ディアヌローズの申し出
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息を呑む声がさざ波のように広がった。
「ディアヌローズ!」
「其方は何を言っている」
美しい顔を驚愕の色に染めたエレオノールは悲痛な声を上げ、怒気をはらんだアルフレデリックの声が被さるように続いた。
背筋を伸ばして、ディアヌローズは唇を引き結ぶ。アルフレデリックの視線を真っ向から受け止め、弱い心を知られまいと精一杯の虚勢を張る。真実を話せもしないのに、これ以上みんなの優しさにつけ込むわけにはいかない。
膝に置いた手を握りしめた。
その手に、共に長椅子に掛けていたエレオノールが、自らの手をそっと重ねてきた。
咄嗟に引き抜こうするディアヌローズの手を、エレオノールは逃さないとばかりに包み込んだ。
手許にディアヌローズは視線を落とす。
引き留めるかのような、エレオノールの手。嫋やかで温かい。緊張で冷え切った手に、エレオノールの心が沁みてくるようだった。
イストワールに転移してきた日、この手が優しく額に触れたのをよく覚えている。この手を離したくはないけれど、決してこの手を取ってはならない。決意を翻してはならない。ディアヌローズは自らを戒めた。
エレオノールの手をディアヌローズはつくづく見つめた。爪は整えられ、手入れされた美しい手だ。思い返せば、アルフレデリックの手も節くれだってはいたが、爪までもがきれいだった。貴族の手は誰もが皆、整っているのだろうか。
神の家で見た女の子の手は、幼いのにかさついていた。きっと自分も神の家に移れば、あの女の子みたいにかさついた手になるのだろう。
神の家こそが本来いるべき処。ここでの生活はもうお終いにする。
心はとうに限界で、これ以上嘘を重ねる自信はなく、真実を話す勇気もない。
嘘をつくたびに良心を覆い隠した膜は幾重にも重なり、古い膜から剥がれ落ちては澱となって心に沈んだ。良心は澱にまみれきっている。
欺瞞に満ちたこんな自分を、みんなは大切にしてくれる。
だからこそ、みんなにもう迷惑をかけたくない。
一日でも早くここから離れ、神の家へ行く。
真実を告げないまま、嘘をついたまま、その罪を贖わないまま。
弱くて、愚かで、卑怯な自分。
心の底で溜まった澱が渦を巻き、じわじわと嵩を上げてくるのを感じた。
あと少し、もう少し頑張れば神の家へ移れる。嘘を重ねなくて済む。
だから確固たる意思を見せなくては──。
気力をかき集めて、ディアヌローズは視線を上げた。
即座に、冷然としたアルフレデリックの瞳に捉えられる。
ディアヌローズは、未だエレオノールに包まれている手に力を籠めた。
真実ではなく、想いを語る。
「──聖堂で光を浴びた時、
アルフレデリック様と初めて出会ったあの日に戻れるかもしれない、と思いました。
でも、……戻れませんでした」
瞬いたディアヌローズの目から涙が一筋、頬を滑り落ちた。
歯噛みして息を止め、こみ上げるものをやり過ごす。
それから眉を下げて、力なく笑んだ。
「既に、わたくしの処遇に困っているのではありませんか?
季節も変わりました。名乗り出る者もおりません。
寄る辺ない者は神の家へ行くべきです。
わたくしは、皆さんにご迷惑をおかけしたくないのです」
「迷惑なんて思ったことないわ。
ディアヌローズ、お願いよ。行くなんて言わないで」
エレオノールは柳眉をきつく寄せ、目は潤いを増して鏡のように光っている。
「──これまでにも、たびたび皆さんのお手を煩わせてきました。
手のかかり過ぎるわたくしを、疎ましく思う日がきっときます。
ですから、引き留めてくださるうちにお別れしたいのです」
「其方は迷子の扱いだと言ったはずだ」
低く、静かな声だった。だがアルフレデリックのその声には、深い怒りが潜んでいる。
それでもディアヌローズは胸の内で感謝した。言葉の意味は発せられた声に反し、引き留めようとしてくれている。だからこそ、その優しさに甘えるわけにはいかない。嘘つきな自分には、受ける資格がないのだから。
本当に、ただの迷子ならよかったのに──。そう思わずにはいられない。迎えが来るまでお世話になるのなら、この苦しみはなかった。必ず終わりがあるのだから。
でも、転移してきた自分を迎えに来る者はいない。この状況に終わりはない。近い将来、みんなは必ず困り果てる。
寸の間ディアヌローズは窓を見遣り、再びアルフレデリックを見た。
「──小鳥を助けて欲しいと、お願いした時のことを憶えていらっしゃいますか?
『野に生きるものの生死は自然の理』
アルフレデリック様は、そう仰いました。
とするなら、わたくしは『理』から外れております。
……神の家に、わたくしを移してくださいませ。
わたくしは……手を差し伸べてくださった方々を、困らせたくはないのです」
すっとアルフレデリックから表情が消えた。その瞳にあった、猜疑の光も消え去った。
「……其方の言い分は理解した。手配が済むまで待つように」
淡々と、アルフレデリックは言った。感情の欠片もない、凍えるような冷たい声だった。
エレオノールは目を大きく見開いて、信じられないと言いたげな視線をアルフレデリックに向ける。
「アルフレデリック、……何を言ったかわかっているの!?」
「ああ、わかっている。私がこの口で言ったことだ」
今にも泣き出しそうな顔で、エレオノールはアルフレデリックを睨んだ。
「……わたくしは……認めないわ!」
声を震わせ、歪めた目からは涙が零れた。
ふたりを困らせ、心を踏み躙ってしまった──。ディアヌローズの胸は痛んだ。
それでも漸く、ディアヌローズは自分を赦せる気がした。
神の家の女の子や、瑠璃色の小鳥のように、自分もあるべき処へ収まれる。
これからは自分に胸を張れる気がした。
──ねえ、お祖母さま。
わたし頑張ったのよ。誉めてくれる?
ディアヌローズはエレオノールを見上げた。
口の端を笑みの形にし、ぎこちなく笑む。
エレオノールの手の内から、自身の手を引き抜いた。
長椅子から降りると、淑女然と姿勢を正した。
「お待ちしております」
恭しく跪礼する。
深く礼を執りながら、達成感に浸った。
できることなら、アルフレデリックを怒らせることなく、
エレオノールが涙することなく、
向けられた好意を踏み躙ることなく、やり遂げたかった。
でも、これで良かったとも思う。
見限られた方が、諦めがつく。
すぐに頼りたくなる自分には、この道が最適だ。
あとは神の家に移る日を粛々と待つのみ。
その日までは変わらずに接してほしいけれど、
口をきいてほしいと思っているけれど、
それを望んではならないことくらいは理解している。
イストワールは貴族社会で、保護する対象ではなくなったのだから。
なにより、好意を踏み躙ったのだから。
ただ、淋しいと思うことは許してほしい。
これで『やらなければならない事』の四つ目が終わった。
手慣れたように、『心の蓋』に掛けていた四つ目の鍵をカチャリと外す。
瞬間────
失意を閉じ込めた『心の蓋』が弾け飛んだ。
勢いよく、真っ黒な失意が胸の裡に噴き出した。
底に溜まっていた澱を巻き上げながら、渦を巻いて混ざり合う。
失意がディアヌローズを蹂躙していく。
最奥で眠らせていた《奏》までをも例外なく。
《ディアヌローズ》も、
《奏》も、
漆黒の失意に染まった。
礼を解く暇もなく、《ディアヌローズ》だったものは頽れた。




