不調の原因(後編)
表現の修正をしました。
ディアヌローズは瞼の向こうに光を感じた。緩慢に目を開くと、焦点の定まらない視界に青い光が広がった。穏やかな光の向こうに目を凝らすと、アルフレデリックの姿が見えた。彼の唇は言葉を紡いでいるようだったけれど、囁くような声で、何を言っているかは聞き取れなかった。
楽しい食事会を台無しにしてしまったことを謝りたい。ディアヌローズは口を開いた。
「…………ぁ……ぅ……」
声の出ない喉を咄嗟に押さえた。その左手にはなぜか包帯が巻かれている。倒れただけではないのかと、ディアヌローズは混乱した。息が滞り、唇が小刻みに震えた。
ディアヌローズを包んでいた青い光が、萎むように消えた。脇卓の灯りだけになった周囲は薄暗く、青い光に照らされていたアルフレデリックの彫りの深い顔には、灯りによる影ができた。
アルフレデリックは無言のまま、寝台脇の椅子へ腰を下ろした。両の肘をひじ掛けについて広げた両手の指先を胸の前で合わせ、淡い金の瞳をディアヌローズへと向けた。
「ディアヌローズ、暫く声は出ないだろう」
静かに告げられたアルフレデリックの言葉が、ディアヌローズには理解できない。大きく見開いた貝紫の瞳で、アルフレデリックを見つめた。
「調べたが、食事にも食器にも毒の痕跡は無かった」
アルフレデリックが平然と告げた話に、ディアヌローズはさらに目を大きくして息を呑んだ。毒なんて思いも寄らない。何よりも、毒の可能性を考えるアルフレデリックに驚きを隠せなかった。
ディアヌローズの狼狽を、アルフレデリックは凪いだ瞳で受け止めながら話を続けた。
「私が治療を施した。通常であれば完治する程度の症状だが、なぜか其方には効果が薄い。その理由については、いまのところ不明である。しかし時間は掛かるが治るので安心しなさい」
ディアヌローズは包帯の巻かれた手を見上げ、口から垂れた肉汁を拭ったことを思い出す。口許に触れてみるとやはり布が当てられていて、あの時のようなピリピリとした痛みほどではないけれど、少なくない痛みがある。思わず顔が歪んだ。
「どうやら、其方は血に触れると炎症を起こすようだ。ソースには血が使われていた」
アルフレデリックの診断に、ディアヌローズは今までを振り返った。確かに血が最大の要因なのは納得できる。けれど、彼には卵やベーコン、ミルクを摂っても気持ち悪くなるとは伝えていない。ディアヌローズには血だけでなく、動物性のもの全てが原因と思えた。きっと血液ほどではなくても、卵や肉なども蓄積されていけば、いずれ体調を崩すだろう。気持ち悪くなるのはいつも食後だった。たぶん間違いない。
今度こそ食べられると期待した。それは《奏》が肉好きだったから。何より、ディアヌローズ自身が《奏》と同じでありたかった。外見は変わっても、それ以外の事では《奏》と何ひとつ違わないのだと主張したかった。ピアスや指輪などの物で《奏》と証明するのでなく、趣味嗜好でも《奏》であると自身に示したかった。
それに、用意してもらった食事に手を付けないことも、食べられないと伝えるのも、申し訳なく思えて無理を重ねてきた。なのに、かえって迷惑を掛ける結果になっている。心苦しくても、食べられないと申告すべきだった。
ひとまず、アルフレデリックに食事会のお詫びと治療のお礼を伝えたい。どのように伝えたらいいだろう。文字を教わっていたなら、手紙で伝えることもできた。それができない現状でどうしたらいいのか。
──口パクで伝えてみる?
ディアヌローズは包帯を巻いていない手で上掛けをポンポンと叩いて、アルフレデリックの注意を引いた。
『せっかくのお心遣いでしたのに、お食事会を台無しにしてしまい、申し訳ございませんでした。治療までしていただき、感謝しております。ありがとう存じます』
ディアヌローズはゆっくりと唇を動かして、言葉を形作る。
アルフレデリックは手を上げてディアヌローズを制止すると、アントナンを呼んだ。
「普通の速さで話されてください。私が唇を読みましょう」
アントナンに促され、ディアヌローズは再び同じ内容を普通の速度で模っていく。アントナンはディアヌローズの考えたとおりの言葉をアルフレデリックに伝えた。
聞き終えたアルフレデリックに、ディアヌローズは神妙な顔をして頷いた。
「そのようなことを気にする必要はない。熱があるのだから、もう眠りなさい」
アルフレデリックはそう言うと、すぐに帰っていった。
ディアヌローズは独りになった寝台で、脇卓の灯りがぼんやりと照らしている天蓋を見上げた。揺らぐ光を見つめながら、心の裡に沈んでいく。
──眠れない……。
不安がディアヌローズの心に忍び寄る。冷静な自分が、じわじわと隅っこに押しやられていく。そんな思いに囚われた。たとえ倒れた原因が分かっても、受け入れられるかは別な話だ。
──わたしは《奏》、だろうか…………?
《奏》なら、どうして同じでないのか。少し前と同じ問いを繰り返す。
考える度、いつも同じ疑問に行き着いてしまう。
なぜ、転移したのか。
なぜ、子供になったのか。
なぜ、容姿が変わったのか。
なぜ、なぜ、なぜ…………。
答えの出ない問い。
この身体が、此の世界の身体なら────
還る前に死んでしまうかもしれない…………。
以前にアルフレデリックとした生存率の話が、ディアヌローズの脳裏を掠めた。
あの時は、自分には関係ないと流した話。
けれど、もしも関係あるとしたら?
今回のことも含めて、何もかもがディアヌローズを不安にさせていく。
──お祖母さま……怖いよ。
ディアヌローズは叶わないと分かってはいても、祖母に抱きしめて欲しいと強く願った。
せめて顔を……と、ぎゅっと目を瞑る。
なのに────涙が零れただけだった。
眦にハンカチがあてられて目を開くと、いつの間にかフォセットが傍らにいて、自分の痛みのように眉を寄せて瞳を揺らしていた。
「どうされましたの? 痛みまして?」
ディアヌローズは『いいえ』と、ゆっくり首を振る。
「アルフレデリック様が診てくださいましたから、何も心配いりません。必ず治りますから安心なさって。エレオノール様もたいそう心配されておいででしたので、明日の朝一番にお知らせしますわ」
フォセットは、上掛けをディアヌローズの肩口まで引き上げながら話を続ける。
「眠るまで、わたくしがお傍におります。もう夜も更けましたのでお休みください」
人の温もりが恋しい、
独りで目を閉じるのが怖い。
ディアヌローズは右手を上掛けから抜いて、躊躇いがちにフォセットへと伸ばした。
フォセットは微笑みながら、優しくディアヌローズの手を包み込む。
不安を受け止めてくれる人がいる。
震える心を宥めてくれる人がいる。
温もりを安らぎに変えて、ディアヌローズは目を閉じた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
誰かに髪を引かれている────。
ディアヌローズは眠りから引き上げられて目を覚ました。
気のせいだったのか、見渡しても誰もいない。
外はまだ暗く、夜明けはまだ遠いらしい。虫の声のほかは音をたてるものも無く、闇の底で静まり返っている。見上げる天蓋が高く、寝台がやたらに広く感じた。世界にたった一人取り残されたみたいで怖気立った。
喉の渇きを覚えて脇卓を見ると、吸い飲みらしき物が置いてある。
ごそごそ動くと、手に小さな瓶を持ったベアトリスが顔を出した。
「いかがされまして?」
「……っ」
声が出ないことを失念していたディアヌローズは、慌てて吸い飲みを指さした。
察したベアトリスはディアヌローズを起こすと、吸い飲みを口許にあてがい、
「喉に負担を掛けないように少しずつ、と指示を受けております」
と言って、ゆっくりと吸い飲みを傾けた。
ディアヌローズは僅かに注ぎ込まれた水で顔を顰めた。水でしかないはずなのに、痛いほどに沁る。爛れているのを思い出して慎重に飲み込むと、喉を下りていく水がピリピリと粘膜を刺激していった。水を飲む時にこんなに意識したのは、生まれて初めての経験だった。
水が胃に納まると、肩の力が解けた。ディアヌローズは渇きと痛みを天秤にかけて、もう要らないと首を横に振った。
「では、薬湯をお飲みください」
ベアトリスはもうひとつ別の吸い飲みに小瓶の中身を移して、ディアヌローズの前にもってきた。
──うぇっ、青臭い。
いかにも薬草という匂いが鼻につく。堪らずに反らしたディアヌローズの背を、ベアトリスは手を回してがっちりと支えた。
「飲まなければ治りませんわ」
ディアヌローズも頭ではちゃんと理解している。なのに身体が勝手に拒否をするのだ。ちょっぴりの抵抗は大目に見て欲しいと恨みがましく思った。
ディアヌローズがこわごわ口を開けると、吸い飲みからどろりとした青臭い草汁が注ぎ込まれて、口内を蹂躙していく。手が無意識に口を覆い、はずみで炎症箇所に触れて悶絶した。
何とか飲み込むと、粘り気のある薬が喉にべったりと、はり付くように下りていった。不思議と水を飲んだときのような刺激は無く、痛みに蓋をしていくような感覚だった。
「大丈夫ですか? 飲みきるまで頑張りましょう」
ベアトリスが背に手を回したまま激励してくれるけれど、全部飲むまでは開放してはもらえないらしい。ディアヌローズは小匙半分に満たない量を舐めるように口にしていく。十回までは数えたけれど、それ以降は虚しくなって止めた。
ベアトリスの励ましと献身に支えられて、ディアヌローズはどうにかこうにか薬を飲み終えた。最後にもう一度水をもらう。草汁が舌にべったりと纏わりついたままでは、とても耐えられなかった。
付き合ってくれたベアトリスに、ディアヌローズは出ない声でお礼の言葉をゆっくりと形作る。
『ありがとう存じます』
ベアトリスは分かってくれたのか、
「早く良くなってください」と、聖母の笑みを浮かべた。




