フロラント商会にて
表現の修正をしました。
ディアヌローズは漆黒の闇にいた。
周りが暗いのか、自身の目が見えないのかすら分からない。
恐怖で身が竦み、組んだ手が冷たく震えた。
不意に、頭の上からきらきらと光の粒が降ってきた。
見上げれば、遥か上で光の玉が周回している。
周りを照らすわけでなく、残滓がオーロラように幻想的なドレープを空中に落とし、流星のように儚い軌跡を描いている。
ディアヌローズには光が闇に吸収されていくように見えた。
けれど光の玉は輝きを失うことなく、円を描きながら徐々に高度を下げてくる。
とうとう光の螺旋はディアヌローズを包み、漆黒だったディアヌローズの視界を白く変えた。
それで初めて、ディアヌローズは今まで見ていた闇が意識の中であったと気付いた。
闇を払ってくれた光の玉をどこかで見た気がするけれど、認識はぼんやりとして曖昧。
どうにも思い出せず、ただひたすらに眠かった。
耳はずっと風の音が鳴っている。「ビュービュー」とか「ゴォーゴォー」といった嵐にも似た音。
身体は指一本動かせない。瞼だけは瞬きほどの間だけ、僅かに動かせた。
その目に映ったものは青みがかった緑色。すごく近くにあって確かめたいのに、眠さに抗えずに目を閉じた。
その後も断続的に目の前の色は変わっていく。黒かったり茶色だったり、青いときも紫のときも、それから金色も銀色もあった。たくさんの色を見たけれど、それらが何なのかは分からない。
視界は狭く薄靄がかかったようで、見えている色も正しいのかは定かでなかった。
やがてぼんやりとした曖昧さは霧が晴れていくように少しづつ機能し始め、聖堂で光の奔流に呑まれた時の記憶が徐々に甦ってきた。
力を無くしてだらりと落ちた、翳していた腕の重さ。
火照った身体と、力の抜けていく膝。
縋るように動いた指先が、手摺を掠めた感触。
幕が落ちるように、漆黒の闇に落ちたこと。
そして、突如ディアヌローズの頭上に現れた光の螺旋に包まれるまでを。
──ああ、そうか……。
還ることは叶わなかった……。
もしも《奏の世界》へ還れたのなら《奏》に戻れているはずで、身体が動かせないなんてありえない。だからこの身体はきっと《奏の世界》とは違う世界の身体なのだろう。
──イストワール? それとも別の世界?
違う世界なら、また同じことを繰り返さなくてはならないのか。記憶が無いと嘘をついて。今度はイストワールの人たちみたいに、優しい人たちとは限らない。うまい話はそう何度もあるものではない。
それになにより、嘘をつくのは苦しくて、嫌だ。
──還りたかった……。
……もう頑張れないよ……。
思いつくことが否定的ばかりなのは、心が疲れたからだ。
イストワールの聖堂が月詠家の聖堂と大きく違っていても、驚くほど冷静でいられた。
なのにあの大天蓋から光が迸ったのを見た瞬間、『還れる』と心が叫んで期待の針が振り切れた。振り切れた針は壊れて、惰性で空回りしている。
『還れなかった』事実が心を苛む。
オセロの駒みたいに白い期待がパタパタと黒い失意に置き換わり、胸の裡を失意で真っ黒に埋めてしまった。
いま、ディアヌローズの心は失意で満ちている。
転移してからずっと苦しかった。
嘘をついていることに。秘密を抱えていることに。
誰にも本当の事を告げられないことに。……ちがう。……マノワ。
マノワには《奏》であると話した。
マノワは言ってくれた。『辛かったろう』って。
聖堂に行く前夜、マノワに伝えた。
『わたしね、イストワールも好きよ。ここにいて元の世界が懐かしいように、元の世界に還ったら、イストワールを懐かしく思うのだわ。……きっとね』
──そうね、マノワ。
せめてイストワールであるかくらいは確かめないと、ね。
例えイストワールであっても、この黒く失望に塗り替えられた胸の裡は変わらないだろう。それでも感謝とお別れを告げる間ほどなら、自分を誤魔化せて頑張れる。そう自分に言い聞かせた。
失意で満ちた心に、ディアヌローズは蓋をする。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
ディアヌローズは瞼に力を籠めた。重いはずの瞼がぱちりと開いて、我ながら驚いた。耳鳴りも嵐の音から、髪が靡くほどの風音になっている。
「よかった。……気が付かれて」
耳鳴りに紛れて声が聞こえた。その声へとディアヌローズは向く。
「……フォセットさん」
目の前に、安堵の表情を浮かべたフォセットがいた。
ディアヌローズの眦から、ほろりと涙が零れる。
還ることは叶わなかったけれど、未知の世界ではなかった。
フォセットはディアヌローズの頬にそっと触れて涙を拭った。
その手にディアヌローズは擦り寄る。
「魔力酔いになられたのですよ」
「魔力酔い?」
ディアヌローズは小首を傾げる。
「あの日の祝福は、常にない量の祝福が齎されました。洗礼前のお嬢さまには耐えられなかったのですわ」
「皆さんは大丈夫でしたか?」
「ええ。ですが下級貴族では魔力酔いになったでしょうね」
「平民の方々も魔力酔いに?」
「平民はもともと魔力がありません。魔力酔いにはなりませんわ」
「そうですか……良かったです。わたくしだけで」
ディアヌローズの脳裏には、手を繋いで歩いていた親子連れが浮かんでいた。
「まあ、ご自分だけで良かったなんて……。丸三日も気が付かれなかったのですよ」
「迷惑をお掛けしてごめんなさい」
フォセットは眉根を寄せる。
「以前にも申しましたでしょう。迷惑でなくて、心配したのですわ」
フォセットの目は玻璃玉のように潤んでいて、ディアヌローズはとても心配をかけたのがわかった。けれどこんなとき、何て言えばいいのだろう。
「……ただいま戻りました」と、蚊の鳴くような声で言った。
「ええ、お待ちしておりましたわ」
フォセットから笑みが零れる。ディアヌローズの髪を愛おしそう梳いた。
ディアヌローズは髪を梳かれながら、最悪ではないにしても、最善でもなかった現実を考える。
──マノワ……やっぱり還れなかったよ……。
マノワは『還る方法は必ずあるはず』と言ってくれた。
大オルガンが似ている以上、希望は潰えてはいない。
ディアヌローズも頭では解っている。
けれど光を浴びても還れないのなら、大オルガンが似ていることに意味なんてあるだろうか。
残された唯一の希望である大オルガンに、ディアヌローズは期待する勇気が持てない。
これまで期待してきたものは、すべて虚しく散っていった。
希望が無ければ生きていけない。希望を失うたび、新たな期待を探しては縋ってきた。
だからこそ自分がすっかり期待の中毒になっていて、最後の希望である大オルガンを失うのが怖いのだ。
ディアヌローズの胸の裡はすっかり黒い失意で満ちていて、たった一つの希望だけでは、どう足掻いても盤面は変えられない。ディアヌローズが今できるのは、失意に満ちた心の蓋をしっかり閉めておくことだけ。
ディアヌローズの竦んで凍える心を、フォセットの髪を梳く手が宥めてくれていた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
ノックの音とともに入室を求め、手にじょうろを持った女の子が入ってきた。窓辺に向かう女の子の先には、みごとに咲き誇る花鉢がある。
水色の髪をしたその子をディアヌローズは商会の店内で見かけた憶えがあった。
「ここは商会なのですね」
「聖堂の前に立ち寄ったフロラント商会ですわ」
「わたくし、商会にまで迷惑をかけてしまったのですね……」
ディアヌローズはしょんぼりと言った。
「商会には便宜を図っておりますので、お気にされなくてよろしいのですよ。お嬢様が目覚められたと連絡してまいりますね」
フォセットは商会の子に、
「自分が戻るまで部屋にいるように」と言い置いて出て行った。
女の子は戸惑いを隠しきれないまま、寝台と窓の中ほどくらいからディアヌローズをちらちらと窺っている。
ディアヌローズも声を掛けるのを躊躇っていた。フォセットから『知らない者と口をきいてはならない』と窘められたことがあるからだ。
見つかったらフォセットに叱られるかもしれないけれど、子どもと話す機会なんてそうそうない。叱られる覚悟を決めて、口を開いた。
「こんにちは。お幾つかしら?」
「じっ、十歳です」
声を掛けられるとは思っていなかったのか、女の子はドギマギと答えた。
「十歳なのに、もう働いていらっしゃるの?」
「働き始めたのは、洗礼を終えた七歳からです」
ディアヌローズは目を丸くする。
「まあ! 早くから働き始めるのね」
「みんな七歳から働き始めます。最初は行儀作法を教わって、それから見習いとして内向きの仕事を覚えて、十歳から少しずつ店に出るようになります。そうしないと成人までに一人前になれませんから」
女の子は黄緑色の瞳を輝かせ、張りのある声でそう言った。
わずか十歳で将来を見据えて語る女の子に、ディアヌローズは称讃とともに驚きを禁じ得ない。自分も洗礼を迎えたら見習い仕事に就かなければならないようだ。
会話が途切れたところで、フォセットが戻ってきた。
ディアヌローズは女の子に笑みで別れの挨拶をする。
女の子は部屋を出て行った。
「お待たせいたしました。何事もありませんでしたか」
「はい。いつ戻るのですか?」
「アルフレデリック様から『しばらく城下で静養するように』とのことですわ」
「戻ってはいけませんか? 準備した品を皆さんにお渡ししたいのです。あまり日があくと、不出来が気になってしまいますもの」
へにょりと眉尻を下げて、ディアヌローズは弱り切ったように言った。頭の中では作った品々の妥協した箇所が次々に浮かんでは消えていく。
「そんなことございません。良くできておいででしたわ」
フォセットは寝台脇の椅子に掛けた。
ディアヌローズはその様子を見つめた。いつもの凛とした気がフォセットから感じられず、とても疲れているように見える。自分に付き添っていたせいだと気付いた。
「そのように言っていただけて嬉しいです。──あの、フォセットさん、戻って休んでくださいませ。わたくしなら一人で大丈夫です」
「お嬢さまをお一人にはできませんわ。交代で休んでおりますから大丈夫ですよ」
ふと、意識が朧だった時に見たさまざまな色をディアヌローズは思い出した。
「もしかして、ベアトリスさんやマリレーヌさんも付いていてくださいましたか?」
「まあ。あの状態でよくお分かりでしたわね」
「あの……まさかとは思いますが、アルフレデリック様もお見えになりましたか?」
「ええ。心配なさっていらっしゃいましたわ」
やはり、とディアヌローズは思う。朧な意識で見た色はみんなの瞳の色だった。思った以上にたくさんの人に迷惑を掛けている。早く戻って神の家へ行くべきだ。
気の急くまま、身体を起こそうと頭を上げた────
なのにほんの僅か浮いただけ。手足にいたっては力すら入らなかった。
──もう嫌だ。何もできない。またみんなの負担にしかならない。
……こんな自分は、もう要らない。
ディアヌローズは悔しくて、情けなくて、泣きたくないのに涙が溢れた。
涙を見られたらまた心配をかけてしまう。慌ててフォセットから顔を背けた。
「どうされまして?」
「何でもないの。欠伸をしただけよ」
ディアヌローズは顔を背けたまま言った。
「身体が動かないのを気にされましたの?」
フォセットに言い当てられて、ディアヌローズはフォセットへと向き直る。目頭に溜まった冷えた涙が再び瞳を潤し、眦から顳顬へと滑り落ちた。
「魔力酔いが治らないと、身体は動かないのですよ」
「本当に?」
「はい。魔力酔いが治るまでの辛抱です」
「──そう、なのね。良かった……」
動けるようになるなら自分への約束を守れる。当初の予定どおり、手掛かりを得られなかったからには神の家へ行く。ディアヌローズは再びの決意を固めた。
それまでに『やらなければならない事』を、ディアヌローズは胸の内で順に挙げていく。
まずひとつ目は領事棟へ戻り次第、アルフレデリックとエレオノールに面会して用意した品を贈る。
ふたつ目、みんなにも用意した品を受け取ってもらう。
三つ目、今までの感謝をみんなに伝える。
四つ目。神の家へ行きたいと申し出る。
五つ目は神の家に移ってからになるけれど、洗礼までに自分に何ができるかを考えて見習い先を決める。
──あとは聖堂について。……大オルガン。
でも、今は考えたくない……。
ディアヌローズは締めくくりとして、心の蓋に『やらなければならない事』の一つひとつで鍵を掛けた。全部で五つの鍵。
まずは『やらなければならない事』をこなしてから。
心に向き合うのそれからでいい。
蓋が開いた時、自分はどうなってしまうのか。
ディアヌローズ自身でも予想がつかなかった。




