建国神話
表現の修正をしました。
刺繍の練習も順調に進み、穏やかな日常を過ごしていたある日、フォセットが立派な本を抱えてきた。
「アルフレデリック様よりお預かりしてまいりました」
応接卓に置かれた本は、ベルトで留められていた。革張りの表紙には箔押しと貴石による装飾が施され、重厚感が漂っている。
博物館級の装丁本を前に、ディアヌローズは頭を傾げた。
「何かしら?」
「本ですわ」
さすがに本であるのはディアヌローズにも分かっている。これがエレオノールからであれば、飛びついて開いていただろう。けれどアルフレデリックからとなれば話は別で、迂闊に受け取れば課題にされかねない。
今は刺繍の練習に余念がないので、できれば新たな課題は遠慮したいところだ。
ディアヌローズは頬に手を当てて、眉を顰めた。
「新しい課題かしら?」
フォセットは苦笑交じりに言う。
「まあ。違いましてよ。お嬢さまが基本文字を習得されたので、この本をお貸しくださったのですわ」
「よかった……。新しい課題なのかと思ったの」
ディアヌローズはほっと胸を撫で下ろした。アルフレデリックを疑ったのは申し訳ないとは思っても、これまでの経験が身構えさせてしまうのだから仕方ない。
フォセットが書見台に本を載せて、ベルトを外した。
「どうぞご覧になられて」
開かれた頁は外見に劣らず立派で、ディアヌローズは思わず見惚れた。挿絵は精緻で美しく、文字は一文字ごとに尾ひれのついた飾り文字。それらが色付きで構成されている。
だが読むとなれば話は別で、基本のシンプルな文字しか知らないディアヌローズにとっては、一行読むにも骨が折れそうだ。やはりアルフレデリックからもたらされるものは、一筋縄ではいかないらしい。
とはいえ、せめて冒頭だけでも読んでおかないと、後々読んでいないのかと叱られそうな気がする。
ディアヌローズは気の進まないまま頁の一番上、一文字目のひときわ大きな文字に目を遣った。
「は、はな……花、の、め、が……めが、女神……ふ、フェ、ル……ヴ、ヴェ、リー……ラ。……花の、女神……フェルヴェ、リーラ。……花の女神フェルヴェリーラ」
この本、読み終われる? ──やすりの上を進むような滑り出しにうんざりしながらも、せめて三行は読もうと決め、なけなしのやる気を総動員する。行きつ戻りつしながら読んでいくうちに、何とか目標の三行を読めるようになった。
『花の女神 フェルヴェリーラ 末の神なり』
『父母神 兄姉神 花の女神を慈しむ』
『花の女神 神域より 下界を眺む』
「神話かしら?」
ディアヌローズの問いに、フォセットは頷く。
「ええ。建国神話ですわ。このイストワール国誕生のお話でしてよ」
いわゆる国生みの神話だろうか。「神様が創ったの?」
「『花の女神フェルヴェリーラ』様とありましたでしょう。フェルヴェリーラ様から賜った地、それがイストワールですの」
「そうなの……」
やはり、よくある神による創世神話のようだ。
さらに文字を辿って読み進めていく。
『人域の花満る地 花の女神 殊のほか好む』
『父神 花の女神へ 花の地を与う』
『花の女神 彼の地より 勤勉なる者を管理者に命ず』
『兄姉神 花の女神に 地を求む』
『花の女神 地を分割し 兄姉に等しき地を貸与す』
『花の女神 彼の地の中心にて 兄姉神の仲立ちとなる』
『兄姉神 末の女神に倣い 管理者を任ず』
ディアヌローズは本から顔を上げて、フォセットに訊ねる。
「『管理者』って何かしら?」
「神々が任じた領主様のことですよ」
ディアヌローズは貝紫の目を大きくした。領主が出てきたなら単なる神話ではなく、史実であることになる。俄かに現実味を帯びてきて、興味を惹かれた。
「神々が領主様をお決めになられるの?」
「はい。一柱の神が一つの領地を持っていらして、その領地を管理する者を一人任じるのです」
「では、神の御柱だけ領地があるのね」
数舜、フォセットは中空の一点を青緑色の瞳で見つめ、何やら考えたようだった。
「──すべての神々、であられるかは存じませんが、花の女神フェルヴェリーラ様より領地を借り受けた神の御柱だけ、領地があるのでしょうね」
「花の女神フェルヴェリーラ様は領地の中心、とあったわ。それが中立領プリエテールということ?」
フォセットは頷く。「ええ。よくお分かりになられましたね」
以前ディアヌローズはアルフレデリックから、ここはランメルト領の領事区域だと教えられたことがあった。
「ランメルト領にも、神様のお決めになった領主様がいらっしゃるのね」
「はい、左様ですわ」
ちょうど昼の鐘が鳴り、本は閉じられた。
フォセット達が昼食の準備で慌ただしくしている中、ディアヌローズは窓辺へ移動した。
部屋の中央は不思議と暑さを感じないが、窓辺は夏の陽射しでそれなりに暑かった。
ディアヌローズは首筋に纏わりつく白金の髪を払うように後ろへと流してから、建国神話について考えをめぐらせた。
どうやら、フォセットは建国神話に疑念を持っていないらしい。神は存在し、イストワール国は神から賜ったのだと信じている。
《奏の世界》にも神の記述はある。自身に唯一とするような神も信仰心もないけれど、神の存在有無に関わらず、信仰としてなら理解できる。
けれど『管理者を任ず』との一文を、どのように解釈すればいいだろう。実際にランメルト領は、神から任じられた領主が統治しているという。厳然たる事実があるのだから、疑いを挟む余地はない。
やはり神は存在するのだろうか。
一体どのような方法で、神は管理者を指名しているのだろう……。
神が存在する世界、イストワール国────
此の世界に自分を転移させたのは『神』なのか。
もしも、そうであるなら、
どうして自分が選ばれたのか。
どうして自分でなければならなかったのか。
どうして……、どうして? どうして!
ディアヌローズは爪が食い込むほどの力を籠めて、手を固く握り込んだ。
小さな子供の拳が小刻みに震え、知らぬ間に顔は歪んでいた。
涙がうっすらと膜を張る。泣きたくなくて、窓越しに空を見上げた。
遠くベルージュの繁茂する上空を、尾羽の長い瑠璃色をした鳥が翼を広げていた。
イストワールに転移してから、初めて見る鳥だった。
大空を、時にまっすぐ、時に旋回、時に滑空して、気ままに飛んでいる。
雲一つない青空をキャンバスに、さながら絵を描いているかのように。
自由を謳歌している瑠璃色の鳥が、堪らなく羨ましいと思った。
突然ディアヌローズの肩の上に、マノワが現れた。こげ茶色のお団子頭はいつもと変わらず、きっちりと纏められている。マノワは皺だらけの手で、ディアヌローズの頬にそっと触れた。
──どうしたんだい? 泣きそうじゃないか。
──何でもないの……。
マノワに《奏》のことを打ち明ける勇気がなくて、ディアヌローズは口籠った。
──そうかい。無理には訊かないさ。
だが話したくなったら、いつでも呼んでおくれよ。
──ありがとうマノワ。
……ねえ、マノワ。この国には、本当に神様がいるの?
──ああ、いるとも。
マノワは迷いなく答えた。
本当にこの国に神がいるのなら、どうか《奏の世界》に還して欲しい。
どの神に願えばいいのだろう。
やはりイストワール国を創世した、花の女神フェルヴェリーラだろうか。
──……やっぱり、あの本に書いてあることは本当なのね。
──本?
──建国神話よ。
イストワール国は、花の女神フェルヴェリーラ様から賜ったって。
──その神話は本物さ。神々は神域でこの国を眺めてるんだ。
選んだ者に領地を統治させて、その様子を神域から眺めて楽しんでいるのさ。
──なら、花の女神フェルヴェリーラ様から領地を借りた神の御柱だけ領地があるのも本当なのね。
──ああ、そのとおりだ。
──とても広い国、なのね……。
もしも聖堂から《奏の世界》に還れなかった時、還る手掛かりを見つけられるだろうか。広いと知ったこの国で。心細さで胸が苦しくなる。
──たしかに広いかもしれない。
だがね、ただ生きていくために、そんなに広い世界は必要ないもんさ。
あたしとしちゃあこんなに広い国の中で、ディアヌローズ、あんたに出会えた幸運を嬉しく思うよ。
──マノワ……。ええ、そうね。
わたし、マノワに会えて、とても幸せだわ。
マノワはこげ茶色の目を細めて微笑んだ。
──やっと笑顔が出たね。あんたには笑顔がよく似合う。
ディアヌローズは自身の口許に触れる。たしかに口の端が上がっていた。
──マノワ、心配を掛けてごめんなさい。ありがとう。大好きよ、マノワ。
──どうってことないさ。なんせ、おともだち、だからね。
じゃあ、あたしは帰るよ。また会おうディアヌローズ。
マノワはいつものように、唐突に消えた。
ディアヌローズはマノワの居なくなった肩を見る。
自分を気遣ってくれた友人に、秘密を打ち明けられない弱い自分が情けなかった。
伝えそびれた「さよなら」を、呟くように告げた。
呟きは肩から滑り落ちて、ディアヌローズの足元で弾けて消えた。




