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イストワール国~その花の名を私は知らない~  作者: 天音蓮
第二章 転移編

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屋敷精霊との出会い

表現の修正をしました。

 朝の光が室内に満ち、二と半の鐘の音が鳴った。


 いつものディアヌローズならとうに目を覚まし、側仕えが起こしにくるのを待っている。けれどディアヌローズは昨夜から、喉の痛みで深い眠りを得られないまま、覚醒と浅い睡眠を繰り返していた。意識の底で朝を迎えたと気付いていても、とろとろと微睡み続けている。


 いつもであればディアヌローズを起こす側仕えたちも、今朝は薬湯の時間までは寝かしておくつもりらしい。控えめな衣擦れの音だけで、室内は静まり返っていた。



 微睡みの中で、ディアヌローズは誰かの気配を感じた。

 瞼を押し上げ、ゆっくりと横を向く。


 目が合って、お互いに固まった。


 ────あなたは、誰?


 ただ見つめるしかできないなんて。ディアヌローズは目を大きく見開いた。声が出ないことが恨めしい。なにか意思疎通の方法は…………。



 すると()()()は、まるでディアヌローズの心を読んだかのように近寄ってきた。


 焦げ茶色の髪をひっ詰めたお団子ヘア。瞳も同じ焦げ茶色で、好奇心に輝いている。肉の薄くなった頬はたるみ、皺が幾重もできていた。立派な鷲鼻がとても目を引き、濃紺のメイド服に似たシンプルな意匠が、とても彼女の雰囲気に合っている。


 ただひとつ、特異な点を除けば、ディアヌローズは老齢な新任の側仕えと思ったことだろう。

 そう────彼女は大人の掌ほどの大きさだった。



 ──やあ、ディアヌローズ。

 あたしはマノワ。屋敷精霊のマノワだ。


 ()()()は、しゃがれた声で言った。

 ディアヌローズは見開いた目をさらに大きくする。


 ──不思議……。頭の中に直接声が聞こえる。


 ──そうとも。口で話してないからね。

 あんたは頭に思い浮かべるだけでいいのさ。

 そうすりゃ、あたしには分かるからね。

 ああ、余計な心配は要らないよ。

 あたしに伝えたいと思うことしか、あたしにゃ伝わらないんだ。


 ──初めまして、マノワ。


 ──そうさね、あんたにとっては初めましてだ。

 だけどあたしは、あんたを知ってる。よく歌ってただろう?


 ──ええ。聴いてくれていたのね。嬉しいわ。


 ──近頃はヴィオリナも楽しませてもらった。

 音楽なんざ、久しく聴いちゃいなかったからね。

 こんなあたしでも浮かれちまったよ。


 ──ありがとう。でも、ごめんなさい。暫くは無理みたい。

 喉を傷めて声が出ないの。指もね、このとおり……。


 ディアヌローズは掛け布から、包帯を巻いた手を出した。

 マノワは皺を刻んだ手を包帯のないところにそっと触れると、自分の痛みのように顔を顰めた。


 ──すぐに治るさ。そしたらまた歌っておくれ。

 あんたの歌は、こんなあたしでも良いことがあるって、そう思わせてくれるんだよ。


 ──ええ、約束するわ。

 治ったらマノワを想って歌うから、きっと聴いてね。


 ──楽しみにしてるよ。




「お目が覚めまして?」

 と、淡紅色の髪を結い上げたマリレーヌが声を掛けた。


 ディアヌローズはようやく彼女の存在に気付き、にこりとマリレーヌに挨拶する。

 どうやらマリレーヌには、マノワが見えていないらしい。



 ──あたしは誰にでも見えるわけじゃないんだ。

 あたしのことは黙っておきな。また会いに来るよ。


 マノワはそう言って、掻き消えるように姿を消した。


 ──さよなら。マノワ。


 見えなくなったマノワを追いかけるように、ディアヌローズは別れを告げた。




「さあ、薬湯を飲みましょう」


 マリレーヌが天使の笑顔で、悪魔の言葉を吐く。


 ディアヌローズは未だに慣れない草汁に苦戦する。不味さで死んでしまいそう。心の中で弱音を吐きながら、ちびちびと時間をかけて何とか全量を飲み終えた。口の中が青臭くて口直しが欲しい。それにお腹も空いた。考えてみれば、丸一日は何も食べていない。しょんぼりと肩を落とした。


 そんなディアヌローズに、マリレーヌが群青色の瞳を向ける。


「どうされまして?」


 ディアヌローズは、『お腹が空きました』と唇を動かした。


 けれどマリレーヌは困ったように首を傾けた。どうやら伝わらないらしい。

 ディアヌローズは伝える術を考えた末に、手でお腹をおさえて、反対の人差し指で口を示してみせた。


 彼女は大きく頷いてから、

「お食事はまだ許可が出ておりませんの」

 と、申し訳なさそうに眉尻を下げた。


 ディアヌローズは水を飲むのにも一苦労したのを思い出して、しおしおと萎れた。


「口にできそうな物を、アルフレデリック様にお伺いしてまいりますわ」


 マリレーヌの背を見送りながら、ディアヌローズは意思疎通について考える。



 アルフレデリックは『暫く声は出ないだろう』と言っていた。伝える方法を見つけなければ、何かと支障が出てきそうだ。お願いしたいことはそんなに多くない。カードに書いて見せる方法が良さそうだ。


 問題はこの方法をどうやって説明するか。すぐさまアントナンが浮かんだ。けれど彼はアルフレデリックの側近で、どうやって来てもらえばいいのかさえ見当もつかない。


 次第にディアヌローズのイライラが募っていった。空腹な上に、いい考えも浮かばない。それもこれも喉が痛いからだ。自身が招いた結果だけに、もどかしさの持って行き場がない。


 ──ああん、もうっ!


 ぼすん! と、起こしていた半身で、思いっきり乱暴にクッションへ凭れた。



「何をしている」


 聞き覚えのある低音の美声に、ディアヌローズは目を向ける。いつから居たのか分からないその人へ、何事もなかったかのように笑顔を整えて挨拶をする。


『ごきげんよう。アルフレデリック様』


「アントナン」


 アルフレデリックの後ろから、アントナンが姿を見せた。

 彼から来てくれるとは、ディアヌローズにとって望外の喜び。アントナンを介して普通に会話できることが嬉しい。もどかしさは消え去っていた。


「ディアヌローズ、まだ食事は難しい」


 予想通りのアルフレデリックの回答に、ディアヌローズは頷いたまま項垂れた。


「だが、ミエルならいいだろう」


 ディアヌローズは俯けた顔を勢いよく振り仰ぐ。にぱぁと、満面の笑みを零した。途端に口許の炎症箇所が引き攣れて、痛みで縮こまった。盛大に喜んでしまったけれど、そもそも『ミエル』って何なのか。ここに祖母がいたら、迂闊だと叱られているだろう。



「はぁ、迂闊すぎる」


 アルフレデリックはこれ見よがしに、溜息をついた。


 途端にディアヌローズの脳内で、祖母とアルフレデリックが『迂闊、迂闊』と合唱する。とっくに自覚があるのに、追い打ちをかけないでほしい。

 それよりも、今はアントナンに仲介してもらえる好機。逃すわけにはいかないと、気持ちを切り替える。


 掛け布の上で指先を揃えた両手を重ね、ディアヌローズは背筋を伸ばした。


『叶えていただきたいことがあります。わたくし声が出ないので、皆さんにお願いしたいことを、(あらかじ)め紙に書いておきたいのです。お願いしたい時にその紙を出せば、すぐに分かっていただけますもの。お許しいただけませんか?』


「思い付きは悪くない。但し、紙は許可できない。木札なら許可しよう」


 木札がどんな物かは知らないし、紙が駄目な理由も気になるが、伝える手段があるならディアヌローズに否は無い。


『お願いします』


「だが、其方はまだ文字は書けないだろう?」


『お手伝いいただきたいことは限られておりますので、それくらいならば憶えればよろしいかと』


 アルフレデリックは片眉を上げ、愉悦の視線をディアヌローズに向けた。


「ほう……。よかろう。ラファエル、木札を用意せよ」


 すぐに木札は用意された。呼び名どおりの木の札で、ディアヌローズには驚きだ。板に字を書くということは、紙は貴重品なのかもしれない。


 寝台脇、アルフレデリックの前に小ぶりの机が用意され、木札とインク、ペンが置かれた。


「で、何を書くのだ?」


『手ずから書いてくださるのですか?』


「早く言いなさい」


 戸惑ったディアヌローズは、アントナンを窺った。彼は苦笑するばかりで、どうやら止めるのは無理、ということらしい。


『では、「水を飲ませてください」とお願いいたします』


 アルフレデリックはアントナンから聞き取ると、さらさらとペンを走らせて木札に記した。新しい木札を置き、ディアヌローズに次を促した。


『おっ、「お腹が空きました」とお願いいたします』


 ディアヌローズの目には、二人の口端が上がっているように見える。食い意地が張っているみたいで気恥ずかしい。でも、これは外せない。



「次はどうした」


 どうしよう……、とディアヌローズは躊躇う。アルフレデリックは急かすけれど、とっても言い難い。上掛けの上で、もじもじと手遊びしながら俯いた。


「もう(しま)いなのか? あるのなら早く言いなさい」


 乙女の恥じらいを一ミリも察しないアルフレデリックが、眉間の皺を深くして急き立てた。

 ディアヌローズも覚悟を決め、心にも五歳児の皮をガバリと被った。右手で上掛けをぎゅっと握ると、火照った顔を上げて一気に(かたど)る。


『「御手水に行きたいです」と、お願いします!』


 早口過ぎたと後悔するも、言い直しはしたくない。恐る恐るアントナンを見ると、淡々とアルフレデリックに伝えている。伝えられたアルフレデリックは瞬間ピシリと固まり、小さな息をひとつ吐いてから、木札へ書き込み始めた。


 ディアヌローズは、もうどんなことでも言える気がした。残りの言葉をサクサクこなし、お願い木札は出来上がった。



 アルフレデリックはついでだと言って、基本文字と数字も順に木札に記していった。

 彼が約束を忘れずにいてくれたことが、ディアヌローズは素直に嬉しい。なので恥ずかしい思いしたことは、水に流してあげることにした。



 アルフレデリックが木札に書いた文字について、ひと通りの説明を行った。

 数字は十進法。基本文字は64文字。但し、大文字と小文字があるので正確には倍の128文字となる。


 ディアヌローズにとって数字が十進法なのは喜ばしい。数字の形を覚えるだけで済ませられる。反して、基本文字は文字数が多くて苦労しそうだ。



 インクを乾かしている間に、ディアヌローズはお願い木札を憶えていく。インクが乾いてからは順番を入れ替えて記憶の確認を何度か繰り返し、憶えてしまった木札は重ねていった。全ての木札が積み上がり、ひと通りの暗記を終えた。


 次に、基本文字の木札とお願い木札を照らし合わせ、文字の組み合わせと発音を確認する。基本文字の数は多いけれど、話せれば以外と綴りは推測できることが分かった。



 ディアヌローズは先生がいる内に確認してみようと思い立ち、アルフレデリックとアントナンに向いて『ペーシュル』と模り、予想する綴りを基本文字一覧を使って順に指し示してから、こてりと首を傾げた。



「合っている」


 クイズが解けたような達成感に、ディアヌローズはニカッと笑った。途端、痛みで泣きたくなる。


「はぁ……其方は賢いのか、愚かなのか……」


 アルフレデリックは処置無しと言いたげに、ゆっくりと(かぶり)を振った。


 いつものディアヌローズなら恥じ入るけれど、今のディアヌローズには時間が惜しい。時間を有効活用するため、自分の名前に始まり、みんなの名前を順に示していった。


「優秀だな」


 アルフレデリックに褒められて気を良くしたディアヌローズは、思いつく物を片っ端から示していき、ほぼ正解することができた。中には変則的な綴りの単語もあったけれど、それは丸憶えすればいいだけだ。


 他に何かないかとキョロキョロと見渡していたら、アルフレデリックに止められた。



「もう(しま)いだ。薬湯を飲んで、(やす)むように」


 薬湯と聞いたディアヌローズの口が、げんなりとへの字に曲がる。

 アルフレデリックは薬瓶をディアヌローズの目の前に翳しながら、それはそれはイイ笑顔を浮かべた。


「治らずともよければ、飲まなくても構わない」


『飲まないとは言っておりません。……少し苦手なだけです』


「薬湯の後に、ミエルで口直ししなさい」


 アルフレデリックはディアヌローズの睨みを鼻で笑うと、お茶を飲みに離れていった。


 背を向けたアルフレデリックの長い髪は、厳冬の月のような微かな蒼。ディアヌローズの薔薇の色に似ている。《奏の世界》とを繋ぐ色。ディアヌローズはうしろ姿を目で追いながら、ずっとうしろを向いていればいいのにと、笑われた仕返しとばかりに心の中で毒づいた。



 マリレーヌが薬の準備を終え、ディアヌローズの背中に手を回して抱えた。


 ディアヌローズは草汁を飲みながら、ミエルについて予想する。きっと甘い物だ。水あめのような物かもしれないし、飴というのもアリかもしれない。つらつらと思いを巡らせているうちに、薬を飲み終えた。


 口直しのミエルが用意された。マリレーヌから差し出されたスプーンには、花の香り漂う透明な液体が掬われていた。口に含むと、それはさらりとした蜂蜜で、喉から鼻へ抜けていくミエルの香りが幸せな気分にしてくれる。目を閉じて、味とともにしみじみと味わった。


 けれど、あっという間にミエルは消えて、草汁の後味が顔を出してくる。眉を(ひそ)めて目を開けると、マリレーヌの持つスプーンを名残惜しそうに見つめた。

 マリレーヌは微苦笑を浮かべて再びミエルを掬い、おねだりに応えてくれた。ディアヌローズはそうやって、何度かおねだりを繰り返した。



 ディアヌローズはミエルの余韻を愉しみながら、庭のベルージュに目を遣った。前に聞いた、今年の実りは期待できないとの話を思い出す。

 ひもじいのは辛い。生まれて初めて、空腹でも食べられないという経験をした。ベルージュの実りがひと粒でも多く齎されますようにと、祈らずにはいられなかった。




 ディアヌローズが横になって基本文字の木札を見ていると、アルフレデリックがやってきて木札を取り上げた。


(やす)むように言っただろう。目を閉じなさい」


 アルフレデリックの大きな()が、ディアヌローズの目を覆う。


 ──あっ、この掌……。あの時の掌だ。


 ディアヌローズが熱で息苦しくなる度に、楽にしてくれた、掌。

 ずっとお礼を伝えたかった人が、こんなに近くに居たなんて。

 よく考えれば分かったはずなのに。


 ──本当にわたしって迂闊ね。


 厳しい物言いに隠れているけれど、思い返してみれば、アルフレデリックは最初から優しかった。

 聖堂で椅子から落ちた時だって、伸ばされた彼の手が見えた。


 ディアヌローズの眦から自然と涙が零れて、顳顬(こめかみ)を滑り落ちていく。

 当然アルフレデリックにも涙を知られ、ディアヌローズの目を覆っていた掌が離れていった。



「どうした?」


 アルフレデリックの声が、妙に優しく耳に届くのは何故だろう。ディアヌローズは自身の心に問い掛けながら、痛まないギリギリの笑みをアルフレデリックへと向ける。


 泣いているのに笑んでいるディアヌローズを見て、アルフレデリックは怪訝そうに眉根を寄せた。


『アルフレデリック様だったのですね。熱で呼吸もままならなかった、わたくしの傍にいてくださったのは。ずっとお礼を申し上げたいと思っておりました。感謝しております。ありがとう存じました』



「…………分かったから(やす)みなさい。熱が上がっている」


 ディアヌローズは頷いて、貝紫の目を閉じる。


 優しく涙が拭われて、アルフレデリックの大きな掌が再び乗せられた。


 掌の隙間から光を感じたディアヌローズは、眠りへと(いざな)われる。意識が水中へ沈みゆく木の葉のように、右へ左へと揺れながら、深い底へと沈んでいった。






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