杖と女性たちの怒り
表現の修正をしました。
瞼に透ける光に、ディアヌローズは目を覚ました。眩しさを覚悟して僅かに目を細く開ければ、きらきらしい朝日が部屋に射し込んでいる。玻璃越しの空は願いどおりに晴れ渡り、昨夜の暗澹たる気分も、たいして深刻ではなかったような気がしてくる。
今もなおきのうの瑠璃色の小鳥を想うと胸は痛く、目を背けてしまいたくなるが、亡骸を見つけたらお墓を作ろうと決めている。償いにもならないけれど、そうすることが自分に課せられた義務と思えた。
身支度を済ませ、ディアヌローズはきのうと同じ窓辺に立った。つま先立ちになりながら窓の桟に手をかけて、小鳥が雨宿りをしていた茂みに目を配る。見つけられないまま、あちこちにできた水たまりも一つ一つ丹念に探していった。けれどそのいずれにも、瑠璃色をした小鳥の姿はなかった。
「フェブルでもおりまして?」
キョロキョロしているディアヌローズに、フォセットが訊ねた。
「いいえ。きのう、小鳥があの茂みで雨宿りをしていたのよ。でも見当たらないわ」
フォセットも茂み周辺をざっと見渡した。
「いないようですわね。雨が上がって飛び立ったのでしょう。さあ、朝食のお時間です」
「ええ。小鳥が無事でよかったわ」
ディアヌローズは心から小鳥の無事を喜び、小鳥の自由を奪わないよう助言してくれたアルフレデリックに感謝した。
三の鐘が鳴り、ディアヌローズはヴィオリナの調弦を始める。
課題曲の練習前に、小鳥に祝いの曲を贈ろうと思いついた。選んだ曲は、鳥の名を冠した曲、だったと記憶している。軽やかな曲調が、苦難を乗り越えた小鳥に合っている気がした。
ずいぶん昔に弾いて以来なので、記憶を頼りにとりあえず最後まで弾いた。次こそ始めから終わりまで弾ききろうと気合を入れ、小鳥に届くことを願って窓辺へと移動する。
肩にかかる白金の髪を背に払い、ヴィオリナを構えた。目を閉じ、小鳥に思いを馳せて奏でる。最後までつかえずに弾き終えて、最後の一音の余韻が消えてから窓の外を見た。
やはり小鳥の姿は無かったけれど、代わりに雲一つない青空があった。どこまでも広がる空が、小鳥の自由の象徴のよう。雨宿りをしていた瑠璃色の幼い鳥が、成鳥になって大空を羽ばたく姿を想像する。
ふと、以前目にした、長い尾羽を持つ瑠璃色の鳥を思い出した。あの幼鳥も瑠璃色だったから、やがて同じように尾羽を長くして、大空で自由を謳歌するのかもしれない。なんて素敵な未来だろう。
知らず頬が緩んで笑みが零れ、ディアヌローズは課題に取り掛かろうと踵を返した。
途端にぎくりと足が止まる────
視線の先に、アルフレデリックの姿があった。微かに蒼い銀の長髪に、濃藍の衣装を纏う立ち姿は、整った顔立ちも相まって美しい彫像のようだ。
アルフレデリックのもとへと急いだ。
「……ごきげんよう。アルフレデリック様。本日は確認の日、でしたか?」
小首を傾げた。
「ああ、……いや。課題の確認で来たのではないが……元気そうだな」
じろじろ見るアルフレデリックをディアヌローズは気にもせず、弾んだ声を上げる。
「はい。アルフレデリック様。きのうはわたくしを止めてくださり、感謝いたします。おかげさまで、きのうの小鳥は無事に飛び立ったようです」
「……そうか」アルフレデリックの返答はそっけない。
どうやら、アルフレデリックにはこの感動が伝わり切れていないらしい。少なからず気勢をそがれたディアヌローズに、アルフレデリックは追い打ちをかけるように問う。
「ところで、先ほどの曲は何だ?」
うっ、と息を詰め、ディアヌローズは視線を彷徨わせる。舌打ちしたい気分だが、聴かれてしまったのなら仕方ない。
「あれは、あの曲は……あの小鳥の曲です」
ディアヌローズが貝紫の瞳でアルフレデリックを見上げると、淡い金の瞳に捉まった。
「其方が考えたのか?」
「分かりません」
《奏の世界》について言えないのなら、この嘘は必要悪。昨夜吹っ切れたおかげで迷いはなく、いま以上訊かれようとも、この答えしか持ち合わせていない。
数舜片眉を上げたアルフレデリックは、ディアヌローズの持つヴィオリナに目を向けた。
「では、課題の確認をしよう」
「あの、先ほど確認ではない、と……」
アルフレデリックは口端を上げて、にやりと嗤う。
「課題でない曲を弾いていたのだ。余裕で弾けるのだろう?」
なんて無茶ぶり。この人はこういう人だった。ディアヌローズは肩を落とす。
しぶしぶ課題曲を弾いた。合格をもらったが、次の課題はあとで渡すと言われたので、やはり課題を確認する予定ではなかったらしい。
ディアヌローズには、アルフレデリックの来訪理由が分からない。ティーカップ越しに、対面で優雅にお茶を飲んでいるアルフレデリックを窺う。ふいに、顔を見せた直後のアルフレデリックの表情が浮かんだ。
意外そうな顔、だった。──もしかしたら、きのうの様子を気にして来てくれたのかもしれない。思い至った途端に、心がほんわりと温かくなった。
来訪を知らせる小鐘が鳴り、エレオノールが現れた。
三人でお茶と会話を一通り楽しみ、新たなお茶が淹れられている時だった。
「ところで、ディアヌローズ。本は読んだか?」アルフレデリックが訊ねた。
ディアヌローズは頭を抱えたい気分だ。アルフレデリックの齎すものは気を抜けないし、怠けられない。まずは本を貸してもらった礼を伝え、それから僅かばかり非難がましい口ぶりで言う。
「少し、読みましたけれど……。あの本、『建国神話』も課題でしたか?」
「いや、課題ではない」
課題でないなら圧をかけないでほしい。ディアヌローズは眉を顰める。
「飾り文字なので、読むのに手間取ってしまうのです」
アルフレデリックは顎に手をあてる。
「ああ。あれは飾り文字で記してあったな」
さも今気付いたと言わんばかりの態度だが、ディアヌローズにはどうにも怪しく思えてならない。
エレオノールが杏色の目を心なしか大きくして、呆れたように言う。
「建国神話は、まだディアヌローズには難しいのではなくて?」
「別に課題ではないのだから、気長に読み進めれば問題ないだろう」
アルフレデリックは『気長に』と言うけれど、本当だろうか。ディアヌローズには甚だ疑問である。フォセットが手際よく書見台を用意して本を載せるに至っては、あまりにも連携が良すぎて驚きを隠せない。そして嫌な予感しかしない。
「どこまで読んだ?」アルフレデリックが問う。
やっぱりと、ディアヌローズは胸の内で嘆息する。飾り文字を辿り、その行を指さした。
「『兄姉神 末の女神に倣い 管理者を任ず』までです」
「では、次の行を読んでみなさい」
ディアヌローズは仕方なく読み始める。
「かみ……神々、じん……い、き……人域、の、も、の……人域の者、へ、つ、え、を……杖を、あた、へ……杖を与え、せ、せん、べ、つ……選別、の、しる、べ……標と、する。『神々 人域の者へ杖を与え 選別の標とする』」
「ふむ、読めないこともないな」
「もっと読みやすいものにしたらどう? 可哀そうだわ」
読めたのだから構わないだろう、とアルフレデリックはディアヌローズを真っ直ぐ見る。
「無理なら言いなさい」
妙に静かな声だった。課題曲を無茶ぶりした時とは違う。その違いが、ディアヌローズを慎重にさせた。
エレオノールからは『無理と言っていいのよ』という雰囲気が漂っているし、ディアヌローズとしてもできれば無理と言いたい。でもそれでは負けた気がするのも本音で、なにより無理と言ってしまったら最後、アルフレデリックに見限られてしまう。そんな気がしてならない。答えの決まらないまま口を開いた。
「……読みやすい方が助かりますけれど……。時間をたっぷり掛ければ、読めないこともありません」
「問題ないな」
「字を追うだけで精一杯では、意味を理解できるかしら?」
エレオノールの問いに、アルフレデリックは頤を親指で摩って考え始めた。
すると、フォセットが「失礼ながら」と声を上げて、昨日ディアヌローズの音読していた様子を語る。
「お嬢さまは理解しておいででしたわ。不明な点をわたくしに訊ねられましたもの」
「では、ディアヌローズ。いま読んだ中に不明な点があるなら、私が答えよう」
以前ヴィオリナの課題を渡した時のように、毒々しい笑みを浮かべた。
ディアヌローズは目を俯ける。あの時は怖いと思っただけだった。でも、今なら分かる。アルフレデリックは楽しんでいるのだ。質問しなければアルフレデリックは満足しないだろうことも。
けれど、建国神話は妙にディアヌローズの心をざわつかせる。興味がないわけではないが、積極的にはなれなかった。質問をして興味があると思われては、今度こそ課題にされかねない。不明な点は無い、と言ってしまえば済む。
なのに結局、誘惑には勝てなかった。
「本当に、神が人に杖を与えるのですか?」
「真実だ。魔力のある者は、神から杖を授かる」
ディアヌローズはアルフレデリックの淡い金の瞳をじっと見た。自分を担ごうとしているわけではないらしい。元から嘘をつくような人ではないと理解しているが、俄かには信じ難かった。当然アルフレデリックも杖を所持しているのだろう。見せてほしいと強請れば、見せてくれるだろうか。そう考えた時、転移した日の聖堂、アルフレデリックの姿を思い出した。
「杖とは、聖堂でわたくしに向けられた棒のことですか?」
「アルフレデリック!」「アルフレデリック様!]
ほぼ同時に、エレオノールとフォセットが、常にない険のある声を上げた。
びくりと、ディアヌローズは肩を竦ませて固まる。
「どういう事? アルフレデリック。本当に、ディアヌローズに杖を向けたの?」
エレオノールが非難し、フォセットもつづく。
「わたくしもお聞きしとうございます。アルフレデリック様」
アルフレデリックは眉間に深い皺を刻んで、腕を組んだ。
「あの日、聖堂扉の隙間から突如光が漏れてきた。たまたま光を見つけた私は、聖堂に足を踏み入れた。すでに日は落ちて中は暗く、不審者が潜んでいる場合を想定して杖を構えた」
「だからといって、ディアヌローズに杖を向ける理由にはならなくてよ」
憤るエレオノールに対して、アルフレデリックの声はあくまで冷静そのものである。
「ディアヌローズを攻撃するためではない。ディアヌローズの守護と、不審者の拘束が目的だった」
「──思い出したわ。ディアヌローズを保護したばかりの頃、ディアヌローズは酷く怯えていた。……ただ杖を向けただけではないわね」
エレオノールは柳眉を逆立て、厳しい視線をアルフレデリックに向ける。初めてアルフレデリックの表情に、気まずさが現れた。
「いや……あの時は指示を守らぬ者がいたのだ。その者はすでに処分を下してある」
あの日、お互いに警戒していたことが、ディアヌローズには何とも可笑しく思えた。そして聖堂で気を失う前に届いた制止の声がアルフレデリックと知り、その巡り会わせに深く感謝した。他の人であったなら、自分は今頃どうなっていたことか。
エレオノールはディアヌローズに向くと表情を和らげて、
「怖かったでしょう。ひどい目に遭ったわね」と、ディアヌローズの手を労わるように包んだ。
そしてフォセットは守るようにディアヌローズの肩に手をのせ、一段と厳しい声でアルフレデリックを窘める。
「稚いお嬢さまに杖を向けるなんて。わたくしはそのような行いをなさる方に、アルフレデリック様をお育てした覚えはございませんよ」
ディアヌローズは息を呑む。フォセットはアルフレデリックの、おそらく────乳母。今のふたりは普段とは立場が逆転していて、あのアルフレデリックがしおらしく見える。
「だから、違うと説明しただろう……」
アルフレデリックは肘をついた手を額にあてて弱り果てたように言うと、用を思い出したと逃げるように帰っていった。




