睫毛を瞬かせた。
アルフレデリックが解散を告げて、みんなは仕事に戻っていった。
フォセットとアルフレデリックは、未だ涙の止まらないディアヌローズの傍らにいる。
フォセットはハンカチでディアヌローズの涙を優しく拭った。
「そんなに泣かれては、涙で目が溶けてしまいまいましてよ」
「其方が泣かせたのだろう?」
呆れたようにアルフレデリックは言った。
「今回ばかりは仕方ございません。罰でございますからね」
後悔など微塵もないとばかりに、フォセットは言い切った。
アルフレデリックは微かに笑む。
「相変わらず手厳しいな」
「わたくしの愛情を解らない方には、解っていただかなければなりませんもの」
「そうだったな……」
淡い金の瞳を伏せて、アルフレデリックは微かに笑んだ。
ディアヌローズが泣き止んで落ち着きを見せると、アルフレデリックとフォセットは応接卓へと移っていった。
一人、ディアヌローズは窓の外を見遣る。
草木の緑は色を変え始め、夏の終わりを告げていた。
春にイストワールに転移し、夏もまた終わろうとしている。
季節は移りゆくのに、自分の心だけが立ち止まっていた、と気付いた。
還りたい気持ちが、前へ進む気持ちを引き留めた。
進むのが怖かった。
《奏の世界》が遠くなるようで。
竦む心を宥めるのが大変だった。
誰にも理解してもらえそうにない、秘密を抱えて。
そんなひとりぼっちの自分の前に、マノワが現れた。
沈みそうな心を、掬い上げてくれた。
闇に溶けそうな心に、光をくれた。
マノワがいてくれるだけでも、奇跡だと思っていた。
なのに……。
泣き過ぎで重くなった瞼を閉じて、ディアヌローズは幸せな胸の痛みを持て余した。
『保護した鳥の面倒をみるように。それが其方への罰だ』
『「頼っていただくこと」を罰の追加として、希望いたします』
『このフォセットでは、頼りになりませんか?』
『罰の重さで、自由の身となるには刻が掛かりそうだな』
『わたくしの愛情を解らない方には、解っていただかなければなりませんもの』
掛けられた言葉の数々が、ディアヌローズに降り注ぐ。
此処に居なさい、と。
頼りなさい、と。
信じなさい、と。
何処にも行くな、と。
情を持っている、と。
ああ、溺れてしまいそう……。
みんなの優しさを知ってはいても、理解してはいなかったのかもしれない。
熱で苦しかった時、額に置かれたアルフレデリックの掌を。
闇から目覚めた時に向けられた、エレオノールの瞳を。
不安に駆られていた時、庭へ行こうと誘ってくれたレオナールの心遣いを。
親子のように手を繋いだアントナンとフォセットの手の温もりを。
幾らでも思い出せる。
そして、今でならそれらの意味も。
還れない不安と騙している罪悪感が、
良心ばかりか信じる心をも蓋をして、閉じ込めていたのかもしれない。
かといって最初から真実を話せたかと問われれば、やはり無理だったと断言できる。
今まで共に過ごしてきた日々や、重ねてきたふれあいがあったからこそ、至れた心境だと思うから。
なら、今までの葛藤も、経験も、通らなければならない道だったに違いない。
たぶん信じることって、疑うことより難しい。
傷つきたくなくて心に盾を構えながら、一足ずつ歩み寄っていく。
きっと、そういうもの。
朝に目覚めたら『おはよう』と、挨拶をして。
親切にしてもらったら『ありがとう』と、感謝して。
笑顔を向けられたら、笑顔を返して。
何てことのない日常が、やがて盾を手放させる。
信じる心を強くしていく。
そんな簡単なことにさえ、目を背けて気付かなかった。
なんて愚かな自分。
ずいぶん遠回りをしてしまった……。
けれど────
信じているからといって、頼り過ぎてはいけない。
頼ることと甘えることは違うのだ。
自分は愚かで弱いから、
すぐに頼りたくなって、寄りかかりたくなって、縋りたくなる。
間違えてはいけないと、成人の奏が子どものディアヌローズを戒める。
祖母に再会できた暁に、目を逸らさず話すために。
季節二つもかけた、長い道のり。
漸く辿り着いた。
以前、祖母から贈られた言葉を思い出す。
『一見遠回りに見える道でも、必要な道のりであったと、通った後で気付くものよ。
経験に無駄は存在しないの。
いずれ必ず、思いがけないところで役に立つ。
だから怠けたりせずに、様々な経験を積みなさい。
それがやがてあなたの剣となり、盾ともなるでしょう』
とするなら、この道を進むのも意味があるのかもしれない。
たとえ世界は違っても、人の営みに大した違いは無いのだから。
還ることばかりに囚われず、イストワールでたくさんの経験を積んでいこう。
それらはきっと、《奏の世界》に還った時、先へ進むための糧となる。
──ねえ、お祖母さま。
イストワールに来て、少しは強くなれたかな?
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
ディアヌローズは夢を見ている。しかも明晰夢とわかっている。
なぜなら────
膝を抱えて怯えている自分を、呼んでいるのも自分だから。
遠くの方でこっちへおいでと、もう一人の自分が大きく腕を振っている。
『ここまで来ても大丈夫。おいで』って。
こわごわ進んだ先に見慣れた木戸があって、開くと《奏の世界》の懐かしい庭だった。
石畳を進んでいくと、お気に入りのガゼボでみんながお茶を飲んでいる。
アルフレデリックも、エレオノールも。
アントナンに、フォセットも。
他のみんなも。
なんと、マノワとオジェまでも。
もしかしたら、テチュは隠れているのかも。
ああ、なんて素敵な夢だろう。
いつか夢でなく、みんなをこの庭に招待したい。
吹く風も香る、薔薇の季節に。
奏の自慢の祖母を、みんなに紹介したい。
ディアヌローズの大切な人たちを、祖母に紹介したい。
《ディアヌローズ》と名乗ったら、祖母はどんな顔をするだろう?
そんな、夢のような夢だった────
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
時間が穏やかに過ぎていく中で、ディアヌローズは日毎に回復していった。
いよいよ今朝で、寝台生活は終了。
ディアヌローズは二の鐘よりも早く目を覚ました。
脇卓の向こうに吊り下げられた鳥籠を眺めながら、ひたすら起床時間を待っている。
きょうから小鳥の世話をする。
罰だけれど、素敵な罰。ワクワクが止まらない。
待ちわびた足音が近づいてくる。
朝日を背に浴びて、フォセットが姿を見せた。
「お目覚めでしたのね。おはようございます」
喜びを抑えきれないまま、ディアヌローズは満面の笑顔を向ける。
「おはようございます。楽しみだわ」
「あらまぁ」
フォセットは青緑色の目を細めた。
朝食後、鳥籠が下ろされた。
期待に膨らむ胸の前で手を組み、ディアヌローズは鳥籠に近づいた。
瑠璃色の小鳥を初めて間近で見る。感嘆の吐息を漏らした。
まるでラピスラズリから生まれたような小鳥。頭から長い尾羽にかけての背面は鮮やかな瑠璃色で、光の当たる角度によって紫や翠にも見える。喉元からお腹にかけては水色から翠色へと徐々に変化し、目元はアイシャドーを刷いたような赤。とても煌びやかで美しい。
「宝石よりも、うんと綺麗……」
うっとりと、世話を忘れてディアヌローズは見入った。
「そろそろお世話を始めてくださらないと。
待っていますよ」
呆れたようにフォセットに言われて、ディアヌローズは我に返った。
小鳥は、ディアヌローズが手にする果物の乗った皿を気にしている。
ディアヌローズが刻まれた果物をピンセットで摘んで小鳥に差し出すと、小鳥は何度か首を左右に傾けてから果物を啄み、飲み込んだ。次々と差し出だれる果物を啄んでいく。
あっという間に皿を空っぽにした小鳥は嘴を止まり木に擦り付け、それから羽の手入れを始めた。
ディアヌローズが食い入るように小鳥を見つめていると、小鳥は食事のお礼とばかりに澄んだ声で歌うように囀り始めた。
きょうまでイストワールでの音楽は、ディアヌローズ自身が奏でるだけだった。
そんなディアヌローズに小鳥は歌をくれた。聴衆になるなんて、いつ以来だろう。
「あなたは素敵な声で歌うのね」
そう話しかけたら、小鳥が近寄ってきた。
もうあげられるものは無くて、ディアヌローズは眉を下げる。
──今、あげられるとしたら、音楽くらいしか……。
そうだ!
閃きの衝動に任せて、ディアヌローズはフォセットを振り仰いだ。
「ヴィオリナを弾いては駄目かしら?」
フォセットは僅かに目を大きくした。
「──練習再開の指示は、受けてはおりませんけれど……。
如何されまして?」
「えーと……。
小鳥が歌ってくれたから、お返しをしようと、思った、の……」
伝えるうちに恥ずかしくなって、ディアヌローズの声は勢いを失った。
フォセットは微笑まし気に目を細める。
「ご用意いたしますね」
用意されたヴィオリナの調弦を済ませて、ディアヌローズは小鳥の傍らでカノンを弾く。
もしも小鳥がこの曲を憶えてくれたなら──。想像するだけで愉しくて堪らない。
これから毎日、この曲を小鳥に聴いてもらおう。
できれば、憶えて欲しいとの下心付きで。
三回弾いたところで、フォセットに止められた。
寝台に逆戻りしたいのかと問われては従うほかなくて、ディアヌローズはまた鳥籠に張り付いた。
「わたくしのヴィオリナと一緒にあの曲を歌ってくれないかしら。きっと愉しいわ」
ふと、小鳥の名前をアルフレデリックから聞き忘れていたと気付いた。
「フォセットさん、小鳥の名前をご存知ですか?」
「お嬢さまがお決めなさいませ」
きょとりと、ディアヌローズはフォセットを見る。
「わたくしが付けてもよろしいのですか?」
フォセットは苦笑する。
「世話をなさるのはお嬢さまですもの。
アルフレデリック様は名前など付けてはおられませんよ」
ディアヌローズの心は俄かに沸き立った。
「嬉しい。素敵な名前を付けるわ」
──どんな名前がいいだろう。
ラピスラズリみたいだから、ラピス。
それとも宝石みたいだから、ビジュ。……うん、ビジュがいい。
ディアヌローズは瑠璃色の小鳥に太陽のような笑顔を向ける。
「決めたわ。あなたはビジュよ。
ビジュ、仲良くしましょうね」
ビジュは籠の中でディアヌローズを見て、首を傾げる。
「ピュルピュル」と囀った。
『イストワール国』にお付き合いくださり、ありがとう存じます。
二度目の後書きになります。
今回で「第一章 転移編」の終了です。
主人公は漸くスタートラインに立ちました。
これからの主人公は、行動範囲が広がっていきます。
屋敷精霊以外の精霊も登場予定です。
今後も『イストワール国』にお付き合いいただければ幸いです。
2022年 3月 24日 天音 蓮




