中立領プリエテールの植物園
アルフレデリックが散歩の課題を言い渡した翌日。
いつもの課題を終えて、ディアヌローズは長椅子でひと息ついていた。
これから気乗りしない散歩の課題が待っている。
決して散歩が嫌いなわけではない。むしろ庭を散策するのは愉しいし、好ましい。そぞろ歩いて、きのう見つけた蕾が咲いているのを見つけたり、フェブルに会えるかもしれないと胸を躍らせたりしたいのだ。
けれど課題にされてしまったら、それは行進になってしまう。頭の中に「イチ・ニ、イチ・ニ」と号令が鳴り響き、余所見なんてとんでもない、となるのだ。
そんなわけで、目下、果実水をちびちび飲みながら、ささやかな先延ばしを決行している。
ところが、ディアヌローズが果実水を嚥下しようとした丁度その時────
突然、アルフレデリック来訪の小鐘が鳴った。
「ごふっ、……ごほっ、ごほっ!」
「だ、大丈夫ですか」
フォセットは、咽るディアヌローズからすかさず杯を取り上げて、背を軽く叩いた。
ひゅーひゅーと喉を鳴らし、ディアヌローズは「大丈夫」と言えないまま、背を丸めて咽続けた。
唐突に青い光がディアヌローズを包み、呼吸が楽になった。
ディアヌローズは滲んだ涙を拭いながら、顔を上げる。
「はあ……。粗忽だな」と、頭を振るアルフレデリックが立っていた。
咽たのは、アルフレデリック来訪の小鐘のせいだ。まあ、散歩の課題を怠けていたディアヌローズ自身に非があるわけだけれど。それでも咽た原因であることに変わりはなくて、癒してもらって感謝の気持ちはあっても、粗忽と言われては面白くない。
ディアヌローズは、尖りそうになる口を頑張って笑みの形に引き上げた。
「ありがとう存じます。アルフレデリック様。散歩の課題でしたら、いま行くところです」
怠けていたことを悟られまいとするディアヌローズに、アルフレデリックは怪訝な目を向けた。
「……まあ、よい。散歩の前に、濾過器の性能を確認したい」
ディアヌローズは、濾過器の木箱を持ってくるようフォセットに頼んだ。ついでに、消し炭は新しいものを用意してもらう。
小石や砂といった材料を濾過器に入れて完成させ、庭で実演をした。
アルフレデリックは実演の一部始終を見て、口を開く。
「大量の水を濾過するのは厳しいが、当座の飲み水にはなりそうだな。
──改良は必要だが、採用とする」
「本当ですか!? わたくしでも役に立てるのですね!」
ぱっと顔を輝かせて、ディアヌローズは言った。
アルフレデリックは、僅かばかり目を大きくする。
「まあ、そうだな。では、課題の散歩に行きなさい」
一瞬で顔を曇らせるディアヌローズに、アルフレデリックは意地悪な笑みを浮かべた。
「『いま行くところ』と言っていたと記憶しているが? 妄言か?」
ディアヌローズはぐっと息を詰める。
「……では、失礼いたします」
回れ右をして、腕を振って庭の小道へ向かって行進した。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
散歩の効果は日々確実にあらわれて、とうとう植物園に行く日がやって来た。
ディアヌローズは早くから目を覚まし、天気を気にしたり、持ち物を何度も確認したりと落ち着きがない。
「出掛けられる前からそんなにはしゃがれては、途中で疲れてしまいますわよ」
ベアトリスの注意に頷きながらも、ディアヌローズは高揚感を抑えられそうにない。何といってもエレオノールとの外出はこれが初めてで、きょうのために粛々と散歩の課題をこなしてきたのだ。
ディアヌローズに着せ付けられた外出着は水色で、動きやすいように袖の広がりは半分ほどだ。全体的にフリルやレースは少な目になっている。代わりに、胸元には小さなリボンが並び、肩口には大きなリボン、腰にはさらに大きなリボンだ。
髪はツインテールで、リボンが結ばれた。
同行するフォセットが支度を終えて顔を出し、間もなくアルフレデリックもやって来た。
アルフレデリックは紺色の長衣で、銀糸の刺繍が目を引く。きょうの外出にはマントを着けないらしい。髪はいつもの緩い三つ編みでなく、項で一纏めにしている。
「支度は終わったか?」
「はい。エレオノール様は?」
「馬車寄せで待ち合わせだ」
言い終えるなり、アルフレデリックは踵を返して歩き始めた。相変わらず一歩が大きい。
遅れないよう、ディアヌローズもあとに続く────ふわりと、身体が持ち上がった。アントナンに抱き上げられる。眉を顰めた。
「きょうは歩けます。下ろしてくださいませ」
「植物園は広大です。途中で歩けなくなりますよ」
ディアヌローズはじたばた暴れたが、アントナンに下ろす気はないようだ。
「アントナンの言は尤もだ。歩けなくなった時点で、見学は終いとする」
アルフレデリックは鼻を鳴らした。
ディアヌローズが思うに、アルフレデリックはコンスタンティンの言葉を気にしているらしい。けれど、ディアヌローズはきょうを満喫するため、散歩を頑張ってきたのだ。要らない心配だが、たとえ万が一疲れたとしても、アルフレデリックに世話になる気は毛頭ない。最後まで自力で歩く気満々である。
「ご心配には及びません。最後まで歩けますもの」
鼻を膨らめて、ディアヌローズは言い切った。
アルフレデリックはこれ以上ない笑顔を見せる。
「其方の言葉を信じよう。ぜひ植物園ではそうしてくれ」
結局、馬車寄せまで、ディアヌローズはアントナンに運ばれた。エレオノールと合流する。
建物から一歩出て、ディアヌローズは空を見上げた。晴れ渡る空は青く、清々しい天気に恵まれて、気分は更に高揚した。ワクワクが止まらない。
まず、エレオノールが馬車に乗り込んだ。次いでアルフレデリックが乗り、ディアヌローズをアントナンから受け取った。ディアヌローズはエレオノールと並んで腰掛け、アルフレデリックは対面の席に着いた。
「エレオノール、ディアヌローズを支えていてくれないか」
小首を傾げながらもエレオノールはディアヌローズの肩を抱き寄せ、アルフレデリックに杏色の目を向けて問う。
アルフレデリックは、「直ぐにわかる」とだけ言った。
馬車が、アルフレデリックの合図で動き出す。
ゴトゴトと馬車は揺れ、ディアヌローズのお尻は小刻みに跳ねた。エレオノールは、ディアヌローズに回した腕の力を強めて、納得の表情を見せた。
ディアヌローズも久々の馬車の振動で、以前の馬車酔いを思い出す。でも、きょうは城下門を越えないのだから、前よりも酷いことにはならない筈だ。一応、予防策として、気持ちををよそに向けた方がいいかもしれない。
「植物園はとても広いと伺いました。どのような処なのですか」
「ええ。とても広いわ。大きな庭園や、森になっている場所もあるのよ。
でも、最も素晴らしいのは温室ね。大きな温室が幾つもあるの。
その中に、イストワールにある植物のすべてが集められているのよ」
「温室に、すべてですか?」ディアヌローズは貝紫の目を丸くする。
「中立領の植物園は、すべての植物の種を保存するためにある」
アルフレデリックはそう言って、遮音石を取り出し、「ペルドル」と起動した。
三人を黄色い膜が覆い、騒音が消えた。
「始まりは、四季ができてからだ。建国神話に記述があったであろう」
「──はい。ですが、一文だけでした。
『常春より、四季ができる』と、だけ」
アルフレデリックは頷いた。
「経緯は口伝のみ。一部の者しか知らない。
建領の浅い領地は、領主でも知らないだろう。
其方も知ったなら、言いふらさぬことだ。神の機嫌を損ねることになる。
──知りたいか?」
脅かされて迷ったものの好奇心が勝り、ディアヌローズは首を縦に振った。
「建国当初、イストワールは常春であった。
ある日、イストワールに領地を持っていない兄弟神の一柱は、
父神がフェルヴェリーラにだけイストワールを与えたことに腹を立てた。
年に一度だけある神々の集う日、
その神は兄弟神の目を盗んで、天上より毒を撒き散らしたのだ。
地上にはすでに人の営みがあり、
神は地上を創造し直すことを断念し、代わりに浄化のための雪を降らせた。
幸いであったのは毒が撒かれた時、地上は収穫を終えていたことだ。
以来、イストワールに四季ができた。
神にとっては些細な悪戯だろうが、その嫌がらせは今も続いている。
春に芽吹き、
夏は成長、
秋は収穫。
そして収穫の終えた大地に、毎年、天上より毒が撒かれ、
冬は毒を浄化し、回復させる。
人の営みは浄化により継続され、今に至る。
故に、一年の始まりは春。
再び春が巡ってきたことを感謝し、神に花を捧げる。
それが、花まつりだ」
冬に浄化するのなら、温室で保存する意味などあるだろうか。潅水だけでもかなりの手間になる。イストワールに何種類の花が存在するかは知らないが、月詠家で相当数ある植物の世話をしてきたディアヌローズにとって、どれほどの手間であるかを想像するのは容易かった。
「わざわざ温室で保存するのはなぜですか?」
「神の気まぐれで、毒を撒く季節が変わるとも限らぬ。
失ったものは、癒せない。
他にも理由はあるが、機会があれば教えよう」
「その神の行いを、兄弟神は止めないのでしょうか」
アルフレデリックは僅かに片眉を上げ、淡い金瞳でディアヌローズを見た。
「忘れたのか? 建国神話に記してある。
神は領主を任じ、統治のありようを天上より見下ろして楽しんでいるのだ」
ディアヌローズは顔を顰める。
「悪い行いなのに、罰せられないなんて……」
「何をもって『善』とし、何をもって『悪』とするのか。
其方が『善』と判じても、すべての者が『善』と判じるとは限らず、
其方が『悪』と判じても、すべての者が『悪』と判じるとは限らない。
そもそも『善悪』というのは人間の尺度であって、
神にとっては等しく変わらないものなのだろう。
そうでなければ、災厄や混沌の神は存在しないことになる」
エレオノールが、ディアヌローズを支えている反対の手を上げた。
「講義はお終いよ。直につくわ。これからの話をしましょう」
アルフレデリックは「アニュリィ」と遮音石を解除する。
途端に、騒音が戻った。
「ごめんなさい……。姉さま」
へにょりと眉尻を下げてエレオノールを見上げるディアヌローズに、エレオノールは困ったように笑んだ。
「アルフレデリックに感化され過ぎてはダメよ、ディアヌローズ」
「わたくしが教えを乞うたのです。姉さま。アルフレデリック様は教えてくださっただけですから」
「まあ」とエレオノールは驚きを露わにし、アルフレデリックはそっぽを向いた。
ディアヌローズはアルフレデリックを横目に、咄嗟に口を開く。
「ね、姉さま、きょうはどの温室を見るのでしょう」
「観賞用草花の温室が人気だわ。
そうそう。珍しい花が咲いたと耳にしたのよ。
何十年かに一度しか咲かなくて、ほんの数日で枯れるのですって」
「そんなに珍しい花が……」
「興味があるなら、まずその花を見に行きましょうか」
「はい!」
アルフレデリックは話に参加しなかった。
機嫌が悪いのかと気になったディアヌローズは、窓の外を見遣るアルフレデリックを見た。窓枠に頬杖をつくアルフレデリックの口角が、心なしか上がっているような気がした。
それからほどなくして、馬車は植物園に着いた。




