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イストワール国~その花の名を私は知らない~  作者: 天音蓮
第二章 転移編

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窓のむこう

表現の修正をしました。

 空は(にび)色の雲に覆われ、しとしと雨が朝から止むことなく降り続いている。

 雨粒が草木を洗う様子を、ディアヌローズは窓辺に佇んで眺めていた。ふと、近くの茂みで何かの動く気配がして、注意深く低木の根元を探した。


 すると一羽の瑠璃色をした小鳥が、雨宿りをしているのを見つけた。朝からの雨で木々の葉はすでに傘の役目を果たしておらず、(むし)ろ雨粒よりも大きな雫が小鳥めがけて落ちていた。小鳥はすっかり濡れそぼれ、震えているようだった。


 小鳥の様子が気掛かりで、ディアヌローズは玻璃(ガラス)に掌をべたりと付け、貝紫の瞳で食い入るように様子を窺った。


 どうやらこの小鳥は巣立ったばかりの幼鳥らしい。今にも力尽きそうに見えた。


 ディアヌローズは窓の掛け金に手を伸ばす────


「何をしている」


 突然の声に、ディアヌローズの肩がぎくりと跳ね上がった。慌てて、伸ばした手を引き戻す。

 声の方を見れば、怪訝な顔をしたアルフレデリックがこちらに向かってやって来る。


 ディアヌローズは真っ直ぐ小鳥を指差し、アルフレデリックを縋るような目で見上げた。


「あそこにずぶ濡れの小鳥が! いま助けなければ死んでしまいます」

 祈るように両手を組んだ。


 アルフレデリックは表情ひとつ変えず、ディアヌローズを淡い金の瞳で見据えて、泰然たる態度で問う。


「手を出してはならぬ。野に生きるものの生死は自然の理。一度(ひとたび)手を差し伸べれば野には戻れぬ。そもそも其方はあれを助けたとして、生涯の面倒を見られるのか?」


「……」


 目を見開いて、ディアヌローズは固まった。アルフレデリックの言うとおりだった。自身の明日すら分からず、自らの口さえ賄うことができていない。他者の命を救うなんて、烏滸がましいにも程がある。


 ディアヌローズは小鳥に背を向けた。拳を握りしめて、アルフレデリックを仰ぎ見る。


「申し訳ございません。仰るとおりです。わたくしが浅慮でした」

 瞳に諦念の色を滲ませて、自嘲的に笑んだ。




 ふたりは応接卓に移動して、対面に腰掛けた。


 ディアヌローズは課題の進捗を報告したきり、黙してお茶を口にする。気まずさで顔を上げられず、ティーカップから立ち上る湯気を見続けた。


 アルフレデリックも何も語らないまま優雅にお茶を飲み、ふたりの間には沈黙だけが流れた。



 お茶を飲み終えてもそれは変わらず、ディアヌローズはクッションをぎゅうぎゅうに抱きしめた。窓の外から、瑠璃色の小鳥から、意識を逸らしたかった。

 けれど、意識を遠ざけようとすればするほど、ずぶ濡れの小鳥の姿が鮮明になっていく。次第に鼻の奥がツンと痛くなってきて、視界が滲んだ。


 胸の内で、ただひたすら小鳥に謝り続け、自身を納得させる。


 ────助けられなくてごめんね。

 あなたを助ける資格がわたしには無いの……。

 あの小鳥はわたし。独りぼっちで震えてる。

 自力で生きる術を持たず、他者(だれか)の助けを待っている。

 あとは運の有無だけで、

 運のあったわたしは窓のこちら側。

 運のなかった小鳥は窓のむこう側。

 ……そういうことなのだろう。





 気付けば朝。ディアヌローズは寝間着に着替えて寝台にいた。アルフレデリックとお茶を飲んでいたはずなのに、さっぱり訳が分からない。

 大きく伸びをした。いつものように側仕えの声が掛かるまで、おとなしく窓むこうの景色へ目を向ける。


 いつの間にか雨は上がり、空はすっきりと晴れ渡っている。

 青い空から視線を下げていけば、雨に洗われた樹々の緑がきらきらと輝くように鮮やかだ。


 さらに視線を低木の茂みへと移していく────

 記憶の隅っこが、冷や水を浴びたように冷たく痺れた。


 側仕えとの約束は頭から吹き飛んだ。

 寝台から滑り下り、素足のまま窓辺へと走る。

 バン、と勢いのまま玻璃に両掌を突いた。

 食い入るように外を見る。


 瑠璃色の小鳥が、記憶と同じ場所で────

 水たまりに浸かって息絶えていた。


「いやぁーーーーっ!!」


 身を屈めて目をきつく瞑り、声の限り叫んだ。


 頭を抱えようと上げた手を誰かに掴まれて、振り解こうと身を捩った。

 なのに、びくともしない。


「……ズ…………ディアヌローズ!」


 名を呼ばれている。と、我に返った。

 目を開けた先に────

 アルフレデリックがいた。


 手を掴んだまま、「どうした?」と、アルフレデリックが問うた。


 ディアヌローズは大きな目をさらに大きくして、肩を大きく上下させながら荒い息を繰り返すばかりだ。

 抱きしめていたはずのクッションは、足元に転がっていた。



 僅かに眉を顰めたアルフレデリックが、掴んでいた手を離す。


「眠っていたのだ。大方、夢でも見たのだろう」


 ベアトリスが、床に転がったクッションを拾い上げた。



 ──夢を……見て、いたの?


 いまだ混乱する頭と、整わない呼吸。

 だが一つだけ、ディアヌローズには確信がある。

 この夢は、夢じゃない。明日には現実になってる、と。

 決して自分では覆すことのできない現実。

 無力で、無慈悲な自分を、己に知らしめる現実。


 ディアヌローズはアルフレデリックから視線を逸らし、呟くように返す。


「……大丈夫です。ご心配を、おかけいたしました……」


 そっけなく、「そうか」と、アルフレデリックは目を僅かに伏せた。





 ふたりは改めて相向かいの席に着き、ベアトリスがお茶を淹れた。


 ディアヌローズのお茶には、いつもよりもたっぷりのミエルが入れられていた。ミエルの甘みとベアトリスの気遣いが、心にじんわりと沁みていく。人心地付いてみれば、アルフレデリックに挨拶すらしていない失態に気付いた。


 ディアヌローズは両手を膝の上に揃えて、アルフレデリックに貝紫の目を向ける。しゅんと肩を落とした。


「アルフレデリック様、ご挨拶もしないまま非礼を重ねました。お許しください」


 アルフレデリックはほんの僅かに驚いた表情を見せ、

「次は気を付けるように」と言った。


「はい。……何か御用がおありでしたか?」


 ディアヌローズは首を傾げる。訪いの予定はなかったはずだ。


 いや、とアルフレデリックは否定して、お茶を口にする。

「狩りの予定だったが、雨で取り止めになったのだ」

 ティーカップをソーサーに戻した。


 狩りとはいかにも貴族らしい。ディアヌローズは感心する。


「男性の社交は狩りが多いのですか?」


「いや、気心の知れた者としか狩りはやらない」


「なぜですか?」


 アルフレデリックはぴくりと片眉を上げて、呆れたように声を上げる。


「親しくない者との狩りは危険だろう。襲われたらどうする」


 まさかの命の話に、ディアヌローズは慄いた。狩りとはいえ社交の場。親しくない人たちと会話するよりも、狩りの方がよほど気楽に思える。《奏の世界》では命を奪われるなんて考えたことすらないのに、イストワールでは日常的に命の危険があるらしい。恐ろしさにブルリと身体が震えた。


「ディアヌローズ、あまり心を揺らすとまた熱を出す」


 いつになく温かみのある、情の感じられる声だった。いつものアルフレデリックであれば、この手の注意は淡々と告げているのに。ディアヌローズは思う。怯えさせてしまったとでも思ったのだろうか。それとも、ただ心配してくれたのだろうか。


 きっと心配してくれた。そんな気がした。だから帰らずに居てくれたのだ、きっと。そうでなければ、眠ってしまった時点で帰っていたのではないだろうか。そう思うと、申し訳ない気持ちで一杯になった。


「もう大丈夫です。ご心配いただきありがとう存じます。アルフレデリック様」

 自然と笑顔になれた。


「そうか」


 常と同じ感情の読めない表情と声音で言うと、アルフレデリックは帰っていった。




 ◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆




 就寝時間になり、ディアヌローズは寝台に入った。朝日で目覚められるように、今夜も窓側の(とばり)は開いたままにしてもらってある。


 いまだに雨の止む気配はないけれど、あすには晴れてくれるだろうか。

 しとしとと降る雨の音が、一段と大きく耳についた。

 雨音が昼間の出来事を思い出させ、嫌でも考えたくないことに向き合わせてしまう。


 あの小鳥はどうなっただろう────


 雨は一日中降り続いた。おそらく小鳥が命を繋ぐことは難しい。

 昼に見た夢を思い出して、胸が苦しくなる。

 救えなかった、窓のむこう側にいた命。


 忘れない。唯一できる、せめてもの償い。

 記憶の中で、瑠璃色の小鳥は生き続ける。

 心の裡でなら、小鳥は青空を羽ばたける。


 窓を見遣った。

 窓の向こうは真っ暗闇。小鳥も、樹々も、雨さえも見えない。

 玻璃が闇を切り分けている────運命を、命を分かつ窓。


 日中に考えていた言葉が、再び頭の中で反芻される。

『運の有無だけで、運のあった自分は窓のこちら側。運のなかった小鳥は窓のむこう側』


 違う。運じゃない────

 そんな、人を超越した何かに任せるような、単純明快なものじゃない。

 親切心につけ入って真実を偽り、捻じ曲げ、引き寄せて手に入れた窓のこちら側(居場所)

 なんて卑劣な自分。


 良心はとっくに虚偽の澱に塗れて麻痺している。

 かといって真実を告げ、自ら神の家へ行く勇気も無い。

 窓の向こう側へ行く勇気────理は窓の向こう側にある。

 理を受け入れて精一杯生きている、窓の向こうにいる清廉な小鳥。


 ──わたしだって、そう在りたかったよ……。


 此の世界に迷い込んだ時に、本当に記憶が無くなっていればよかったのに。

 勿論、祖母を忘れてもいいとは思っていない。

 でも、……全部忘れていたなら、忘れていることも忘れてる。

 そうしたら、こんなに苦しまなくて済んだ。

 《奏》を心の奥で眠らせてディアヌローズとして過ごすのではなく、

 真新(まっさら)なディアヌローズとして生きられた。



 再び窓を見る。

 窓のむこう側にある闇が、玻璃をすり抜けて忍び寄ってくるような気がした。

 そして、闇が、奏を食べに来る。

 音もたてず、じわじわと確実に。

 逃げたくても絡めとられたように身体は動かせず、

 恐怖で震える唇は助けも呼べず、

 目は閉じることも叶わずに近付く闇を捉え続ける。


 ──お祖母(ばあ)さまっ!


 胸の内で祖母に助けを請うた。

 その刹那、祖母から惜しみなく注がれた愛情の記憶が、心の最奥にいる《奏》を温かい光で包んだ。


 光の中で、祖母の声が聴こえた。

『宿命は変えられないけれど、運命は変えられるのよ、奏』

 それは《月詠奏(つくよみかなで)》だった時に、祖母から掛けられた言葉。


『月詠家に生まれたのは宿命で、覆ることはないわ。あなたは月詠家の一員としての、義務と責務を果たさなければならない。けれど、全てを月詠家に縛られる必要はないの。あなたの努力と裁量によって、奏として生きていけばいい。運命はあなた次第よ、奏』


 金縛りが解けたみたいに、全身から力が抜けた。


 祖母を忘れずにいられてよかった……。何て愚かな自分。

 記憶を無くしていたら、これまでの人生を放棄したも同じ。

 受けた愛情も思い出も消え去り、幼い頃から努力して得た知識や技術を紙くずのように捨てていた。


 異境の地にいてもなお、標となってくれる祖母に感謝した。

 深い愛情の記憶があるからこそ、強くあろうと意識できる。



 ディアヌローズは、奏は、窓のむこう側にある闇を見据えた。


 近い将来、むこう側へ行く。

 そして運命を自分の手で掴み取り────還る。

 《奏の世界》、祖母の許へ。



 玻璃で切り取られた闇は、ただ静かに其処にあった。






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