窓のむこう
表現の修正をしました。
空は鈍色の雲に覆われ、しとしと雨が朝から止むことなく降り続いている。
雨粒が草木を洗う様子を、ディアヌローズは窓辺に佇んで眺めていた。ふと、近くの茂みで何かの動く気配がして、注意深く低木の根元を探した。
すると一羽の瑠璃色をした小鳥が、雨宿りをしているのを見つけた。朝からの雨で木々の葉はすでに傘の役目を果たしておらず、寧ろ雨粒よりも大きな雫が小鳥めがけて落ちていた。小鳥はすっかり濡れそぼれ、震えているようだった。
小鳥の様子が気掛かりで、ディアヌローズは玻璃に掌をべたりと付け、貝紫の瞳で食い入るように様子を窺った。
どうやらこの小鳥は巣立ったばかりの幼鳥らしい。今にも力尽きそうに見えた。
ディアヌローズは窓の掛け金に手を伸ばす────
「何をしている」
突然の声に、ディアヌローズの肩がぎくりと跳ね上がった。慌てて、伸ばした手を引き戻す。
声の方を見れば、怪訝な顔をしたアルフレデリックがこちらに向かってやって来る。
ディアヌローズは真っ直ぐ小鳥を指差し、アルフレデリックを縋るような目で見上げた。
「あそこにずぶ濡れの小鳥が! いま助けなければ死んでしまいます」
祈るように両手を組んだ。
アルフレデリックは表情ひとつ変えず、ディアヌローズを淡い金の瞳で見据えて、泰然たる態度で問う。
「手を出してはならぬ。野に生きるものの生死は自然の理。一度手を差し伸べれば野には戻れぬ。そもそも其方はあれを助けたとして、生涯の面倒を見られるのか?」
「……」
目を見開いて、ディアヌローズは固まった。アルフレデリックの言うとおりだった。自身の明日すら分からず、自らの口さえ賄うことができていない。他者の命を救うなんて、烏滸がましいにも程がある。
ディアヌローズは小鳥に背を向けた。拳を握りしめて、アルフレデリックを仰ぎ見る。
「申し訳ございません。仰るとおりです。わたくしが浅慮でした」
瞳に諦念の色を滲ませて、自嘲的に笑んだ。
ふたりは応接卓に移動して、対面に腰掛けた。
ディアヌローズは課題の進捗を報告したきり、黙してお茶を口にする。気まずさで顔を上げられず、ティーカップから立ち上る湯気を見続けた。
アルフレデリックも何も語らないまま優雅にお茶を飲み、ふたりの間には沈黙だけが流れた。
お茶を飲み終えてもそれは変わらず、ディアヌローズはクッションをぎゅうぎゅうに抱きしめた。窓の外から、瑠璃色の小鳥から、意識を逸らしたかった。
けれど、意識を遠ざけようとすればするほど、ずぶ濡れの小鳥の姿が鮮明になっていく。次第に鼻の奥がツンと痛くなってきて、視界が滲んだ。
胸の内で、ただひたすら小鳥に謝り続け、自身を納得させる。
────助けられなくてごめんね。
あなたを助ける資格がわたしには無いの……。
あの小鳥はわたし。独りぼっちで震えてる。
自力で生きる術を持たず、他者の助けを待っている。
あとは運の有無だけで、
運のあったわたしは窓のこちら側。
運のなかった小鳥は窓のむこう側。
……そういうことなのだろう。
気付けば朝。ディアヌローズは寝間着に着替えて寝台にいた。アルフレデリックとお茶を飲んでいたはずなのに、さっぱり訳が分からない。
大きく伸びをした。いつものように側仕えの声が掛かるまで、おとなしく窓むこうの景色へ目を向ける。
いつの間にか雨は上がり、空はすっきりと晴れ渡っている。
青い空から視線を下げていけば、雨に洗われた樹々の緑がきらきらと輝くように鮮やかだ。
さらに視線を低木の茂みへと移していく────
記憶の隅っこが、冷や水を浴びたように冷たく痺れた。
側仕えとの約束は頭から吹き飛んだ。
寝台から滑り下り、素足のまま窓辺へと走る。
バン、と勢いのまま玻璃に両掌を突いた。
食い入るように外を見る。
瑠璃色の小鳥が、記憶と同じ場所で────
水たまりに浸かって息絶えていた。
「いやぁーーーーっ!!」
身を屈めて目をきつく瞑り、声の限り叫んだ。
頭を抱えようと上げた手を誰かに掴まれて、振り解こうと身を捩った。
なのに、びくともしない。
「……ズ…………ディアヌローズ!」
名を呼ばれている。と、我に返った。
目を開けた先に────
アルフレデリックがいた。
手を掴んだまま、「どうした?」と、アルフレデリックが問うた。
ディアヌローズは大きな目をさらに大きくして、肩を大きく上下させながら荒い息を繰り返すばかりだ。
抱きしめていたはずのクッションは、足元に転がっていた。
僅かに眉を顰めたアルフレデリックが、掴んでいた手を離す。
「眠っていたのだ。大方、夢でも見たのだろう」
ベアトリスが、床に転がったクッションを拾い上げた。
──夢を……見て、いたの?
いまだ混乱する頭と、整わない呼吸。
だが一つだけ、ディアヌローズには確信がある。
この夢は、夢じゃない。明日には現実になってる、と。
決して自分では覆すことのできない現実。
無力で、無慈悲な自分を、己に知らしめる現実。
ディアヌローズはアルフレデリックから視線を逸らし、呟くように返す。
「……大丈夫です。ご心配を、おかけいたしました……」
そっけなく、「そうか」と、アルフレデリックは目を僅かに伏せた。
ふたりは改めて相向かいの席に着き、ベアトリスがお茶を淹れた。
ディアヌローズのお茶には、いつもよりもたっぷりのミエルが入れられていた。ミエルの甘みとベアトリスの気遣いが、心にじんわりと沁みていく。人心地付いてみれば、アルフレデリックに挨拶すらしていない失態に気付いた。
ディアヌローズは両手を膝の上に揃えて、アルフレデリックに貝紫の目を向ける。しゅんと肩を落とした。
「アルフレデリック様、ご挨拶もしないまま非礼を重ねました。お許しください」
アルフレデリックはほんの僅かに驚いた表情を見せ、
「次は気を付けるように」と言った。
「はい。……何か御用がおありでしたか?」
ディアヌローズは首を傾げる。訪いの予定はなかったはずだ。
いや、とアルフレデリックは否定して、お茶を口にする。
「狩りの予定だったが、雨で取り止めになったのだ」
ティーカップをソーサーに戻した。
狩りとはいかにも貴族らしい。ディアヌローズは感心する。
「男性の社交は狩りが多いのですか?」
「いや、気心の知れた者としか狩りはやらない」
「なぜですか?」
アルフレデリックはぴくりと片眉を上げて、呆れたように声を上げる。
「親しくない者との狩りは危険だろう。襲われたらどうする」
まさかの命の話に、ディアヌローズは慄いた。狩りとはいえ社交の場。親しくない人たちと会話するよりも、狩りの方がよほど気楽に思える。《奏の世界》では命を奪われるなんて考えたことすらないのに、イストワールでは日常的に命の危険があるらしい。恐ろしさにブルリと身体が震えた。
「ディアヌローズ、あまり心を揺らすとまた熱を出す」
いつになく温かみのある、情の感じられる声だった。いつものアルフレデリックであれば、この手の注意は淡々と告げているのに。ディアヌローズは思う。怯えさせてしまったとでも思ったのだろうか。それとも、ただ心配してくれたのだろうか。
きっと心配してくれた。そんな気がした。だから帰らずに居てくれたのだ、きっと。そうでなければ、眠ってしまった時点で帰っていたのではないだろうか。そう思うと、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「もう大丈夫です。ご心配いただきありがとう存じます。アルフレデリック様」
自然と笑顔になれた。
「そうか」
常と同じ感情の読めない表情と声音で言うと、アルフレデリックは帰っていった。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
就寝時間になり、ディアヌローズは寝台に入った。朝日で目覚められるように、今夜も窓側の帳は開いたままにしてもらってある。
いまだに雨の止む気配はないけれど、あすには晴れてくれるだろうか。
しとしとと降る雨の音が、一段と大きく耳についた。
雨音が昼間の出来事を思い出させ、嫌でも考えたくないことに向き合わせてしまう。
あの小鳥はどうなっただろう────
雨は一日中降り続いた。おそらく小鳥が命を繋ぐことは難しい。
昼に見た夢を思い出して、胸が苦しくなる。
救えなかった、窓のむこう側にいた命。
忘れない。唯一できる、せめてもの償い。
記憶の中で、瑠璃色の小鳥は生き続ける。
心の裡でなら、小鳥は青空を羽ばたける。
窓を見遣った。
窓の向こうは真っ暗闇。小鳥も、樹々も、雨さえも見えない。
玻璃が闇を切り分けている────運命を、命を分かつ窓。
日中に考えていた言葉が、再び頭の中で反芻される。
『運の有無だけで、運のあった自分は窓のこちら側。運のなかった小鳥は窓のむこう側』
違う。運じゃない────
そんな、人を超越した何かに任せるような、単純明快なものじゃない。
親切心につけ入って真実を偽り、捻じ曲げ、引き寄せて手に入れた窓のこちら側。
なんて卑劣な自分。
良心はとっくに虚偽の澱に塗れて麻痺している。
かといって真実を告げ、自ら神の家へ行く勇気も無い。
窓の向こう側へ行く勇気────理は窓の向こう側にある。
理を受け入れて精一杯生きている、窓の向こうにいる清廉な小鳥。
──わたしだって、そう在りたかったよ……。
此の世界に迷い込んだ時に、本当に記憶が無くなっていればよかったのに。
勿論、祖母を忘れてもいいとは思っていない。
でも、……全部忘れていたなら、忘れていることも忘れてる。
そうしたら、こんなに苦しまなくて済んだ。
《奏》を心の奥で眠らせてディアヌローズとして過ごすのではなく、
真新なディアヌローズとして生きられた。
再び窓を見る。
窓のむこう側にある闇が、玻璃をすり抜けて忍び寄ってくるような気がした。
そして、闇が、奏を食べに来る。
音もたてず、じわじわと確実に。
逃げたくても絡めとられたように身体は動かせず、
恐怖で震える唇は助けも呼べず、
目は閉じることも叶わずに近付く闇を捉え続ける。
──お祖母さまっ!
胸の内で祖母に助けを請うた。
その刹那、祖母から惜しみなく注がれた愛情の記憶が、心の最奥にいる《奏》を温かい光で包んだ。
光の中で、祖母の声が聴こえた。
『宿命は変えられないけれど、運命は変えられるのよ、奏』
それは《月詠奏》だった時に、祖母から掛けられた言葉。
『月詠家に生まれたのは宿命で、覆ることはないわ。あなたは月詠家の一員としての、義務と責務を果たさなければならない。けれど、全てを月詠家に縛られる必要はないの。あなたの努力と裁量によって、奏として生きていけばいい。運命はあなた次第よ、奏』
金縛りが解けたみたいに、全身から力が抜けた。
祖母を忘れずにいられてよかった……。何て愚かな自分。
記憶を無くしていたら、これまでの人生を放棄したも同じ。
受けた愛情も思い出も消え去り、幼い頃から努力して得た知識や技術を紙くずのように捨てていた。
異境の地にいてもなお、標となってくれる祖母に感謝した。
深い愛情の記憶があるからこそ、強くあろうと意識できる。
ディアヌローズは、奏は、窓のむこう側にある闇を見据えた。
近い将来、むこう側へ行く。
そして運命を自分の手で掴み取り────還る。
《奏の世界》、祖母の許へ。
玻璃で切り取られた闇は、ただ静かに其処にあった。




