神の家(後編)
表現の修正をしました。
ディアヌローズのベールがフォセットによって取り払われた。
露わになったディアヌローズの顔を見るなり、
「顔色がひどいな」と、アルフレデリックの眉根が寄った。
「大丈夫です」
ディアヌローズは血の気のない顔をして、到底信じてはもらえない言葉を吐いた。これは自身に向けた言葉。強くあらねばと自分を奮い立たせ、ひとりで立ち向かっていくための呪文。
「そうか」アルフレデリックはそれだけ言うと、さっさと扉口へ歩いていった。
その後ろ姿を、ディアヌローズはぼんやりと目で追った。微かに蒼みを帯びた銀の長い髪が、歩みに合わせて揺れている。奏の薔薇の色にも似た、厳冬の蒼い月と同じ色。転移してきたばかりの頃、何もかもが変わってしまったディアヌローズにとって、唯一の救いとなった色。
不意にフォセットの手が肩に置かれ、続くようにと促された。ディアヌローズも扉口へと歩き出す。別れのために歩む足どりは重く、遅々として進まない。まるで粘つく床から靴底を剥ぎとるみたいに、一歩一歩足を運んだ。
部屋を出ると、廊下に責任者の女性が立っていた。ディアヌローズは手間取ったことを申し訳なく思い、笑顔を貼り付けると軽く腰を落として会釈した。
すると、女性は戸惑いを隠しもせずに礼を執った。
何か間違えてしまったのか。不安にかられたディアヌローズが立ち止まると、フォセットは進むようにと耳打ちした。
廊下の先を見れば、アルフレデリックはもうすでに玄関扉を出ていくところだ。あたふたとディアヌローズも玄関を目指す。別れの挨拶どころか、見送りすら間に合わないなんて絶対に嫌だと、必死に足を動かした。
廊下は昼食が近いらしく、すえたような臭いと料理の匂いが混ざりあっている。その異臭としか形容できないニオイの中、ディアヌローズは胃液が喉にせり上がってくるのを堪えた。鈍る足を急く心で叱咤しながら、軋む廊下を進んだ。
玄関へ辿り着くと、そのまま立ち止まらずに外へ出た。一変して強い陽射しに射抜かれる。涙で滲む目を眇め、慌てて手を翳した。
話し合いの間に、日は真上になっていた。目に映る青い空と森の緑の対比が、清々しいほどに美しい。これからはこの景色を縁にしようと、ディアヌローズは心に留めた。
玄関前では、馬車から次々に木箱を下ろしているところだった。
ディアヌローズは別れに間に合ったと胸を撫で下ろす。けれどそれも束の間で、運ばれる木箱の中身が気に掛かった。──自分の荷物かもしれない…………。
居を移すのだから荷物の移動はあたりまえのこと。分かってはいても胸が締め付けられた。預かってもらうつもりでいた《奏》の衣装も、きっとあの中に。けれどよくよく考えてみれば、預けられる側には迷惑でしかないのだ。どこまでも身勝手な自分には失望しかない。
たぶん──みんなとの繋がりが切れてしまうのが嫌だったのだと、今更ながらに、そう思った。
稀に吹く乾いた風が、通ってきた道から土ぼこりを巻き上げている。青い草の匂いはすっかり勢いをなくしていた。
荷下ろしはまだ終わらない。
ディアヌローズは体力も精神も限界だった。玄関脇の壁に、行儀悪く肩で凭れた。壁に触れた右掌が、ざらりとする。見遣れば、細かく固まった土が汗ばんだ掌についていた。左掌で土を払うと、汗を含んだ土は両の掌に線となって広がった。
微かに表情を曇らせたフォセットが、ディアヌローズの掌についた土を丁寧に拭きとった。
「……ごめんなさい」
ディアヌローズは項垂れた。最後の最後までフォセットに手間を掛けさせてしまった。
「アルフレデリック様に、お嬢さまのご様子をお伝えしてまいりますね」
ディアヌローズは頷きだけで返し、フォセットが離れて行くのを見るともなしに眺めた。
急に玄関扉から子どもが出てきた。ディアヌローズの前で立ち止まる。
話し合いの部屋で見かけた女の子だった。ディアヌローズと同じ年ごろで、身体の大きさに合わない、だぶついた鈍色の服を着ている。
女の子は、「お水だよ」と、木の杯をディアヌローズに差し出した。
濁りがあって埃が浮かんだ水。
お世辞にも奇麗とはいえないその水を、ディアヌローズは見つめた。あの井戸の水だろうか。具合悪そうだからと、気を遣って汲んできてくれたのかもしれない。けれど口にしたら、たちまちお腹を壊してしまいそうな水だ。これからはこの水にも慣れなくてはいけないだろう。でもいまは、飲めそうになかった。
ディアヌローズは、かさついた女の子の手を取った。
「ありがとう。いまは飲めそうにないの。あなたの心だけいただくわね」
女の子は物悲しそうに眉尻を下げ、
「……わかった。大丈夫なんだね?」と、窺うような視線で念押しした。
「ええ、大丈夫よ。本当にありがとう」
ディアヌローズは口角を上げ、にこりと笑顔を作る。
すると女の子は、はにかむように頷いて建物の中に入っていった。
入れ替わるようにフォセットが戻ってきた。
「知らない者と口をきいてはなりませんよ」
いつになく厳しいフォセットの口調に、ディアヌローズの背筋が伸びた。イストワールは身分に厳格だ。けれどディアヌローズには無視するなんてできそうになくて、そんな貴族の常識にも馴染めそうにない。これからは自分も口をきいてはもらえないだろう。つきりと胸が痛んだ。
「ごめんなさい。態々わたくしのために、お水をもってきてくれたの。どうしてもお礼を言いたくて……」
「……今回だけですよ」
嘆息したフォセットは、仕方のない子と言わんばかりに微苦笑を浮かべた。
荷下ろしが終わり、別れの時がやってきた。
ディアヌローズは出来損ないの笑顔を作り、みんなの前に立つ。
感謝と別れを伝えようと口を開きかけた、その時────
「早く馬車に乗りなさい」アルフレデリックが言った。
「!?」
アルフレデリックの言葉が、ディアヌローズの頭の中で上滑りする。理解できずに固まった。
ふわりと、棒立ちのディアヌローズの身体が浮き上がり、アントナンによって運ばれていく。馬車に乗り込んだアルフレデリックに手渡され、来た時と同じく隣りに下ろされた。
状況が呑み込めないディアヌローズは、内心だけが忙しい。
激しく動揺している感情とは裏腹に、
「…………わたくし、帰る、のですか?」と、棒読みの台詞を口にした。
「見学だと言ったはずだが、聞いていなかったのか?」
アルフレデリックはディアヌローズを睨め付ける。
ディアヌローズは思わず身を竦ませた。神の家へ行くとアルフレデリックに告げられたあの日、初めの言葉に動揺して、たしかに後の話は耳に入ってこなかった。非は当然自身にある。けれどアルフレデリックには分かっていたはずだ。
自嘲と彼の悪辣さに対する気持ちがせめぎ合い、綯交ぜとなってディアヌローズを俯かせる。
アルフレデリックは唇の片端を上げて薄く笑んだ。
「これに懲りたら、話は最後まで聞くように」
「……心に刻みます」
ディアヌローズの握りこむ手に力が入る。口にした言葉のとおりに『アルフレデリックは悪辣』と、心の中で存分に毒づきながら刻みつけた。
復路、ディアヌローズは最初からアルフレデリックの膝上だ。おかげで格段に揺れも少なく、馬車酔いも軽い。景色を眺める余裕も生まれた。
窓の外、道の際まで生い茂る草木は緑に溢れて滴るようだ。樹々の枝に茎を伸ばした蔓草の花は、とても鮮やかで目を惹いた。強い陽射しも森の中では木漏れ日となって、穏やかで優し気に見える。時折り、石の道標らしきものが現れては消えた。
けれど森の中はあまり変化が無くて、ディアヌローズは途中から流れる景色をぼんやりと見送った。
往路の半分ほどの休憩を挟みながら城下門手前まで戻ってくると、車内に大きな木箱が運び込まれて、窓に覆いがされた。ディアヌローズは城下の街並みを愉しみにしていただけに、残念でならない。
城下に入ると揺れは格段に少なくなった。景色を見られず、緊張も緩んだディアヌローズは睡魔に襲われた。アルフレデリックから伝わる温もりが、余計に眠りを誘う。眠り落ちる非礼はできないと必死に抗っても、瞼がどんどん重くなり、頭は支えを失って大きく揺れた。
「ディアヌローズ、木箱に入りなさい」
アルフレデリックに起こされて、ディアヌローズは膝から下ろされた。
開けられた木箱の中にはクッションが四方に置かれ、ディアヌローズが膝を抱えてすっぽり入れるほどに深い。ディアヌローズは寝ぼけたまま、アンベールによって木箱へと入れられた。
蓋が閉められて中が暗くなると、ディアヌローズの眠気はきれいさっぱり吹き飛んだ。木箱の中はアルフレデリックの膝上よりも揺れて、小刻みな振動と腹部の圧迫が馬車酔いを酷くさせた。
狭い木箱の中がだんだん暑くなってきて、汗が流れた。髪が額や首筋にはりつき、鬱陶しくて仕方ない。木箱の中から外を窺い、早く着いて欲しいと、ただそれだけを考えた。
領事門を抜け、領事棟に着いた。ワゴンに載せられ、カタカタと聞き覚えのある音を立てながら運ばれていく。細かい振動が気持ち悪く、抱き上げられて移動した往きの方が楽だったと、つくづく思った。
それでも確実に自分の居場所へと近付いている。喜びが募っていった。
扉の開く音で、胸の鼓動が跳ね上がる。
ワゴンが止まり、木箱が床にゴトリと置かれた。
蓋が持ち上げられて光が差し込み、眩しさに目を細める。
新鮮な、半日ぶりの懐かしい空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
精一杯の速さで立ち上がり、「ただいま戻りました」と、弾む声を上げた。
笑顔でディアヌローズを迎えたみんなは、一目見るなり動きを止めた。
「お帰りなさいませ」の声が余韻も無く消え、それぞれが忙しそうに散っていく。
ディアヌローズがあっけに取られている間に、寝支度が整えられていった。
マリレーヌの手で手早く外出着から寝衣に着せ替えられ、ベアトリスの整えた寝台へ入れられた。
気付けば、アルフレデリック達はいなくなっていた。
「ベアトリスさん。起きていてはいけませんか?」
確かに気持ち悪さは解消していないけれど、いまは帰ってこられた喜びに浸っていたい。天蓋を眺めて過ごすのは淋しくて、どこに居ても気持ち悪いなら、みんなの顔が見える長椅子で過ごしたかった。
「熱が出ておられますわ」
「そうかしら?」額を自分で触っても、ディアヌローズにはよく分からない。
「失礼しますね」と、ベアトリスはディアヌローズの額に手を当てた。
「冷たくて気持ちいいわ」
ひんやりとしたベアトリスの手が何とも気持ちよくて、ディアヌローズは瞼を閉じる。木箱の中が熱いと思っていたけれど、どうやら自分が発熱していたらしい。
ディアヌローズは《奏》の幼かった頃を思い出した。あの頃もよく具合が悪くなっては祖母を心配させた。──心ばかりか、身体までもが弱いなんて……。──何もかもが弱い自分を持て余した。
天蓋を見上げて、ディアヌローズはきょうを振り返る。
神の家については馬車酔いが酷すぎて、正直なところあまりよく覚えていない。
ただ、水を差しだしてくれた女の子は印象深かった。
かさついた手と純粋な瞳。鈍色の服。
木の杯に汲まれた濁りのある水。
神経質そうな責任者の女性。
やっていけるだろうか……。
水を飲むことさえ難しそうな処で。
ここから、……みんなからも離れて。
馬車でなければ到底行きつけない遠い場所。
近い将来、行くところ。
今回は見学だったけれど、次に訪れたら────
もう、ここには帰ってこない。
きょう帰ってこられたのは、見学だったから。
アルフレデリックは願いを叶えてくれただけで、恨み言を並べるのは筋違いだった。
悪辣、なんて思って悪いことした。
ここは仮の居場所。
一人で生きていく強さと覚悟を。
別れの時には、感謝と最上の笑顔を。
ディアヌローズは自身に染み込ませるように、何度も何度も頭の中で繰り返した。




