明日を生きる糧(前編)
表現の修正をしました。
秋の最初の月である果実月も残すところあと僅か。午後の柔らかな陽が、緑を失いつつある樹々の葉を照らしている。
ディアヌローズの部屋では璃色の小鳥の快い囀りだけが広がり、稀に側仕えたちの衣擦れだけで、日中とは思えないほど静かだ。
その部屋に、五の鐘の一つ目が届いた。
ディアヌローズの寝台脇、椅子に掛けていたエレオノールにお茶が差し出される。きのうまでは断っていたお茶をエレオノールは受け取った。
最後の鐘の音が鳴って間もなく、ディアヌローズは目を覚まし、重たげに二度三度と瞬きを繰り返した。
エレオノールはティーカップを脇卓に置いて、身を乗り出した。
「おはよう、ディアヌローズ」
お茶の時間だったが、エレオノールはそう言った。
「……ぉはょうござぃます」
ディアヌローズは、か細い声を出した。目覚めてすぐにエレオノールの顔を見られて、きのうのことが夢でないと思えた。
「無理に声を出さなくていいのよ。目を見て挨拶できるって素敵ね」
杏色の目を細めて、エレオノールは微笑んだ。
「ペーシュルを持ってきたのよ。食べられそう?」
ディアヌローズが頷くと、エレオノールはディアヌローズをクッションに凭れさせた。一口分に細かく刻まれたペーシュルをスプーンで掬い、ディアヌローズの口許へと運んだ。
それから鳥籠の瑠璃色の小鳥を見て、ふふっと笑った。
「わたくしね、あなたにペーシュルを食べてもらいたくて手配したのよ。でも、もうどこにも残っていなくて……。時季がとうに過ぎているから仕方ないのだけれど、諦めきれなくて──」
それでね、とエレオノールはディアヌローズに視線を戻した。
「試しにアルフレデリックに尋ねてみたの。そうしたら、これを渡してくれたのよ。聞いてみるものね」
と、エレオノールは笑んだ。
ディアヌローズの目には、その笑顔はまるで子どものようで、いつもの淑やかな笑みとはまるで違って見えた。ディアヌローズは小首を傾げる。
これは、アルフレデリックがペーシュルを持っていたことが、意外だったから?
でなければ、エレオノールの好きなペーシュルをアルフレデリックが保存していたことが、嬉しかった、とか?
きっと、嬉しかった方。その方が素敵だ。
それにしてもペーシュルを用意しておくなんて、アルフレデリックが意外すぎる。あのアルフレデリックがどんな顔をして、まめまめしく保存しておいたのだろう。ディアヌローズは考えるだけで愉しくなって、胸の内でくふくふと笑った。
「楽しいことでもあったの?」
不思議そうにエレオノールは頬に手をあてた。
ディアヌローズはニヤニヤしていたと気付いてきまりが悪い。普段より重く感じる鉄筆を握りしめ、蝋板に不細工な文字を綴る。
『ペーシュルが美味しいのです』
書いた蝋板を見せ、へらりと笑った。
ペーシェルを食べ終わって暫くすると、アルフレデリックがやって来た。ディアヌローズの状態を診てから口を開く。
「考えは変わらないのか?」
「はぃ」
ディアヌローズの意志は固い。みんなには自らの口で告白し、謝罪したいのだ。そうでなければ漆黒の闇から戻ってきた意味が無くなってしまう。
だが、アルフレデリックは渋い顔をした。
「──きょう、其方が自分で語ることは許可できない」
「でも……」
アルフレデリックは、ディアヌローズの枕もとにある蝋板を一瞥する。
「そんなに弱く細い声では、皆の処まで届かぬ。何より、まだ長くは話せないだろう?」
ディアヌローズは顔を俯けた。上掛けを握りしめる。アルフレデリックに謝罪の場を設ける気はないのかもしれない。それとも、自分が諦めるまで日延べするつもりだろうか。ディアヌローズの心の裡に、昏い翳が忍び寄る。なら、やはり自分で罰を────
「ディアヌローズ!」
突然の大きな声だった。
ディアヌローズはびくりと肩を跳ねさせた。
「まだ話は終わっていない。顔を上げなさい」
続いた声に、ディアヌローズはアルフレデリックをおずおずと見上げた。
その顔を見るなり、アルフレデリックは眉間に深い皺を刻んだ。
「きょうは無理だが、あすなら自分で話せるだろう。其方の願いは叶える。妙な考えは持たず、あすまで待ちなさい」
考えを見透かされて、ディアヌローズは唇を噛んで頷いた。
アルフレデリックは小さく嘆息する。寸の間ためらいを見せた後、ぽふりと大きな手をディアヌローズの頭に置いた。
「分かれば宜しい」
言うなりアルフレデリックは手を離した。顔を背けて、小さく咳払いした。
ディアヌローズは目を瞠る。アルフレデリックの手が置かれていた頭へと手をやった。まったく状況が呑み込めない。アルフレデリックはこんなことをする人だっただろうか。
「ふふっ」堪え切れないとばかりに、エレオノールは笑った。
「何だ?」
険のある声で問うアルフレデリックに、エレオノールは口角を上げた。
「可愛いな、と思って」
「どういう意味だ?」
ジロリと、アルフレデリックはエレオノールを睨んだ。
エレオノールはますます口角を上げる。
「言葉のまま、よ?」
アルフレデリックは口を開いて何かを言いかけ────
その口を閉じた。
それからただ一言、「明日」とだけ言って、帰っていった。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
夜。ディアヌローズが頭の中でマノワに呼びかけると、マノワはすぐに枕もとに現れた。
──マノワ、昨夜は眠ってしまってごめんなさい。
改めて、ありがとう。顔を見て感謝を伝えたかったの。
──気にしなくていいさ。
枕の端にマノワは腰を下ろした。
──マノワは全部分かってたのね。
マノワは肩を竦めてみせた。
──さあ、どうだろうね。
──マノワは、お祖母さまに似てるわ。
分かれ道で立ち止まった時、足元を照らしてくれる。
でも、決して向かうべき方向に手を引いたりはしない。
──あんたの道は、あんただけの道だ。
例え選び間違えて、迷ったとしてもね。
だが、今回は大甘だっただろ?
──ええ、そうね。
ねえ、マノワ。わたしね、まだ言えてないことがあるの。
……成人しているって、どうしても言い出せなかった。
だって、恥ずかしくて……。
わたし、手を繋いで歩いた時、凄くはしゃいでしまったもの。
それに、抱き上げてもらったことだって……。
ディアヌローズは火照った顔を手で隠した。子どもになったせいだろうか。かつて子どもの頃に夢見たこと、それを経験したい欲求に逆らえない。祖母には有り余るほどの愛情を注いでもらったけれど、経験できなかったことが幾つかあった。それらは思い出の隙間として残り、中には羨ましさや願う心が棲んでいる。
──そんなの気にしてたのかい。まあ、それくらいの隠し事はご愛敬さ。
ことさら明るいマノワの声が届く。
──そうかしら?
──ああ。乙女に秘密はつきものだろ?
マノワは、ぱちりとこげ茶色の片眼を瞑って見せた。
──嫌だわ、マノワったら。でも……、そう、よね。
ありがとう。
──あした話すんだろ。今夜はもう寝んだ方がいい。
お寝み、ディアヌローズ。
──ええ。お寝みなさい、マノワ。
──ああ、良い夢を。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
翌日の三の鐘。ディアヌローズの寝台の周りには、ディアヌローズに関わった人たちが集まっている。
ディアヌローズの決心に変わりはないけれど、いざとなると緊張を隠し切れない。クッションに凭れた背中に、嫌な汗が滲むのが分かった。
その様子を見たアルフレデリックは眉を顰めた。
「急ぐ必要はない。日を改めるか?」
「いいえ」
声がきのうより出ていることに安堵し、ディアヌローズは貝紫の瞳でまっすぐアルフレデリックを見た。
日延べすればするほど、心が萎えてしまう。
有耶無耶にしてしまおうとする、弱い自分が顔を出してしまう。
きのうアルフレデリック達に告白して謝罪し、罰を言い渡されて赦された。
それをいいことに、臆病な自分が甘い言葉を囁く。
告白や謝罪をしなくても、心優しいみんなは受け入れ、赦してくれるかもしれない、と。
だからこそ、今この時、けじめをつける。
そのために集まってもらったのだから。
何より、告白と謝罪のために、漆黒の闇から戻ってきたのだから。
そうしなければ、自分は月詠家の一員でいられない。
祖母に再会した時に、胸を張って『ただいま』と言えなくなる。
きょうまで沢山の失態を重ねたのだから。
これからは挽回していかなければならないのだから。
ディアヌローズは背筋を伸ばして顎を引いた。
指先を揃えて両手を重ねる。その手許を見て、細く息をはいた。
──わたしは月詠奏。
いずれ祖母の後を引き継ぐ、月詠家の成人。
強くあれと自分を鼓舞し、ディアヌローズは視線を上げる。
集まってくれたみんなを、ゆっくりと見渡した。
「既にアルフレデリック様よりお聞き及びと存じますが、わたくしは──」
と、ディアヌローズは違う聖堂から来た経緯を語っていく。
「わたくしは皆さんに、何も憶えていないと嘘をついて、騙してまいりました。
赦していただけるとは思っておりません。ですが、謝罪をさせてくださいませ。
幾重にも心よりお詫びいたします。……申し訳ございませんでした」
胸に片手をあてて、ディアヌローズは頭を下げた。
頭を上げて、先を続ける。
「──アルフレデリック様より、罰とは到底成り得ない罰を申し渡されました。
皆様の中で、わたくしに罰の追加を望まれる方はどうか仰ってくださいませ」
再び、ディアヌローズはみんなを貝紫の瞳で見渡した。
「罰ならば、私が与えたもので充分だ。異論を唱える者など、ここにはおらぬ」
アルフレデリックは言った。
その直後────
フォセットが進み出た。
「わたくしは罰の追加を希望いたします」
息を呑む音が幾つも上がる。
フォセットに、みんなの目が集まった。




