薔薇(1)
薔薇はまたたく間に艶を取り戻した。
すべての花弁がたった今摘んだばかりのように瑞々しく変化していく様は、さながら水面の波紋が広がるようだった。
変化は茎にも及び、切り口から伸びていく茎からは葉が生え、根を伸ばし始めた。
その様子を、ディアヌローズは瞬きすら忘れて茫然と眺めた。
「手を離せ」
アルフレデリックがディアヌローズの手を掴んだ。
我に返ったディアヌローズは、アルフレデリックに引かれるまま手を離した。
ディアヌローズの膝から、アントナンが薔薇を魔方陣ごと手にして応接卓に置いた。
低く厳しい声でアルフレデリックは訊ねる。
「魔力を動かしたのではあるまいな」
混乱したまま、ディアヌローズはふるふると頭を振った。胸の内側を激しい鼓動が叩く。手が震えた。
対面の席からミゼリコルドが問う。
「祈ったのではないか?」
「……心なしか艶を失ったようでしたので……元気になって欲しいと願いました。──でも、どうして……」
ディアヌローズの背に回ったコンスタンティンが、ディアヌローズの頭を優しく撫でた。
「君の一族に備わる力だ。──やはり庭にある果樹の豊かな実りはディアヌローズ、君だったようだね。願ったのだろう?」
確かに願掛けをした。それでも信じられない気持ちが強い。ディアヌローズは身体を捻ってコンスタンティンを振り仰いだ。
「実りが悪いと伺ったのです。ですから獣たちが飢えないようにと……」
ミゼリコルドは相鎚のように頷いた。
「あの実りほどであれば洗礼前でもありうる。だが花に現れたような目に見える変化は、本来、洗礼前ではありえぬ。おそらく、フェニールの影響で能力が飛躍的に伸びたのであろうな」
言い終えると、白銀の長い顎鬚をていねいに整えた。
「さてどうするか」とコンスタンティンは動き出し、ミゼリコルドの隣にどかりと腰を下ろした。項で束ねた蒼銀の髪が勢いよく跳ねた。
束の間、ひじ掛けを指先でトントンと叩いた。
「この能力を知られてはならぬ。また攫われる危険性が高まる」
「わたくしの両親が命を落としたのは、この能力が原因なのですか?」
「明確には判明していないのだよ。だから否定も肯定もできない。それに希少な能力ではあるが、唯一の能力というわけではないのだ。だが、用心するに越したことはない。──アルフレデリック、封じる魔術具を早急に作ってくれ」
アルフレデリックが了承する中、ディアヌローズは小首を傾げる。
「封じる魔術具?」
「迂闊な其方がうっかり願ってしまったときに、効果が現れないようにするための魔術具だ」
言うなりアルフレデリックは薄く整った唇の端を僅かに上げ、冷ややかにディアヌローズを見下ろした。
ディアヌローズも負けじと貝紫の瞳で見返す。
「杖や守護石も魔術具ですか?」
「杖は魔法具だ。魔法具は神から賜る。対して守護石は魔術具。人の技術によって作成する道具だ」
ディアヌローズは祖母から贈られた耳飾りに触れた。ならば砕けた守護石は祖母が作り、自分を護ってくれたということ。知ってしまえば守護石を失った哀しみよりも、祖母の守護石が護ってくれた喜びが勝った。守護石を作っている時、祖母は間違いなく自分のことを想ってくれていたはずだから。
砕けたのは守護石で、思い出は壊れても失われてもいないのだと漸く思えた。
コンスタンティンは足を組むと、ディアヌローズを緑柱石の瞳で見据えた。
「ディアヌローズ、この能力はエレオノールにも知られてはならぬ」
「エレオノール様に隠し事はしたくありません」
「いくら其方に優しくとも、エレオノールは他領の者だ。エレオノールが公言するとは考えていないが、それが綻びとなるやもしれぬ。もしまた攫われたとして、救出が成功する保証はない。死傷者だって出るかもしれないのだ。分かるね?」
ディアヌローズは反論の言葉を持たず、押し黙ったまま俯いた。皆をはじめ、精霊の助力を得て自分は助け出された。森では魔獣にも襲われて、一歩間違えればみんなが命を落としたかもしれなかった。
コンスタンティンは話を続ける。
「領事棟にいては他領に知られる危険が増す。だからディアヌローズ、君にはランメルト領に移ってもらう」
受け入れがたい言葉に、ディアヌローズは弾かれたように顔を上げた。見開いた目を縋るようにコンスタンティンへと向けた。
コンスタンティンは変更はないと言わんばかりに、大きく首を振る。
「領地での調査が終わっていないのでは?」アルフレデリックが尋ねた。
「領地での片が付き、受け入れの準備が整い次第、ディアヌローズは領地へ移す。これは決定事項だ」
アルフレデリックは諭すような声で、隣のディアヌローズに告げる。
「諦めよ」
ディアヌローズは膝にのせた手をぎゅっと握りしめた。もう決定が覆らないのであれば、叶えたい願いがある。
もう一度、コンスタンティンをまっすぐ見た。
「どうか、レミとエマに会わせてくださいませ」
「ならぬ」
予期していないアルフレデリックから声が上がり、ディアヌローズは驚いて隣を向いた。
「契約を交わしている。契約に触れれば、あの者たちは命を失う。会わぬ方がよい」
契約とは、おそらく森のアジトでレミが教えてくれた話だろう。もちろんディアヌローズとしても神の家の子ども達に迷惑をかけたくはない。けれどどうしても二人のその後が気になった。
「せめて近況を教えてくださいませ」
「近々、施与の馬車を向かわせる。そのときに様子を見てこさせよう」
「ありがとう存じます。──できることなら、フロラント商会のクロエにもお礼を伝えたいのです。叶えていただけませんか?」
「──其方の拉致を報せた者か。いいだろう。フォセットに話しておく。構いませんね、父上」
コンスタンティンが許可し、ディアヌローズは重ねて礼を述べた。
ミゼリコルドが応接卓に置かれた薔薇を一瞥して声を上げる。
「そろそろ花を植えたほうがよい。名も付けなくてはな」
ミゼリコルドの提案に、手際よく鉢が用意されて植えられた。
「この花の名を憶えているか?」
アルフレデリックに問われ、ディアヌローズは眉尻を下げた。
転移してきたあの日、月詠家聖堂の控室で、祖母からこの薔薇の名を『奏』にすると言われた。冗談でも嫌だったので、『ディアヌローズ』にしたいと申し出た。結果、却下されたが再考する猶予をもらった経緯がある。だから正式にはこの薔薇にまだ名前は無い。
「『ディアヌローズ』、わたくしの名が花の名でした」
「紛らわしいな」
アルフレデリックが眉を顰めた。
するとコンスタンティンが言う。
「君はもともと『シェリール』なのだから、君が『シェリール』に戻ればいい」
耳に馴染んだ名前を、ディアヌローズはいまさら変えたくはない。
「あの、『ローズ』でもよろしいですか? もともと『ディアヌローズ』は、『ローズ』と言う花の『ディアヌ』という種類なのです」
アルフレデリックの眉間の皺が深くなる。淡い金の目を細め、頤を親指で摩った。
「其方は『ローズ』にわざわざ『ローズ』と付けたのか?」
「……」
既視感のある話だ。ディアヌローズは祖母との会話を思い出して、懐かしさに胸が痛くなった。
「まあよいではないか。ディアヌローズの花なのだから好きにさせてやればよかろう」
ミゼリコルドの一声で、花の名は『ローズ』に決まった。
ディアヌローズは鉢に植えられた薔薇を眺めた。
厳冬の月にも似たほの蒼い白薔薇は、気高く、清ら。
修了試験のあの日のまま──。
『何とかきょうに間に合ったわ』と、祖母は言った。
あのときは単純に、奏が月詠家の成人となる晴れの日に間に合った、という意味と受け取った。
だから、名前を『奏』にすると。
けれど今改めて考えてみると、祖母の言葉はどういう意味だったのか。
この薔薇に、なにか秘密があるのだろうか。
この薔薇を育てていれば、祖母の言葉の意味がわかるだろうか──。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
夜、ディアヌローズは久しぶりに祖母の夢を見た。
祖母は奏がディアヌローズのように幼い頃、添い寝はしてくれなかったけれど奏の隣で寝台の飾り板に凭れて、たくさん話をしてくれた。それは本であったり、月詠家の話であったり、時には祖母の創作話だったり。
目を瞑らないとお終いにしますよ、と言って。
その時と同じように、この夢の中の祖母も話をしてくれる。
名を呼ばれる度に胸の中が熱くなり、心の最奥で眠る奏が喜んでいるのが分かった。
時折り柔らかく頭も撫でてくれるので、懐かしい温もりに思わず涙が零れてしまう。その涙を祖母は優しく拭ってもくれるのだから嬉しくて堪らない。
手を伸ばせば、祖母は手を繋いでくれる。迷わずその手を頬に寄せた。
殆ど忘れてしまっていた温かさを、愛情を、忘れないようにと心に染み込ませた。
淋しさでかさかさに乾いた胸の裡が、安らぎで満たされていく。
この夢が永遠に続きますように、と祈った。
やがて眠さに抗えなくなって意識が沈みはじめ、夢の終わりが近いと理解した。
別れの刹那、祖母の言葉が耳にとどく。
「いつか会える日が必ずやって来る。だから負けてはダメよ」
「行かないで」と縋りつきたいのに、もう口さえも動かせない。
頭の中でだけ、その言葉を絶え間なく紡いだ。
ただただ涙が零れた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
瞼の向こうが明るくて、ディアヌローズは緩慢に目を開いた。
誰かが自分を見ている。なのに、誰なのかが判らない。
ぼんやりとして、微睡みの直中にいるような曖昧さ。
二度三度と瞬きを繰り返す。
白金の髪を撫でるように梳かれた。けれど祖母とは違う。
「おはようございます」その人は言った。
この声を知っている、と思った瞬間、頭が冴えわたった。
「おはようございます、フォセットさん。あのね、──お祖母さまの夢を見たのよ」
「まあ、よろしゅうございましたわね」
フォセットが慈愛のこもる眼差しで微笑んだ。ほんわりと笑窪が浮かぶ。
ディアヌローズははにかんで目を伏せた。
「ええ、とても。──とてもね」
ディアヌローズは胸に手をあてた。淋しさはあるけれど、温かいもので満ちている。身体も軽かった。何よりも、祖母の温もりを思い出せたことが嬉しかった。
ふと、祖母の夢はフォセットだったのかもしれない、との考えが頭を過った。
それでも胸の内に満ちた温かさは愛情そのもので、祖母を思い出せたことに変わりはない。
いつか本当に祖母に会えるだろうか。会えたらいいなと思う。
もしかしたら、それは生を全うした神の領域かもしれない。
それならそれでも構わない。会えるのなら。
少なくともこの愛情が枯れない限り、けして負けたりしないと強く思った。




