祈りの日の聖堂(1)
表現の修正をしました。
ディアヌローズは目を覚ました。暗くて夜明け前かと思ったけれど、一筋の光が漏れている。昨夜マノワに会うために、帳を閉じてもらったことを思い出した。
手を目の前に掲げてじっと見つめた。眠る時にマノワが撫でてくれたその手は、朝を迎えてもマノワの温もりを憶えていて、頬にあてればマノワに撫でてもらえた気さえする。
そのままにディアヌローズは目を閉じた。瞼の向こうに、昨夜マノワが授けてくれた加護の光が鮮やかに浮かんだ。花びらのように解けた光は、柔らかく、温かく、優しくディアヌローズに舞い落ち、心に沁みこんで芯に根付いた。
イストワールで最後になるかもしれない夜が、マノワとの思い出に満ちていることが堪らなく嬉しかった。
ほどなくして二の鐘が鳴る。
いつもより早く目覚めてしまったのは、緊張しているのかもしれない。
とうとう聖堂へ行く日がやってきた。行く道の決まる日である。
聖堂に行ったら、すぐに還れるだろうか。
その時、真実と別れを告げる時間はあるだろうか。
すぐに還れなくても、手掛かりを見つけられるだろうか。
その時には、みんなに《奏》のことを話して協力を願い出るべきだろうか。
そして、何も得られなかったなら──
記憶が戻ったとして、身寄りはいないと告げて神の家へ行く。
いずれにしても、みんなとの別れだけは決まっている。
還れるかもしれない嬉しさに負けないくらい、別れの寂しさがある。
ディアヌローズは首を振って寂しさを追い払い、代わりにきょう持って行くものを指折り数えていく。耳飾り、指環、腕環、ブローチ、エレオノールから貰ったハンカチ。マノワとお揃いのレースバンド。それから──マノワから貰った小鐘。
──どうしよう……。
返すべきか迷っていると、マノワのしわがれ声が頭の中に届いた。
──持っていておくれ。
辺りを見回してもマノワの姿はなくて、ディアヌローズはあちこちに目を配りながら尋ねる。
──大切な物なのでしょう? 本当にいいの?
──ああ。何度も言わせないでおくれ。
──ありがとう。姿は見せてくれないの?
──あんたを起こしに向かってるのがいるからね。きょうはしっかりおやり。
──ええ、頑張るわ。ありがとう。
間を置かず、二と半の鐘が鳴った。
マノワの言ったとおり、鐘の音に合わせるように帳が開いて、マリレーヌが顔を出した。
「おはようございます。お目覚めですか」
ディアヌローズは一気に朝日に晒されて、あまりの眩しさに手をかざす。目を眇めた。
「おはようございます、マリレーヌさん。きょうもいい天気ね」
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
朝食を終えると、外出の支度が始まった。
外出着は若菜色の控えめなパフスリーブがとても可愛らしく、スカートは布がたっぷり使われて膨らむ意匠になっている。ウエストには白茶のサッシュ。靴も白茶、髪と胸もとのリボンは茶色。全体的に落ち着いた雰囲気だ。
マリレーヌとベアトリスの手によって着替え、最後に装飾品が付けられた。
ディアヌローズは飾り箱に入れてあったブローチをこっそり隠しの内側に留め、ハンカチとレースバンドも隠しに入れた。マノワの小鐘は、指環を下げている金鎖に一緒に通した。
本当は転移の日に着ていた衣装や靴も持って行きたいけれど、さすがに無理だと諦めた。
準備を万端に済ませて、ディアヌローズは飾り棚に置かれた玻璃のドームを見上げた。一緒に転移してきた薔薇はアルフレデリックの手によって、玻璃の中で今もあの日と変わらない美しさを保っている。
──連れて行けなくて、ごめんね……。
薔薇に別れの挨拶をすませた。
暫くすると、フォセットが外出着にマント姿でやって来た。
ディアヌローズは「フォセットさん──」と呼びかけた。
「いかがされまして?」
「……あの……」口籠った。
《奏の世界》に還れた場合に備えて、みんなへの贈り物をフォセットにお願いしようと思った。でも理由を問われたら答えられないと、今さらながらに気付いてしまった。
ディアヌローズは代わりの言葉が見つからないまま、
「──よろしくお願いします……」と口にした。
フォセットは青緑色の目を瞬かせる。
「わたくしこそお願いいたしますね」と笑んだ。
それからすぐに、マント姿のアントナンがワゴンに大きな木箱を載せて現れた。
ディアヌローズには嫌な予感しかしない。
案の定、木箱はディアヌローズの前に置かれて、蓋が開けられた。中にはクッションが入れられている。以前、神の家に行ったときと同じだ。
暗く狭い箱の中は暑くて、息苦しくて、気持ち悪くなったことを思いだす。我知らず眉が寄った。
「こちらに入ってください」アントナンが促した。
ディアヌローズは半歩後ずさる。
「うっ、……どうしても入らないといけないのですか?」
いつもの柔和な雰囲気を消したアントナンは、きわめて真面目な顔で尋ねる。
「どうしても、です。聖堂に行きたいのでしょう?」
ディアヌローズはフォセットを見た。気遣わしそうな表情のフォセットと目が合う。フォセットは神の家にも同行してくれたので、具合が悪くなったことを知っているからだろう。止めてもいい、と言われている気がした。
──でも……諦めるなんてできない。そうよ、わたしは還りたい。
覚悟を固めたディアヌローズは、貝紫の瞳をまっすぐアントナンに向ける。
「入ります」と告げた。
ディアヌローズが木箱の中に入ると蓋が閉められ、前回の記憶をなぞるように馬車まで運ばれた。嬉しくない懐かしさに泣きたくなる。
馬車は出発し、やはり馬車酔いで気持ち悪くなってきた頃に止まった。おそらく領事門だろう。
少しすると馬車は再び動き出した。
今回は木箱から出してもらえないのだろうか──。ディアヌローズが諦めかけたその時、木箱の蓋が開いた。
アントナンに抱き上げられて、そのまま膝上に抱えられる。最初から抱き上げてもらえるとは幸先がいい。景色も見やすかったはずだと窓を見る。だがカーテンは閉まっていた。
ディアヌローズが嘆息して前を向くと、フォセットが見ていた。
「ご気分はいかがです?」心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫です。外を見られなくて残念だったの」
礼を伝えて笑んで見せ、それから首を捻ってアントナンを見上げた。
「膝にのせてくださってありがとう存じます」
「いえいえ。前回は大変だったそうですね」
「はい。馬車が揺れるたびに跳ね上がって、あちこちぶつけてしまいました」
情けなく眉尻をへにょりと下げた。
「アルフレデリック様がお嬢さまを抱き上げられたと聞いた時には、側近一同が腰を抜かすほど驚きましたよ」
言葉とは裏腹に、アントナンは楽しそうだ。
ディアヌローズは驚きを隠せない。
「そうなのですか!? ……わたくし、辞退申し上げないといけなかったのですね……」
「そんな必要ありませんよ。アルフレデリック様から進んでされたのですから」
「──わたくし、……やはり次は、辞退するようにいたします」
アントナンは揶揄っているわけではなさそうだけれど、弾む口調がどうにも気になった。
「いえいえ。是非お受けして、私たちを楽しませてください」
黒い目を細めて、にんまりと口角を上げた。
困ったディアヌローズはフォセットに助けを求める。
「フォセットさんはどう思われますか?」
「あの時はお顔の色がかなり悪かったので、アルフレデリック様も放っておけなかったのでしょう。お嬢様はまだお小さいのですから、遠慮なさらなくてよろしいのですよ」
「わたくし、とても手がかかるのですね……」
ポツリとこぼして、目を伏せた。
「子供とは手のかかるものですわ。──だからこそ愛おしいのですよ」
弾かれるように、ディアヌローズは視線を上げた。フォセットが言葉どおりの表情で微笑んでいた。
「それに、お嬢様はもっと甘えてくださっていいのですよ」
フォセットのくれた言葉は慈愛に満ちていて、ディアヌローズの心を温かく包み込んだ。心の最奥で眠る奏までもが良い夢を得られると、そう思えた。
けれど最後になるかもしれない日にもらうには、切なくなる言葉だ。別れがいっそう辛くなる。それでもなお、ディアヌローズは《奏の世界》に還りたかった。
泣きたくなる気持ちを堪えて、ディアヌローズは口を開いた。
「──わたくし、そのように言っていただいたら……調子にのってしまいます」
「楽しみにしておりますわね」
「それは私も楽しみにしていましょう。主にアルフレデリック様に対して」
アントナンが言った。
「アントナンさん、それは無理です」
ディアヌローズは口をへの字に曲げる。アントナンのおかげで色々と台無しだ。
「おや、残念ですね」
きわめて軽い口調で言った。
馬車は一旦止まって、城下門を通過した。
「聖堂は城下門の外にあるのですか?」
ディアヌローズの問いにアントナンが答える。
「聖堂は通り過ぎました。きょうは平民の祈りの日なので、いちど城下に出て専属の商会に行きます。そこで馬車を乗り換えてから聖堂へ向かうのですよ」
「わたくしの我儘で、たくさんの方々にご迷惑をかけてしまったのですね」
「気にしなくていいですよ。私は楽しんでいますからね。──さあ、着きました」
馬車が止まり、扉が開かれた。
最初にアントナンが、続いてフォセットが馬車から降りる。
ディアヌローズは最後に抱き下ろされた。
組木模様の石畳におり立った途端、夏の陽射しがじりじりと肌を突き刺すようだ。馬車の反対側から、涼やかな水音が聞こえてくる。
正面には、間口の広い五階建ての立派な建物が見える。ここが専属の商会らしい。
入口に男の人が二人立っていた。
その内の一人、灰色の髪をした上品な初老の男性が近づいてきた。
「お待ち申し上げておりました」
男性は恭しく礼を執った。




