刺繍教室
表現の修正をしました。
水の濾過実験が成功した翌日。
ディアヌローズは久しぶりにいい目覚めを迎えた。側仕えに声を掛けられるまで、寝台からいつものように庭を眺める。この数日は灰色に見えていた庭が、今朝は鮮やかに輝いて見えた。
晴れやかな気持ちでいられることが、なによりも堪らなく嬉しい。
それだけではない。きのうはエレオノールの思いがけない来訪もあった。わざわざ隙間時間に会いに来てくれたのだ。本当の姉のようで、思い出すだけで頬が緩んでしまう。
その上、実験にまで付き合ってくれた────あれ? そんな時間あった、の?
『少し時間ができたから』と、エレオノールは言っていた。
少しの時間しかないのなら、実験に付き合う時間まであっただろうか。
エレオノールは本当に、少し時間ができたから、会いに来てくれたのだろうか……。
たぶん違う。わざわざ会いに来てくれた────おそらく、様子がおかしいと伝え聞いて。
時間を作り、喜ばせようと刺繍道具を用意して。
連絡を入れずに来てしまったと、謝ってまでして────少しも悪くないのに。
そして、実験までも付き合ってくれた。
こんな自分のために。
なんて優しい人。
酷いね、《奏》。すぐに気付かないなんて。
これでは正真正銘、五歳のディアヌローズだ。
一つ気付いてしまえば、他に気付くのは容易かった。
思い出すのは、レオナールが庭へ誘ってくれたときの彼の瞳。庭で小石集めを終えて戻ってきたときのフォセットの表情。他のみんなだって……。
みんなに、心配を掛けるだけかけて。
自分しか見えていなくて、自分の焦りでみんなを振り回した。
なんて小さな心しか、持ち合わせていないのだろう。
ぎゅっと、強く目を瞑った。
開いた目から、じんわりと涙が滲んでいく。
やがて涙は眦から零れて、止まらなくなった。
とめどなく溢れる涙が顳顬を伝うに任せ、両手を目の前に掲げた。
この小さな手で、何を返せるだろう…………。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
二と半の鐘が鳴って、ディアヌローズは慌てて目を擦った。誰かが起こしに来てしまう。
鐘の音の余韻が消える前に、「おはようございます」と言いながら、フォセットがやって来た。
ディアヌローズの顔を見るなり、青緑色の目を大きくした。
「……まあ! どうされましたの?」
「ごめんなさい」この数日の謝罪を口にした。
「咎めてはおりませんよ。どうされたのかを教えてくださいませ」
心の中がぐちゃぐちゃで、何から話せばいいのか纏まらない。
「我儘ばかりでごめんなさい」
フォセットは困ったように眉尻を下げた。
「お嬢さまは、我儘ではありませんわ」
ディアヌローズは潤んだ貝紫の瞳でフォセットを見つめ、顔を歪めた。
「自分の事しか考えていなかったわ。皆さんに無理なお願いをして、困らせたの。きのうの実験のために……」
「わたくし共は、無理などしておりませんよ」
忙しい中、強請られた材料の手配は手間だったずで、ディアヌローズにはどう詫びればいいのか分からない。
「でも……」と言ったきり、途方に暮れた。
そんなディアヌローズの手を、フォセットの温かい手が包み込む。
「怖い夢でもご覧になりまして?」
怖い夢────確かに、そう。ディアヌローズは思う。
イストワールに転移してきて、最初に考えたのは『夢の世界では?』だった。
状況が呑み込めずに混乱した。此の世界が怖かった。
違う。今でも、ずっと怖いまま。
自分がどうなってしまうのか分からなくて……。
だから、あながち『怖い夢』でも間違っていない気がした。
その『怖い夢』を、エレオノールやフォセット、みんなが、和らげてくれている。
今もこうして────
ディアヌローズは半泣きの笑顔をフォセットに向けた。
「そうね……。きっと怖い夢を見たのだわ」
フォセットは青緑色の目を細めて微笑んだ。
「もう大丈夫でしてよ。朝に夢魔はおりませんもの」
と、ディアヌローズの白金の髪を慈しむように手で梳いた。
ディアヌローズは気恥ずかしさの中にも、懐かしい心地がする。
まるで祖母に髪を梳かれているみたいで。
甘えてもいいだろうか。幼いディアヌローズとして。
なら、こういう時は謝るのではなくて────
「はい。……ありがとう存じます」
はにかんだ笑みをフォセットに向けた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
日課の課題を終えたディアヌローズは、みんなに感謝を伝えたいと、ひとり長椅子で考えている。歌とヴィオリナでは今さら感が否めないので、できれば違う方法がいい。
手を見つめる。
小さくて、頼りない、幼い手────この手で、できることは何だろう。
感謝を伝えるための努力なら、惜しまずに頑張れる。
ヒントが欲しくて部屋を見渡した。飾り棚に置かれた、玻璃のドームが目に入った。近くで玻璃の中の薔薇を眺める。転移してから季節が変わっても変わらずに瑞々しく、玻璃の中で光の粒を花弁に受けながら、今も緩やかに回っている。
花びらから滑り落ちる光の粒を目で追って、ドームの底に敷かれた布に惹きつけられた。
布には美しい模様が刺繍されている。
これだ────ディアヌローズは思った。
と同時に、できるだろうか……とも思う。この小さな子どもの手で、刺繍をするなんて。
《奏》の時でも、刺繍を始めたのは十歳を迎えてからだった。
再び手を見つめる。
繊細な作業ができるとはお世辞にも言えない、幼い手。
でも、折よくエレオノールから刺繍道具を贈られた。これは偶然だろうか。試してもみずに思い悩むなんて馬鹿げているかもしれない。
それに《奏》の経験値がある。修了試験で纏った衣装に刺繍を施したのは、《奏》自身。
丁寧に、慎重に、時間を掛けて針を運べば、……きっとできる。
《奏》のように上手くは刺せないかもしれなけれど、心を籠めよう。きっとエレオノールなら受け取ってくれる。みんなも、きっと。心優しい人たちばかりだから。
でも、いきなり習ってもいない刺繍を始める訳にはいかないだろう。やり方が同じとも限らないし、まずは教えを乞うべきだ。
決心の鈍らないうちにと、ディアヌローズはフォセットの処へ向かった。
「フォセットさん。わたくしに刺繍を教えてくださいませ」
フォセットは目を丸くする。
「えっ、ええ……お教えいたしますわ。けれど刺繡は洗礼を迎えてから始めるのが慣例ですから、もう少し大きくなられてからでよろしいのですよ」
「せっかくエレオノール様から、刺繍道具をいただいたのですもの。やってみたいの」
手を胸の前で組んで、ディアヌローズはフォセットに強請った。
「早いような気もいたしますけれど……」
頬に手を当てて困惑するフォセットに、ディアヌローズは鼻息も荒く半歩前へ出る。
「アルフレデリック様が前に仰っていたわ。『無為に時間を過ごすのは、愚か者のすることだ』って」
と、アルフレデリックを真似た。
フォセットは苦笑する。「承知いたしました。いつから始められますか?」
胸の内でガッツボーズをしながら、慎ましやかに姿勢を正す。
「ありがとう存じます。フォセットさんのご都合のいい時にお願いします」
「あらあら。では今から始めましょう」人好きのする笑みを笑窪にのせた。
エレオノールとお揃いの刺繍道具を用意して、刺繍教室は始まった。
まずは、針に糸を通して玉を作るところから。
次に練習用の布を刺繍枠に嵌め、針の刺し方を教わった。布に対して直角に、上から下へまっすぐ刺して裏から引き、裏からも同様に下から上へまっすぐ刺して表へ引き上げる。
フォセットは、「裏に抜けた針を取る時に、指を刺さないように」と、ディアヌローズに注意を重ねた。
思い返せば、祖母も『裏の針を取るときには、布地に手を滑らせるように』と、口酸っぱく言っていた。
ディアヌローズはフォセットの手許を見ながら、祖母の面影を重ね合わせた。とても懐かしくて、なによりもこの時間が愛おしくて仕方ない。
フォセットから正しい運針を褒められた。でも《奏》の経験があるだけにズルをしている気がして、手放しで喜べないまま愛想笑いで濁した。
それから数種類のステッチを習い、糸の止め方や面の刺し方も練習した。
子どもになった手でも焦らなければ目を揃られる。あとは地道に頑張ればいいだけだと分かった。
昼近くになり、刺繍教室は終了した。
「驚きましたわ。洗礼を終えても、ここまでできる者はおりませんもの」
フォセットの言葉に、ディアヌローズは謙虚とはほど遠い控えめな態度を見せる。
「……そうかしら。嬉しいわ。あしたも教えてくださいませ」
翌日からは昼食後に刺繍を教わるのが日課となり、先生は都度、手の空いている者が代わる代わる務めた。
ディアヌローズは手が慣れていくにつれて、日に日に針の運びがスムーズになっていった。縫い目を揃えることに注力すれば、子どもの手でもそれなりの出来に見えた。それでもやはり《奏》のようにはいかなくて、それが堪らなくもどかしかった。
数日で基礎のステッチを習得し終え、次は飾り刺繍を教わっていく。
ひたすら根気強く、慌てないように慎重に針目を整え、糸が緩んだり引き攣れたりしないように気を付けた。
このまま上達していけば、みんなにお返しできる日は思ったよりも早いかもしれない。
諦めなかった自分を、褒めたくなった。




