不調の原因(前編)
表現の修正をしました。
朝食を終えたディアヌローズは、長椅子でいつものように、お茶を飲んで過ごしている。
窓の外では少しずつ朝の光も強くなり、庭の植物も勢いづいてきていた。ベルージュの茂みを見れば、花が目立つほどに増え、自ずとディアヌローズの期待も膨らんだ。このままの勢いで実りも増えて、フェブルに会う機会が訪れたらいいなと思っている。
──そろそろ時間かな……。
ディアヌローズは湯気の立たなくなったお茶の、最後のひとくちを飲み干した。
今までディアヌローズが時間を気にしたのは、せいぜい食事や起床、就寝時間くらい。そんな朝食後のひとときが、三の鐘までになったのは、ほんの数日前のこと。
ほどなくして重々しい和音が三度鳴り響き、これから半鐘分はヴィオリナの練習時間。
フォセットから渡されたヴィオリナを、ディアヌローズはピィン、ポロンと弦を弾きながら、音を確かめ調弦していく。
不本意ながらも始まった日課に、ディアヌローズは溜息しか出ない。
課題の内容自体は易しいのに、イストワールの楽譜に手こずっている。それでも数日かけて、少しずつではあるが慣れてきた。とはいっても、頭の中で馴染みのある音符に変換しないと弾けなくて、いちいち手間がかかって面倒くさい。直に弾けるようになるのは、いつになることやら。先が思いやられた。
ディアヌローズはひと通り復習てヴィオリナを拭きながら、
「フォセットさん、ベルージュの花が増えたと思いませんか?」と、ちらりと庭へ視線を送った。
「そう……ですわね。とうに花の時期は終わっているはずですのに」
フォセットがヴィオリナを木箱にしまい終えるのを待って、ディアヌローズは徐に胸の前で両手を組み、貝紫の瞳でフォセットを見上げた。
「花を見たら、すぐに戻ってくると約束します。庭へ出てはいけませんか?」
庭で倒れてからというもの、みんながとても慎重になっている。きょうこそ許可して欲しい、とディアヌローズは思いを込めた。
フォセットは寸の間ディアヌローズを見つめた後、小さく息をついた。
「では、レオナールをお連れください」
途端にディアヌローズから笑みが零れる。
「ありがとう。フォセットさん」
暫くぶりの許可に、足取りも軽くディアヌローズは庭へ出る。
緑の濃くなった葉が揺れ、ベルージュの花の香りが風にのって鼻腔をくすぐる。部屋から見ても明らかに増えていた花は、近付いてみると三倍ほどに数を増やしていた。
この様子なら実りも期待できそうだ。フェブルの他にも、いろいろな動物が姿を見せるかもしれない。想像するだけでディアヌローズの心は躍った。これは神頼み効果かもしれない。どうか実りも多くなりますようにと再びの祈りを込め、ディアヌローズは薄ピンク色の小さな花に、そっと触れた。
ディアヌローズの隣では、レオナールも興味深そうに花を見ている。
「べルージュの花がとてもたくさん咲きましたね。レオナールさん」
「そうですね。私もここで、これほど咲いているのは初めて見ました。この分なら、エティスタースの終わる熱月には、多くの実りを得られるでしょう」
「エティスタース?」
「季節の名前ですよ。一年を四つの季節に分けて、エアリューリスから始まり、エティスタース、アウレルーメル、最後にエイレヴェールとなります」
「熱月というのは何ですか?」
「月の呼び名です。ひと季節をさらに三つに分けて、それぞれに呼び名があります。エティスタースを例にすると、牧草月、穀月、熱月の順になります。因みに今は牧草月の終わりですよ」
「では、一年は月が十二あるのですね」
レオナールは碧色の目を大きくして、感心したように声を上げる。
「そのとおりです! さあ、そろそろ戻りましょう。フォセットが気を揉む頃合いです」
レオナールに促されて部屋へと戻りながら、ディアヌローズは考える。
一年が十二か月なのは《奏の世界》と同じ。今がエティスタース、ひと季節の最初の月。とするなら、イストワールに迷い込んだのは、エアリューリスの二つ目か三つ目の月。ならば、エアリューリスは春、エティスタースは夏になる。修了試験は五月だった。月日の流れは《奏の世界》とあまり変わらないのかもしれない。
「お疲れになりまして?」
フォセットに声を掛けられて、ようやくディアヌローズは部屋へ着いていたと気付いた。
「……いいえ、疲れておりません。花がとてもたくさん咲いていたから、どんな実がつくのかしらと考えていたの」
「楽しみになさいませ」と、フォセットは目を細めて笑んだ。
「はい……」
実る頃までここに居られるなんて、とてもではないが思えない。ディアヌローズは咄嗟に貼り付けた笑顔の、その目を伏せた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
扉の開く音が、静かな部屋に響いた。開いた扉の隙間から、聞き取れない二言三言の会話が室内に漏れ、扉はふたたび閉じられた。
伝言だけだったようで、託けがフォセットからディアヌローズへ伝えられる。
「三日後に、アルフレデリック様とエレオノール様が昼食をご一緒される、とのことですわ」
ディアヌローズはにこりと笑みながらも、内心で頭を抱えた。相変わらず食後は気持ち悪さがあって、今もお茶で体調を立て直している最中だ。それに────
「課題の確認もされるのかしら?」
思いのほか課題の進捗が早く、ディアヌローズは未だに慣れない楽譜に手こずっていて、地味に辛い。
「特に託ってはおりませんが、心づもりはされていた方がよろしいでしょうね」
「──はい……。承知いたしました」
ディアヌローズの不承不承という返答に、フォセットはクスクスと笑った。
「お嬢様が課題を難なくこなされるので、アルフレデリック様の興が乗ってしまわれるのですよ」
「あんなに苦労しておりますのに……。同じ課題なら、文字を教えてくださればいいのに」
と、ディアヌローズは口をへの字に曲げた。
「文字の手習いは洗礼を終えてからが一般的なので、指導書の選定に時間を掛けられているのかもしれませんわね」
フォセットの言葉にディアヌローズは驚きを隠せない。どうやらイストワールは教育がのんびりらしい。鼻息も荒く、両手の拳を握りしめながら主張する。
「わたくし文字の習得なら、音を上げたりしません」
「まあまあ。でしたら三日後に、直接アルフレデリック様にお伝えなさいませ」
呆れたように笑うフォセットを見て、そんなに意欲的に見えたかしらとディアヌローズは小首を傾げた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
三日経った昼食会の日、三と半の鐘でアルフレデリックとエレオノールの二人が訪れた。
お茶を喫しながら会話もひと段落した頃合いで、アルフレデリックから課題の確認を求められた。
ディアヌローズは目で『やっぱりね』とフォセットに合図を送りながら、ヴィオリナを頼んだ。フォセットは笑窪を深めてディアヌローズを窘める。ディアヌローズは上目遣いで僅かに首をすくめ、ヴィオリナを受け取った。
ディアヌローズが課題曲の披露をすると、アルフレデリックから合格とともに次の譜面を渡された。
新しく出てきた記号を習い、期限を告げられる。彼が指定した期限は難易度が上がるにも関わらず、なぜか短くなっていく。
戸惑いと不服からディアヌローズの眉が寄った。
そしてエレオノールは譜面を見るなり、驚きの声を上げる。
「アルフレデリック、あなた厳しすぎるわよ。わたくしこの曲はもっと大きくなってからだったもの」
ディアヌローズはアルフレデリックの進度の異常さを知るとともに、彼が改めてくれるのを期待した。
けれど、アルフレデリックは片眉を上げて平然と言う。
「弾けるのだから、別に問題ないだろう?」
当たり前だと言わんばかりのアルフレデリックにディアヌローズは慄き、問題ありありではないかと胸の内で叫んだ。どんどん課題を加速させる未来しか見えず、あの毒々しい笑顔で言われるよりはマシだけれど、表情を変えずに恐ろしいことを言わないで欲しいと強く思った。
ディアヌローズは縋るような目で、エレオノールに助けを求める。彼女は目が合った瞬間ぴたりと動きを止め、ついと視線をディアヌローズからアルフレデリックへ移した。
「確かにディアヌローズは上達が早いから、教えがいがあるのは理解できるわ。けれど、そんなに根を詰めさせなくてもいいと思うの」
アルフレデリックは怠け者に割く時間は無いとばかりに、銀にも見える淡い金の瞳でディアヌローズの目をひたりと捉えた。
「ディアヌローズ、出来ないなら申し出るように。無理をさせるつもりはない」
────そんな言い方、狡いです……。
ディアヌローズは肩を落として目を伏せ、息を詰めたまま答える。
「無理、……ではありません」
「ならば、やっておきなさい」
「…………はい」
アルフレデリックに察する気はさらさら無いらしい。見た目五歳児にも厳しい先生。だったらいっその事やる気を見てもらおうではないか。ディアヌローズはアルフレデリックを見上げる。
「アルフレデリック様。わたくしに基本の文字だけでも先に教えていただけませんか」
「ああ、それは構わない。向上心があるのは大いに結構。昼食後に教えよう」
アルフレデリックは機嫌良さそうに、頤を親指で撫でながら即答した。
ディアヌローズは漸く文字を憶えられると胸の内で大きくガッツポーズをし、アルフレデリックへ最大級の感謝を込める。
「ありがとう存じます」
「あなた達、二人ともどうかしてるわ」
と、エレオノールは呆れ返ったように肩を竦めた。
エレオノールの言葉にディアヌローズの動きが止まる。アルフレデリックと同列にされるのだけは心の底から遠慮したい。そう言いたがる口をディアヌローズは必死に閉じ、力のない笑みを貼り付けた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
昼食の準備が整って食卓へつくと、アルフレデリックが食事会の主旨を語り始める。
「狩りで珍しいノクテュルが獲れたのだ」
「そういえば、狩りに誘われていたわね。貴方が仕留めたの?」
「ああ。別の獲物を追っていた時に偶然、巣穴を見つけた。滅多に獲れないうえに大物で幸運だった」
その時の感慨に浸るように、アルフレデリックは目を閉じた。
ディアヌローズにはとても意外だった。アルフレデリックはどちらかというと、インドア派だとばかり思っていたからだ。それに、普段はあまり感情を表に出さない人がとても嬉しそうに語るのも驚きだった。
「アルフレデリック様がそのように仰るなんて、よほど珍しいのでしょうね」
「ノクテュルは夜行性で、昼間は巣穴に籠っている。だからといって夜に狩ろうとしても、躯体が黒くて見つけるのは難しい」
いつもは冷たく感じる彫像のような白皙の面立ちに温度を感じた気がして、ディアヌローズには見たことの無いノクテュルよりも、今のアルフレデリックの方がよほど珍しく貴重に思えた。
「ディアヌローズは初めてよね。とても美味しくて驚くわよ」
エレオノールの声は待ちきれないとばかりに弾んでいる。
大人たちをこんなに高揚させるノクテュル。一体ナニモノですか。ノクテュル恐るべし。ディアヌローズ自身は、別な意味で恐れているけれど。
──お肉、大丈夫かな……。
ディアヌローズにも貴重なお肉を振る舞おうとわざわざ食事会を開いてくれたのに、いまさら食べられないなんて言えない。それに、きょうこそは食べられるかもしれない、との期待もある。今だって、気持ちは『お肉大好き』なのだから。
ディアヌローズの期待と不安をよそに、アルフレデリックが食前の感謝の祈りを捧げ、食事が始まった。前菜から食べ進め、とうとうメインの肉料理が給仕される。
ノクテュルはステーキで出てきた。見た目はひれ肉で、赤ワイン色のソースが掛けられている。《奏の世界》の《奏》なら、迷わず選んだであろう一皿。ディアヌローズは意を決してカトラリーを手に取った。フォークを肉に突き刺し、ナイフを入れる。思った以上の柔らかさに驚いて顔を上げた。この感動を伝えたい。けれど二人とも自分の皿に集中していて、話しかける雰囲気ではなかった。
──ノクテュル凄い。がんばるぞ、わたし。
ディアヌローズは皿に視線を戻し、止めていたナイフを動かした。一直線に入れた切り口から、仄かな湯気とともに匂いも立ち上ってくる。うっ、と息が詰まった。
──ムリかも…………。
うんと小さく切り分けた肉を、気合もろとも口内へ入れ込む。口を閉めると血生臭さが一気に広がり、嘔吐きそうになって涙が滲んだ。それでも何とか飲み下すと、優雅さを損なわないギリギリの速度でゴブレットへと手を伸ばした。柑橘系の果実水が口の中を清めてくれる。駄目だったかと、気付かれないようにそっと息をつく。
──笑顔。笑顔。がんばれ、わたし。
僅かに切り取られただけの肉に視線を戻し、せめて半分、とカトラリーを動かして口許へ運んだ。さきほどの比ではない血生臭さに顔を顰めそうになったが、根性で笑顔を貼り付ける。臭いに慣らすように、ひと呼吸おいてから口へ押し込み、ほぼ丸飲みした。アルフレデリックたちの心遣いを無にはできない。
──大丈夫。出来るよ、わたし。
どうにかこうにか半分近くまで食べ進んだ。もう口の中はじんじんしていて、不幸中の幸いか、臭いも味も大して分からなくなっていた。肉の断面は中ほどまでくるとほぼ生で、赤ワイン色のソースがとてもよく絡み、まるで血が滲んでいるように見える。ソースが滴った肉を口に入れて、フォークを抜く。肉汁と一緒に、ソースが口内に溢れた。
途端に口の中が激しい痛みに襲われ、カトラリーが手から滑り落ちた。
吞み込むのを拒絶するように喉が締まり、行き場のなくなった液体が口の端から漏れて伝っていく。
伝った顎も、咄嗟に触れた指先も、まるで火傷をしたみたいにピリピリと痛んだ。
同時に身体の内側を熱が駆け巡り、額が灼けるように熱くなった。
ゆらり、と頭から傾いでいく。まるで他人事のようだった。
「きゃぁ!」
「ディアヌローズ!」
誰かの叫ぶ声が、ディアヌローズの耳に届いた。
────大丈夫って言わないと……。
ああ、また迷惑をかけてしまう。
ごめんなさい……食事会を台無しにして。
ガチャン!
ガタン、
ガタリ。
普段は決して聞くことの無い音が響く。
────何だか不思議。
どこまでも落ちていくみたい…………。
まるで……スローモーション、ね。
ディアヌローズは暗闇に吸い込まれる直前に、ふわりと身体が浮いた気がした。




