思いがけない訪問者(2)
ディアヌローズは目を覚ました。
辺りは暗い。帳が閉じているのかと見遣るが、帳は開いていた。どうやら夜明けにも遠い夜更けらしい。いつもは朝まで深く眠っているのに、珍しいこともあるものだ。昼間の出来事で、気が高ぶっているのかもしれないと思った。
──移領はいつ頃になるのだろう。うんと遅くなればいいのに……。
昼間訪ねてきたアデライードが嫌なのではない。エレオノールと離れたくないだけだ。移領してしまったら、次はいつ会えるのかわからない。ディアヌローズの中で漠然としていた移領が、アデライードの来訪で急に現実味を帯びて迫ってきた。
考えるだけで涙が滲んでくる。
涙を拭おうと上げた手がひどく重怠かった。気付いてしまえば手だけでなく、身体全体が怠い。喉も乾いている。
またか──。ディアヌローズは嘆息した。子どもの心は制御が難しく、すぐ体調にあらわれてしまう。理解することと納得することは別だと、心が身体に訴えてくる。朝までに心を立て直さないと、またみんなに迷惑をかけてしまう。
脇卓に水差しを見つけ、まずは喉を潤そうと重い体を起こした。上半身をひんやりとした夜気が包む。春の夜はまだ寒く、身体がぶるりと震えた。
「いかがされまして?」
ベアトリスが顔を出した。
しまった、とディアヌローズは思ったがもう遅い。不調を隠すしかないだろう。
「喉が渇いて目が覚めたの。まだ朝にならない?」
「まだ深夜でしてよ」
ベアトリスは脇卓の灯りを燈した。周りがほの明るく照らされる。
水差しから杯に水を注ぐと、ディアヌローズの口許に杯を寄せる。反対の手を背中に回した。
途端に眉を寄せる。
「お熱がありますわ。アルフレデリック様に診ていただきましょう」
「これくらい大丈夫よ。アルフレデリック様は前の晩に徹夜されたの。だから知らせないで。お願い」
「お嬢さまが発熱されたら知らせるようにと、アルフレデリック様から申し付かっておりますの。お知らせしなければ、わたくしが叱られてしまいますわ」
ベアトリスはディアヌローズに水を飲ませると、アルフレデリックに知らせるため部屋を出ていった。
こんなはずではなかったのに──。ディアヌローズは後悔する。左手で右腕の腕環に触れた。アルフレデリックがエレオノールとのお茶会に間に合うよう、徹夜して作ってくれた腕環だ。
アデライードはアルフレデリックが自分を匿ったのだから面倒を見るのは当然と言ったけれど、限度を超えているとしか思えない。発熱するたび昼夜を問わず癒してくれ、拉致された時には救い出してくれた。全てを数え上げれば両手の指では足りないほどだ。
ランメルトに移領したなら、アルフレデリックにもう面倒をかけなくて済むだろうか──。それならエレオノールとの別れは辛く淋しいけれど、移領が遅くなればいいなんて子どもの駄々のような感情は捨てる。
一日でも早くランメルトに行くと申し出よう──。
そう決めた心が、ぎしりと音を立てて軋んだ。
暫くするとアルフレデリックがやって来た。ディアヌローズの額に掌をあてる。
「思ったよりも高いな……」
「何ともありません」
ディアヌローズは嘘をついた。本当はアルフレデリックの掌が冷たくて気持ちいい。決心が鈍らないうちにと口を開く。
「アルフレデリック様、すぐにでも移領させてくださいませ」
「──何を言っている?」
アルフレデリックは眉間に深い皺を刻んでディアヌローズを見下ろした。
その瞳をディアヌローズは真っ直ぐ受け止める。
「早くランメルトに慣れたほうがいいと思うのです」
「昼間とは考えが違うようだが?」
「よくよく考えたのです」
無表情のまま、アルフレデリックはディアヌローズをただ静かに見つめた。
その視線は穏やかだったが、偽りを見抜く強さがあった。ディアヌローズが苦心して被せた嘘を、本心から引き剥がそうとする。どんどん居心地が悪くなって、とうとう耐えきれずに視線を逸らした。
アルフレデリックは大きく嘆息した。
「無理な決心はせぬことだ。体調を崩すもととなる」
「──わたくしが移領すれば、アルフレデリック様の負担が軽くなります。……昨晩も徹夜されたのに、今夜もわたくしのために来てくださいました」
「今夜のことは想定内だ」
「でも……」
「仮に其方が本心から願っても、まだ領地での受け入れ態勢は整っておらぬ。移領は無理だ。準備が整い次第と言ったはずだが、忘れたか?」
そう言われてみれば聞いた気がする。やるせなくてディアヌローズは唇を噛んだ。
「私の負担を軽くしたいなら唇を噛むな。傷になる。其方を眠らせたら私も寝む」
アルフレデリックはぞんざいに言うと、ディアヌローズに向けて手を伸ばした。
思わずディアヌローズは身構える。
だが口ぶりとは裏腹に、その掌は柔らかく下りてきて目許を覆った。
癒しの青い光がアルフレデリックの指の隙間から漏れてくる。慌ててディアヌローズは瞼を閉じた。
すぐに身体の重怠さが消えていき、深い眠りに落ちていった。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
鐘の音でディアヌローズは目を覚ました。
すぐにフォセットがやって来た。ディアヌローズの白金の前髪をはらって額に触れる。
「お熱は下がっていますわね。体調はいかがです?」
「大丈夫よ。今の鐘は?」
「三と半の鐘ですわ」
「ずいぶん寝坊しちゃった。起きてもいいですか?」
「アルフレデリック様から、お昼までは寝台にいるようにと」
「あと半鐘ね」
フォセットは朝食の用意のために離れて行った。
ふぅ、とディアヌローズは息をついた。アルフレデリックから癒してもらっても、身体の芯に疲労が残っている。それはたぶん肉体的な疲労ではなく、精神的なものだ。熱がすぐに引いたのも、移領がすぐには無理だとわかったからだろう。我ながら打算的な精神に呆れた。
寝台で軽い朝食を済ませ、背に挟んだクッションに身を預けて庭を眺める。
四の鐘を待っていたが、しまいにとろとろと微睡んだ。
──……ズ。ディ……ローズ……ディアヌローズ。
頭の中に直接届いた呼びかけに、はっと目を開けた。聞き覚えのある声だった。
見回した視線の先に見知った姿を見つける。
──プトー!
拉致された時に森のアジトで出会った、屋敷精霊のプトーだ。寝台のきわに立っている。服装もあの時と同じ。茶色がかった灰色の貫頭衣と、脛丈のズボンだ。
眠気も吹き飛んで、ディアヌローズは一気に問いかける。
──元気だった? 一人で来たの? マノワは?
気圧されたようにプトーは一歩後ずさった。
──オレは元気だけど……あんたは?
──ちょっと熱が出たの。もう下がったわ。
──ならよかった。
……マノワ様が連れてきてくれたんだ。
けど、オレだけで話せって、マノワ様は帰っちまった。
あんたによろしく伝えてくれって……。
──そう。マノワはまだ忙しいのね。残念だわ。
ディアヌローズはしょんぼりと肩を落とした。
──そんなにがっかりしないでくれよ。
プトーはそう言うと、顔をやや俯けた。額を摩りながら、急にぶつぶつ独りごとを言い始めた。
──……オレどうしたらいい? ……教えてもいいのか?
口止めされてないよな。言ってもいいってことかな……
何事かと小首を傾げるディアヌローズをよそに、ひとしきり独り言を繰り返したプトーは顔を上げた。
──今、マノワ様とオジェ様はオレたちを使って城下中の建物を調べてるんだ。
ほら、あんたが閉じ込められた場所をオレ達すぐに見つけられなかっただろ。
おふたりが言うには、それは屋敷精霊の……何て言ってたっけ……な、なお……
──名折れ?
──そう! 名折れだって。
もしまたあんなことがあっても、次はすぐに見つけるって。
もうあんたに怖い思いをさせない、って言ってた。
──えっ!?
ディアヌローズは目を瞠る。
拉致されたのは自分のせいだった。救出においてはアルフレデリック達に多大な迷惑をかけ、屋敷精霊たちも城下の捜索に力を貸してくれた。マノワが責任を感じる必要なんてどこにもない。
なのに、忙しくしていたのは自分のためだったなんて──。
──マノワ、ううん。屋敷精霊たちはわたしを探すのを手伝ってくれたわ。
城下は広いのでしょう? 簡単に見つけられるわけない。
気になんてしなくていいの。する必要もない。
これ以上、わたしのために屋敷精霊たちに迷惑をかけられない。
止めるようにとマノワに伝えて。
プトーが言えないなら、わたしからマノワにお願いするわ。
──まった、待った。ちょっと待ってくれよ。
そんなことしたら、オレがあんたに話したってわかっちまうじゃないか。
頼むからそれだけは勘弁してくれよ。
焦ったように前のめりになって、プトーは必死に言い募った。
──プトーから聞いたって言わないわ。
──オレのほかに、誰があんたに教えるのさ。
プトーは恨みがましい目でディアヌローズを見た。
ディアヌローズは小さく嘆息する。
──……確かにプトーの言うとおりね。
──約束だぜ。本当に言わないでくれよな。
オレ、こんなことのためにマノワ様に連れてきてもらったんじゃないんだからな。
ディアヌローズはきょとんとする。
──会いにきてくれたんでしょ。違うの?
──そうだけど、……それだけじゃないんだ……。
ぼさぼさの茶色い頭を掻き、灰色の瞳を落ち着きなくうろうろと彷徨わせながらプトーは言った。
暫くすると大きく息をはき出して、まっすぐディアヌローズを見上げた。身体の前で握り合わせた両手は小刻みに震えている。
──……悪かった。
あんたが死にそうな目に遭ったのはオレのせいなんだ。
あんたらがアジトから出てった後、オレはすぐ報告に行かなかった。
扉を作ったのをうじうじ後悔してたんだ。
プトーは顔を俯けた。
思わずディアヌローズは唇を嚙む。
あの時、拝み倒すようにして渋るプトーに扉を作らせた。犯人たちに殺される前にアジトから脱出しようと必死だった。他に方法はなく、プトーだけが頼りだった。
でも結果、プトーを苦しめている──。プトーの後悔は自分こそがすべきもの。ディアヌローズは強く思った。
──プトーのせいじゃないよ。
嫌がるプトーに、わたしが無理やり扉を作らせたの。
プトーはわたしの願いをかなえてくれただけ。気にしなくていいんだよ。
それに、ちゃんと報告してくれたじゃない。
だからわたしは助け出してもらえたの。みんなもね。
プトーのおかげで、今こうして生きていられるの。
だから後悔なんてしないで。プトー、ありがとう。
見る間にプトーの目から涙が溢れた。ぽたぽたと顎を滴っていく。
その様子を目の当たりにして、ディアヌローズは心が痛んだ。
──ごめんね、プトー。辛い思いをさせて……。
少ししてプトーは目許を乱暴に袖でぐいと拭うと、赤くなった目を細めて恥ずかしそうに笑った。
──オレ……あんたに出会って、ようやっと覚悟できたんだ。
放浪をやめる。これからは屋敷精霊の役割を果たすよ。
だから、あんたに誓いたいんだ。屋敷精霊プトーとして。
プトーは表情を引き締めて、ディアヌローズの傍まで歩んできた。
恭しくディアヌローズの左小指を掲げ、自身の額につけた。
ディアヌローズは呆気にとられた。
身動ぎすらできないまま、自身の小指で行われているプトーの行いを見つめた。
プトーは小指を額につけたまま、ディアヌローズの知らない言葉を唱え始めた。
その言葉は以前、マノワが加護を授けてくれたときと同じ言葉のようだった。
祈りを捧げるようにプトーは言葉を紡ぎ、やがて額を離した。
その額と小指の間に、ディアヌローズは光を見る。
光は離れるほどに細く伸び、まるで蜘蛛の糸のようだ。
朝露のごとく煌めいている。
最後の言葉を終えると、額と小指を結んでいた光の糸は両端からはらりと離れた。
そのまま両端から縮まっていき、とうとうふたりの真ん中で小さな光の玉になった。
マノワの加護よりもうんと小さな光の玉は、水晶のように澄んでいる。
光の玉は螺旋を描いて上昇し、ふたりのちょうど真ん中で滞空した。
その刹那、光の玉は花が綻ぶように解けた。
きらきらと光の粒がふたりに降り注ぐ。
清廉な光だった。
その光をディアヌローズは掌で受けた。光は掌に触れては消えてゆく。
やがて最後のひと粒も消え去った。
──きれいね。プトー、あの光は何?
マノワの授けてくれた加護に似ていたわ。
──マノワ様の加護とは別ものだ。
あれはオレの誓い。あんたに捧げる誓いだ。
──捧げる誓い?
──ああ。……じゃあ、オレは行くよ。
またな、ディアヌローズ。
──ま、待って。ちゃんと教え……
話し終わらないうちに、プトーは姿を消した。
プトーへと伸ばした手を下ろし、ディアヌローズはプトーの消えた場所を見続けた。




