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イストワール国~その花の名を私は知らない~  作者: 天音蓮
第三章 事件編

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額の痣(7)

誤消去した一文を追加しました。申し訳ありません。

 ディアヌローズは身体中の血が下がっていくようだった。血に合わせて痺れも下りていき、身体が内から冷たくなっていく。膝の力が抜けて、がくりと人形のように崩れた。


 膝を床に打ちつける寸前のディアヌローズを、ベアトリスが抱きとめた。長椅子に掛けさせると、ディアヌローズの顔を覗き込むようにして目を合わせた。


「大丈夫ですか? どうされましたの?」


 尋ねたベアトリスの顔も蒼白だ。

 だがディアヌローズに気付く余裕はなく、問いすらも耳には入っていない。ひたすら胸の内で、『砕けた』と、その言葉だけが響いていた。




「どうした? 何を騒いでる?」

 部屋を訪れるなり異変に気付いたアルフレデリックが足早にやってきて、訊ねた。


 ベアトリスが事の成り行きをアルフレデリックに報告した。

 アルフレデリックは周囲を見渡す。常に不調のディアヌローズに寄り添っていた、フォセットの姿を探した。


「フォセットはどうした?」

「休みをいただいて、領地に帰っております」


 アルフレデリックは僅かに眉を顰め、ディアヌローズの肩に手を置く。ディアヌローズ、と声をかけた。


 はっとしたように、ディアヌローズはアルフレデリックを見た。


「耳飾りの魔石は、其方を護って砕けたのだ」


 静かな声だった。努めてゆっくりと語りかけたアルフレデリックの言葉は、混乱するディアヌローズの心に凪のように広がった。一言ひとことを、初めて教わる言葉のように受け止め、意味を理解していった。


「……わたくしを、護って?」

「そうだ。バンに襲われた時、バンをめがけて、耳飾りから魔石が飛んでいっただろう?」


 ディアヌローズは当時の記憶をたぐり寄せる。


「──急に尻もちをついたり、持っていたナイフを弾かれたように落としたことがありました」

「おそらくその時だろう。あの魔石は守護石だ。守護石が其方を護ったのだ」

「だからわたくしは……アルフレデリック様に助けていただくまで命を繋ぐことができた、と?」

「そうだ。──守護石はみごとに役目を果たしたのだ」



 ディアヌローズはアルフレデリックの言葉を反芻する。何度も。何度も。そして繰り返す度に、祖母は《奏の世界》の住人ではないと思い知らされた。祖母の贈ってくれた耳飾りには、守護石が嵌められていた。よくよく思い返してみれば腕環にだって、ウルラが控えた……。

 やはり神があてがった人だったのだ──。

 祖母との大切な思い出は確かにあるけれど、そこには秘密があった。自分は秘密の中で、虚偽の中で育てられ、過ごしていた。信じがたい事実が心を抉る。頭を、心を俯かせた。



 きわめて事務的に、アルフレデリックが言う。

「守護石は消耗品だ。新たな守護石を私が用意して、元の台座に嵌めてある。調整をするから耳につけなさい」


 ディアヌローズの心をよそに、ベアトリスによって耳飾りはつけられた。アルフレデリックがディアヌローズの耳元で調整を始め、すぐに終わった。


「これでよい」

「……ありがとう存じます」


 翳りのある目で、ディアヌローズは儀礼的な返事をした。

 アルフレデリックは嘆息する。


「思っていることを言いなさい」

「……何でもありません」

「皆が心配している」


 ディアヌローズは、我に返ったように顔を上げた。ベアトリスの顔色やみんなの表情に気付いた。みんなに迷惑や心配をかけないと誓っていたのにと、後悔した。


「心配をお掛けして申し訳ありません。……大切な耳飾りだったので、哀しくなったのです」

「言っただろう。守護石は消耗品だ」


 アルフレデリックには理解してもらえそうにない。ディアヌローズは思う。でも自分の感傷でみんなを困らせてはいけないと、むりやり口角を引き上げた。


「──はい」

「理解したならよい。──きょうの散歩は取り止めだ。ベアトリス、お茶を」


 みんなが仕事を再開する中、ディアヌローズは改めてベアトリスに「驚かせてごめんなさい」と詫びた。



 アルフレデリックはディアヌローズの隣に腰を下ろした。

 淡い金の瞳をディアヌローズに向け、声を潜めて尋ねる。

「耳飾りの台座はそのままだ。何も変えておらぬ。それでも気になるか?」



 ディアヌローズは驚きを隠せない。気にかけてくれることが意外だった。アルフレデリックに祖母について話すのは勇気が要るけれど、いまのアルフレデリックなら祖母の話をしても否定したりしないだろうか。


「──あの耳飾りは、祖母が贈ってくれました。祖母が護ってくれたのですから、それは嬉しいです。けれど、あの耳飾りは祖母との大切な思い出の品でした。それが砕けてしまったのです。ひとつ、また一つと思い出の品が失われていくのは耐えられません。祖母との思い出が、どんどん遠くなってしまうのですから……」



 アルフレデリックはおもむろに立ち上がった。飾り棚にある玻璃(ガラス)のドームを手にして戻り、ふたりの間に置いた。


「これは魔力さえ与え続ければ永遠に残る」



 玻璃の中の薔薇を、ディアヌローズは貝紫の瞳で見つめた。


 修了試験のあの日、月詠(つくよみ)家の聖堂控室で、祖母がこの薔薇を髪に挿してくれたのだ。新種であるこの薔薇を、祖母は《奏》と名付けると言った。自分の名をつけられたくなくて、《ディアヌローズ》にしたいと提案して却下された。


 そんなやりとりの最中に、奏の髪から薔薇が一輪抜け落ちた。祖母はその薔薇を拾い上げて、慈しむように撫でていた。


 その光景が、鮮明にディアヌローズの脳裏に浮かんだ。自分が最後に祖母から撫でてもらったのはいつだっただろうか。数えきれないほど撫でてもらったのに、その手の温もりをもう上手く思い出せない。


 祖母は薔薇を摘むと、必ずその摘み取った薔薇をそっと撫でていた。

『命を摘み取ってしまうのだから、感謝を込めているのよ』と言って。

 だからこの玻璃の中の薔薇も、まちがいなく祖母が撫でている。この薔薇に触れたなら、祖母の温もりを思い出せるだろうか。


「わたしも、この手で触れたい……」


 我知らず、ぽつりと落ちた。小さな手で玻璃を撫でる。硬く冷たい玻璃の向こうにある、薔薇の手触りさえ思い出せなかった。


 見ている玻璃の中の薔薇が、みるみるうちに涙で歪んだ。涙を零したくなくて上を向いた。


 祖母は薔薇に愛情を注いでいた。それ以上に、奏に恩愛や慈愛といった柔らかな愛情を溺れるほど注いでくれた。──奏は幸せだった。


 果たして、その幸せは本物だったのだろうか──。

 不安な心に疑念が爪を立てる。引き裂かれて、幸せが撒き散らされてしまいそうだった。


 笑顔でいたい。笑顔でいなければ、またみんなを心配させて困らせる。過去を今更あれこれ言ったところで変えられるわけでもなくて、まるで子供の駄々のようだと分かっている。

 なのにディアヌローズは心を持て余してしまって、自分ではどうすることもできない。哀しみの深淵にかかった爪先が、引き込まれていくようだった。


 額が急に疼いた。身体の中を、どくどくと脈打つように何かが流れていく。今までにない激しい痛みに、とっさに身体を折り曲げた。


 弾かれたように、玻璃のドームが長椅子から落ちた。

 淡黄蘗(うすきはだ)色の石床で、硬質な音を立てて割れた。

 中にあった薔薇は、割れた玻璃の欠片の中に埋もれた──。


 それは、まるでスローモーションのようだった。

 ディアヌローズは苦痛に顔を歪めながら、目前の光景を為すすべなく見ているしかできなかった。


「……い……や……。いや。……嫌よ」

 身体を折り曲げたまま、手を伸ばした。



「触ってはならぬ」

 アルフレデリックの厳しい声が飛ぶ。


 伸ばされたディアヌローズの腕をアルフレデリックはすかさず掴み、身体ごと抱き抱えた。

 ディアヌローズの白金の前髪をはらって額を確認する。

 紋様が今までになく、はっきりと現れていた。


 アルフレデリックは眉間に深い皺を刻む。

 ブラスク、と風の精霊を呼び出した。


 空中に、風を孕みながらブラスクが現れる。


「父上と導師に、『至急、おいでください』と伝えよ。くれぐれも他者に聞かれぬように」


 一陣の風とともにブラスクは消えた。


 それからアルフレデリックは、控えていたアントナンを呼び寄せた。

「花を魔方陣に」


 アントナンは玻璃の欠片の中から魔方陣の刺繍された敷き布と花を慎重に取り出し、薔薇を魔方陣に載せた。



 厳しい表情を崩さないまま、アルフレデリックはディアヌローズに語りかける。

「ディアヌローズ、聞こえるか? 花は無事だ」


 ディアヌローズは脂汗を滲ませて、顔を歪めるだけだった。



 慌ただしくコンスタンティンがやって来て、扉が閉まる寸前でミゼリコルドも到着した。



 ちょうどその時、ウルラが庭から窓の玻璃をすり抜けて部屋に戻ってきた。ディアヌローズとアルフレデリックの頭上を旋回したのち、止まり木に舞い降りた。

 緊迫する室内に、青い森の薫りが匂い立った。


 ウルラは部屋に漂うただならぬ様子を気に留めるでなく、真っ白な羽の手入れを始めた。

 ひととおり手入れを済ませたウルラが、聲を上げる。


(なれ)、手遅れになるぞ』


 ディアヌローズを除く全員が、ウルラに注目した。






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