一条の光
表現の修正をしました。
闇に溶け込んだ『何者か』は、微かに意識があった。
だが、
自分が誰であったかを憶えてはいない。
闇は、『何者か』の不安を掻き立てた。
だから『何者か』は、膝を抱えて蹲っている。
試しに伸ばした手は闇に消え、恐くなって即座に引き戻した。
膝を抱える、その腕に力を籠めた。自分を見失わないように。
それから膝に額をつけた。自分を確認するために。
ここは漆黒の闇で、
瞼を閉じていても、開いていても、変わりはない。
敢えて『何者か』は、瞼を閉じた。闇を見たくなくて。
まるで漆黒の闇に蹲る、路傍の石のよう。
声を、『何者か』は聞いた。
雑音の酷い、切れ切れの声。
その声を、耳を澄まして拾う。
──……ァ……ロ……、ズ……ディ……ヌロ……ズ、ディ……ローズ……。
同じ言葉が繰り返されているらしい。
それは、たぶん、誰かの名前。
でも、誰の?
この漆黒の闇には、自分以外にも誰かがいるらしい。
その名前が誰かに向けて呼びかけられる。繰り返し、繰り返し。
質の違う幾つかの声で。繰り返し、繰り返し。
とても大切な人らしい。
その名前の人は、本当にここに居るの?
これだけ呼びかけて気付かないのなら、眠っているのではないかしら。
何も見えないから、じっとしているしかできないから、
眠くなったのだわ。きっとね。
自分も膝を抱えて眠ってばかり。
だから、間違いないと思うの。
時折、凄みのある声も聞こえてくる。
もしかしたらその誰かは、聴こえないフリをしているのではないかしら。
応えたら、怖い声の人に叱られそうな気がするから。
そういえば────
叱られたことがあった……。遠い昔に。
いつ? どうして?
あれは、…………『危ない』って、叱られたの。
叱られて、……それから……ぎゅっ、と抱きしめられた……。
誰に?
誰、だったかな……多分、わたしを慈しんでくれた人。
……会いたいのに、……もう、会えない人……。
あれ? どうして、そう思ったんだろう?
……分からない。
そもそも、わたしは、誰?
考え続けることはひどく難しい。
曖昧な意識を集中させると疲労が増して、
少し考えては眠り、また少し考えては眠った。
何度目覚めても、漆黒の闇は変わらない。
そもそも、どうして漆黒の闇に居るの?
漆黒の闇にいるのだから、
光の下にはいられないのだから、
わたしは、悪いことをした。きっと。
なのにわたしは、何をしたかを憶えてない。
記憶を消してしまうほど、悪いことをしたの。きっと。
なら、罪悪感はあったのかもしれない。
自業自得なのだわ。きっと。
それからまた眠った。
もう何度、眠りと目覚めを繰り返しただろう。
この漆黒の闇からは逃れられない。
そう理解するのに十分な時間を過ごした。
さすがに同じ姿勢でいるのはもう限界。
ならばと、そろりと足を伸ばす。足は闇に消えていった。
次に、ゆっくりと身体を仰向ける。身体すべてが闇に隠れた。
まあ、最初から見えてはいなかったけれど。
ただ、膝を抱えていた時には自分を感じていられただけで。
でも、今は身体を投げ出しているから、身体が自分のものとは思えない。
まるで暗闇に身体が吞まれているよう。
時間の感覚はもうなくて、たぶん殆ど眠ってる。
身体の感覚もとうに無くて、動かそうとも思わない。
ただ耳だけは、変わらずに呼びかける声を拾っている。
未だに応える人がいないのなら、ここには居ない。きっと。
辛くても、現実を受け入れた方がいいだろうに……。
しだいに微かな意識までもが呑まれていく。
わたしを、考えられない。
わたしは、闇に溶けていく。
わたしが、闇に同化していく。
……でも、……なんか、……もう、いいや……。
──ディアヌローズ!
いきなり明瞭な声が聞こえて、『何者か』は驚いた。
見えもしない暗闇を、右へ左へと見渡した。
それは、初めて聞くしゃがれた声。
なのに、なんとなく懐かしさを憶える声。
不思議ね。
声は、その人をまだ諦めていないらしい。
そんなに想われているなんて、羨ましいとさえ思う。
──あたしを忘れるなんて、薄情者だね。
どうやら、その人が見つかったらしい。
他人事ながらも喜ばしい。
──ああ、見つかったとも。
あんたのことだよ、『ディアヌローズ』
それとも《奏》と呼んだ方がいいのかい?
──もしかして、わたしに話しかけているの?
それが、わたしの名前?
──そうともさ、ディアヌローズ。
あんたに話してるのさ。
──あなたは誰?
──やれやれ。
またあたしに名乗らせるたぁ、いい度胸だ。
あたしはマノワ。屋敷精霊のマノワだ。
──初めましてマノワ。
でも会ったことがあるのなら、『ごきげんよう』かしら。
──挨拶なんて、何でも構やしないさ。
それより、いつまでそうしてるつもりだい?
──えーと、分からないわ。
わたし、悪いことをしてここにいるのよ。きっと。
──なに寝ぼけたこと言ってんだい、まったく。
いいかい、あんたは────
マノワは『何者か』に、《ディアヌローズ》について教えた。
違う世界からイストワールに転移したこと。
《奏》から《ディアヌローズ》になったこと。
保護してくれた人たちに真実を告げられず、記憶が無いと嘘をついていること。
《奏の世界》へ還るための重要な鍵は、聖堂の大オルガンであること。
聖堂に行って光を受けたけれど、還れなかったこと。
これ以上嘘をつきたくないから、神の家へ行きたいと申し出たこと。
すべてを聞き終えて、『何者か』は考える。
《ディアヌローズ》と《奏》、という人を。
どちらも自分らしいけれど、いまひとつ実感は無い。
けれど、迷いや苦しみは理解できた。
《ディアヌローズ》は、きっと耐えられなくなったのだ。
なら、このままの方がいい。
ここにいた方が、《ディアヌローズ》の『想い』に適っている。
闇に溶けて、同化する。
それが《ディアヌローズ》の選んだ贖罪。きっと。
マノワは態々《ディアヌローズ》を迎えにきた奇特な精霊だけれど、《ディアヌローズ》の想いを話してお帰り願おう。
──あの……マノワ、教えてくれてありがとう。
《ディアヌローズ》は嘘をついて守ってもらうことに、耐えられなくなったみたいなの。
お世話になった大切な人たちに迷惑を掛けたり、困らせたりしたくないのよ。きっと。
だから、このままここにいた方がいいと思うの。
──だから、神の家へ行くって言い出したんじゃないか。
──あ、ああ……そうね。
なら、どうして、……ここにいるの?
やっぱり、罰でここにいるんじゃないかしら……。
──まったく、まどろっこしいね!
マノワが言うや否や、
天上に光が現れる。
漆黒の闇に輝く、一条の光────
光の糸は煌めきながら、あお向けた『何者か』の目前に降りてきた。
触れずにはいられない、仁愛に満ちた光。
『何者か』は意識を手に集中した。
暫くぶりに動かす手は、油の切れた機械みたいだ。
ギシギシと音がしそうな関節の痛みとぎこちない動きで、蜘蛛の糸のように繊細な光へと手を伸ばす。
震える指先が光に触れた刹那────
『何者か』は立っていた。
薄い光が身体を覆い、灯台のように周囲を照らし出している。
波頭を鈍く光らせる濁流が『何者か』を中心に渦を巻き、ごうごうと音を立てていた。
目の当たりにして怖気立つ。
津波のような大波が、『還れなかった』と慟哭している。
『何者か』を呑み込むように覆い被さり、失意の海に沈めようと牙を剝く。
荒れ狂う波濤は光の膜に触れた端から力を失い、膜を舐めるように足元へと流れ落ちては消えていった。
次に、うねりの強い三角波が、『祖母に会えない』と悲鳴を上げた。
ぶつかり合い、捻じれ、千切れる水飛沫が、哀しみの渦へ引きずり込もうと網を打つ。
起伏の激しい飛沫を光の膜へとまき散らし、大波と同じように流れ落ちて無くなった。
続いて、大切な人たちとの繋がりを断ち切ろうと、『別離』が唸りを上げて襲いかかる。
神の家へ移る際の、別れの喪失感が、淋しくて、怖くて、辛い。
階級社会で切り分けられた世界の中で、孤児となった『何者か』は、大切な人たちからもう口をきいてはもらえない。
足を掬い、絡めとろうとする急流が、光の膜を『何者か』から引き剝がそうとしては吸い込まれていった。
ふと、轟音の狭間で、囁くように願っている声に『何者か』は気付いた。
小舟のように翻弄されている声。
ともすれば見逃したり、沈んでしまいそうな其れを、『何者か』は掬い上げて声を聞いた。
ああ……。
わたしは守られたかったのか────
寄りかかり、守られることに甘えすぎて、慣れ過ぎた。
独りで立ち向かうのが怖くなった。
嘘をつく浅ましさも、本を正せば守られたいから。
理性は寄る辺ない者として神の家へと結論付けても、感情は現状維持を望んだ。
成人した《奏》としての理性と、幼い《ディアヌローズ》としての感情。
幼い《ディアヌローズ》の器は耐えきれなかった。
当然ではないか。
ある日突然、未知の世界に放り込まれたのだから。望んでもいないのに。
独りで生きていくことなど、到底無理な子供にまでされて。
イストワールで待ち受ける未来は、すべてが怖くて辛いものばかり。
身が竦んで、一歩も前へなど進めない。
だから、
…………もういい。
──マノワ……わたし、がわかったわ。ありがとう。
わたしね、みんなとお別れするのが嫌だったの。
マノワとも会えなくなる……。
でも、お世話になった人たちに、迷惑をかけるのはもっと嫌なの。
本当は、領事棟のあの部屋に居続けたい。
でも、そんな我儘を言って、大切な人たちを困らせたくない。
聖堂に行った時、……還れたら、良かったのにね……。
そうしたら、誰にも迷惑をかけたり、困らせたりしないで済んだのに。
もう、頑張れそうにないの……。
ごめんなさい、マノワ。
わたしのために手を尽くしてくれて、ありがとう。
神の家へ行ってお別れするのも、ここでお別れするのも変わらない。
だから、……ここで、さよならさせて。
ありがとう。マノワ。心からの感謝を……。
──何が、さよなら、だ! ふざけんじゃないよ。
いいかい、あんたは分かっちゃいない。
迷惑かけるのが嫌? 困らせたくない?
ああ、見上げた心がけだ。褒めてやるさ。
だがね、あんたは一つ、大事なものを忘れてる。
あんたを失って、悲しむ者がいるとは考えないのかい?
──わたしみたいに手の掛かる子どもを、
惜しむ人なんていないわ。
──はっ、見くびられたもんだね。このマノワをお忘れかい?
あんたを失っちまったら、あたしが大泣きしてやるよ。
それに、あたしだけじゃない。
嘘だと思うなら、ちょいと目を開けてみな。
目を腫らしたり、隈をつくった奴らがあんたを囲んでる。
────……そ、んな、……はず、ない……。
手間を掛けさせてばかりなのに、惜しんでもらえるなんて思えない。
期待してはダメ。叶わないときの苦しさを、もう味わいたくない。
──『ディアヌローズ』、
この呼びかけを聞いたことあるだろ?
──……ええ、あるわ。ずっと、呼び続けてた名前ね。
…………ちょっと、待って……。
……わたしの、名前、ね。
……わたしを呼ぶ声、だった、の!?
羨ましい、……と思ったわ。
……でも、
…………わたしは、わたしを羨んでいたのね。
──ああ、そうとも。
この屋敷精霊マノワが加護を与えた、あたしの愛し子さ。
よくお聞き、ディアヌローズ。
岐路に立ったときには、一方の道だけを見ちゃダメだ。
別れた道の数だけ、あんたは考えなきゃいけない。
見通しのいい平坦な道だって、泥濘道かもしれないし、先へ行けば断崖絶壁かもしれない。
藪に覆われた道の方が、抜ければ素晴らしい景色が広がってるかもしれないんだ。
目先に囚われるのは愚か者のすることさ。
道の質を調べ、風の匂いを嗅ぎ、景色の変化に目を光らせる。
自分の向かう先から来る者に話を聞いたり、木に登って先を見通したっていい。
これまで歩いてきた道と比べてみるのも大切だ。
できる限りを尽くして選んだ道なら、後悔は少ないはずさ。
いいかい、ディアヌローズ。あんたの道を創るのは、あんただけだ。
あんたが考え抜いて選んだ道なら、どんな道でも、このマノワが見届けようじゃないか。
わたしにはこんなにも、心と言葉を尽くしてくれる友がいた。
この先に待つ、寂しさや哀しさ、辛さや苦しさは、変わらずにそのままあるのだろう。
けれど待ち受ける困難に立ち向かう時、独りでないないのなら頑張れるかもしれない。
自分のためには怠ける心も、
大切な友が寄り添ってくれていると知ったからには、踏ん張れるかもしれない。
──マノワ、……わたし頑張ってみる。
──あんたなら出来るさ、ディアヌローズ。
待ってるよ。
──ええ、必ず戻るわ。
待っていて。
『わたし』は決意表明した。
すると、足元に淀んでいた闇が、音もたてずに足元に吸われて消えた。
闇の消えた其処ここに、色とりどりの丸い玉が散らばっている。
手近の玉を拾い上げると、すぐに萎んでなくなった。
同時に、『わたし』の中に『ディアヌローズ』の記憶が顕れた。
もう一つ手を伸ばして拾い上げると、それは『奏』だった。
同じように萎んで消え、『わたし』の中に『奏』として現れた。
思うように動かない身体を必死に動かして、いろんな色の玉を拾っては、
『わたし』の中に、『ディアヌローズ』や『奏』の記憶や想いを取り込んでいく。
余さず全部を取り込んだ時、
他人事のように聞いたマノワの話が、すべて自分の事だと『わたし』は理解した。
『わたし』は、『ディアヌローズ』であり『奏』になった。




