額の痣(6)
アルフレデリックは、ディアヌローズの部屋扉の前に着いた。側仕えのラファエルが小鐘を鳴らそうとする手を止め、扉を護る護衛騎士のオードレイに取次ぎをさせた。
間を置かず出てきたベアトリスは静かに扉を閉めて、アルフレデリックに恭しく礼を執った。心配そうに顔を曇らせているベアトリスの様子が、事態の深刻さを告げている。
「フォセットより指示を受けております。次の間に控えておりますので、ご用がお済みになりましたらお呼びくださいませ」
アルフレデリック一人だけが、中に入った。
部屋には梟のウルラと瑠璃色の小鳥のビジュだけで、ディアヌローズは見あたらない。だが春の穏やかな陽が入る部屋の中にあって、帳のすべて閉じられた寝台が目に留まった。寝台へと向かう。
帳に手を掛けたアルフレデリックは、一旦その手を止めた。中からくぐもった、声にもならない音が微かに漏れてくる。耳をすませば、それは間違いなくディアヌローズの声で、やはりフォセットの言葉どおり、眠っている訳ではないようだった。
ほんの僅か、アルフレデリックは帳を開ける。中は薄暗くてよく見えないが、音はよく聞こえるようになった。おそらく痛みを堪えているだろう声のほかに、頻繁に寝返りを打っている音がする。
やがて目が慣れて中を窺えば、ディアヌローズはすっぽりと夜具に潜っている。アルフレデリックは音を立てないよう、慎重に帳を開いて中に入り、枕元まで忍び足で歩んだ。夜具の小山はうごうごと動いており、おそらく痛みが楽になる体勢を探しているのだろう。想定よりも、ディアヌローズの症状は悪化しているようだった。
その小山をアルフレデリックは眺める。
ディアヌローズのもとに訪れないことを、アルフレデリックはフォセットから咎められた。だが、果たしてディアヌローズは己のことなど気にしたりするだろうか。確かに怖がらせた自覚はあるが、であれば顔を見せない方が喜ぶだろうに。それとも症状が悪化するほど怖がらせたということなのか。
もしも本当に己のせいであるならば、その後始末をするしかないだろう。──面倒なことだ。
アルフレデリックは、もともと他人とは距離を置いてきた。私事で他人のことを深く知りたくもないのは勿論、己のことを知られたくもないし、知ってもらいたいとも思わない。他人が己のことを見当違いに評しようが、職務に支障が出ない限り放置してきた。
なのにディアヌローズから孤児への蔑みについて問われた時、アルフレデリックは我知らずディアヌローズを糺していた。理由はアルフレデリック自身にも分からない。ただディアヌローズが絡むと、アルフレデリックは調子を狂わされることが思いのほか多かった。
アルフレデリックはゆるく頭を振った。小山に向かって呼びかける。
「ディアヌローズ」
くぐもった声は止み、夜具の小山もぴたりと動かなくなった。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
アルフレデリックに名を呼ばれ、ディアヌローズは夜具の中で動顛して固まった。アルフレデリックは間近にいるらしく、慌てて息を凝らす。息継ぎの呼吸がやたらと熱く感じた。知られたくなかったのに潜めていた声を聞かれてしまたっだろうか。声を掛けられるまでの身体中を突き刺すような痛みが、いまは殆どわからない。なんて皮肉なことだろう。
このままじっとしていたら、眠っていると思ってくれないだろうか……。ディアヌローズがそんなことを考えていた時だった──。
「起きているのだろう?」アルフレデリックが尋ねた。
アルフレデリックの来訪目的が分からず、ディアヌローズは戸惑った。会って、もう一度きちんと謝罪したいとは考えていた。でも、今は止めておけと本能が尻込みする。覚悟の決まらないまま謝罪して、またあの時のような凍てつく声を出されたら、心が芯から凍えて二度と立ち直れそうにない。
アルフレデリックが言葉を重ねる。
「──フォセットが私の処に来た」
どきりと、ディアヌローズの心臓が跳ねた。フォセットにも知られてしまった、ということだろうか。
──心配を掛けたくなくて頑張ってきたのに……。
所詮自分の努力なんてこんなもの。我知らず自嘲の笑みが漏れる。
アルフレデリックは引く気がなく、知られているのなら潜っていても何の意味もない。
ディアヌローズはもぞもぞと夜具から顔を出した。汗をかいた顔や首筋に髪がまとわりついたけれど、直すのも億劫でそのままにする。息苦しさから解放されて、浅い呼吸を繰り返した。
唇から安堵とも嘆息ともとれるような息をアルフレデリックは漏らし、寝台の端に腰を下ろした。
いつもなら椅子に掛けて話すのに珍しいこともあるものだと、ディアヌローズは思う。
アルフレデリックは自身の手許を見ながら尋ねる。
「フォセットが云うには、私が顔を出さないことを其方が気にしている、と。……そうなのか?」
手許に視線を落としたままでいるアルフレデリックの横顔に向かって、ディアヌローズは返答する。
「……もう会ってはいただけないと思っておりました。わたくしにお怒りでしょう? アルフレデリック様の矜持を傷つけてしまいましたもの……」
沈黙がおりた──。
やはりそうなのだ、とディアヌローズは思う。唇を噛んで身動いだ。
するとアルフレデリックは小さく息を吐き、重い口を開いた。
「──私は、他人が私のことを誤解や曲解しようとも、職務に支障を来たさない限り正そうとは思わない。勝手に思っていればよいと、そう思っている。──もともと私は……己について語ることを好まぬ。だが此度ばかりはそうもいかないようだ……」
日頃の淡々と語るアルフレデリックの口調は鳴りを潜めていた。
脇卓の灯りは消え入りそうに小さく、ディアヌローズからではアルフレデリックの表情は薄ぼんやりとしか見えない。けれど多分、とても困った顔をしているのだろう。おそらく灯りだって、わざとそのままにしたのだ。
歯切れの悪い口調のまま、アルフレデリックの話は進む。
「あの時、……其方に問われた時、私は自分に腹を立てたのだ。己にそのように思わせる要素があると、それが許せなかった。……だが、其方に辛く当たったのは私の失態だ。其方は何も悪くない」
そう言ったアルフレデリックは、ディアヌローズに顔を向けると目を合わせた。
「……すまなかった。──身分を振りかざす領地の方が多いのだ。其方が疑問に思うのは当然だった。其方は間違っていない」
ディアヌローズは目を丸くする。アルフレデリックが謝るなんて思いも寄らず、戸惑いを隠せない。フォセットがアルフレデリックに何か言ったのだろうか。自分が言われたように──。
「フォセットさんから、アルフレデリック様は公平な方、と窘められました。わたくしがアルフレデリック様のお話を正しく理解できなかったのがいけないのです。申し訳ございませんでした」
「フォセットが?」意外そうな声を上げた。
「はい。──合わせて、身分を弁えることもご教授いただきました。高位であるほど重責を担わなければならないと」
アルフレデリックの口角が僅かに上がり、纏う気が柔らかくなった。
「フォセットも容赦のない。昔から教える機会を逃さぬ。けして忘れないだろうという時を見定める」
ディアヌローズは苦笑する。「はい。けして忘れないでしょう」
徐に立ち上がったアルフレデリックは脇卓の灯りを大きくすると、こんどは寝台脇の椅子に腰を掛けた。
ディアヌローズは髪の乱れを思い出し、横になったまま怠い腕を持ち上げて髪を撫で梳いていく。
「無理をするな。痛むのだろう? 朝から同じ痛みなのか?」
気遣うような温もりのある声で問われ、本当のことを告げるかディアヌローズは迷った。心配を掛けたくはない。だが、アルフレデリックには包み隠さず報告すると約束してしまっている。ここで嘘をついたら、こんどこそ見放されるかもしれない。それだけは嫌だった。
「……いいえ。昼を過ぎた頃に先ほどのように耐えられなくなるのです。暫くすると今のように痛みが一旦引いて、また夜に耐えられなくなります。──お願いです。どうか皆さんには黙っていてくださいませ」
必死に言い募った。
「皆、気づいている。其方が知られたくないと思っていることも。無理に笑顔を見せていることも。──だからもう、無理をせずともよい」
ディアヌローズは困ったように眉を寄せる。穏やかなアルフレデリックの声は諭すように柔らかく、固い決意がとかされていくようだ。心が負けそうになる。でも泣いた顔ばかりがみんなの記憶に残るなんて、それだけは絶対に嫌だ。
「……みなさんには笑顔を憶えておいてもらいたいのです。たとえ偽物の笑顔であっても、絶やさなければ本物になると、わたくしはそう思うのです」
ふわりと笑んだ。
アルフレデリックは僅かに目を大きくして、つかのま沈黙する。
「──魔力の排出は、額よりも掌からが最も効率がよい。私はいま、治癒を早めるための魔方陣を構築している。あと少しで目途が立つ。故に、それまでは心穏やかでいて欲しい──」
そう言って、アルフレデリックは目を伏せた。長い睫毛が端正な面立ちに翳を落とす。微かに眉根を寄せた。暫くの後、アルフレデリックはディアヌローズを見て話を続ける。
「──以前、闇に溶けようとしたことがあっただろう。あれ以来、私は其方に眠りを授けるのを止めた。だが、このままでは其方の身体は持たなくなる。闇に溶けようとせず、必ず目覚めると誓えるか? 誓うなら、其方にひとときの深い眠りを贈ろう」
酷な話だ。ただいっときの安眠だけで、目覚めれば痛みが待っている。闇に溶ける方がよほど容易い。
アルフレデリックの瞳は揺らいでいて、遣る瀬無さが宿っている。ディアヌローズにはそう見えた。責任を感じているのだ、と思った。そんな必要などないのに。面倒をかけたくない。でも、それ以上に困らせたくない──。
「──誓います」
よかろう、とアルフレデリックはディアヌローズの目許を覆う。
ディアヌローズは深い眠りに落ちた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
アルフレデリックは帳を潜り抜け、想定外の事態に顔を顰めた。あの痛みを耐えるなど大した胆力だ、と感心する。導師が日々治癒に訪れるのは朝、三の鐘の頃。おそらく、導師は額の紋様の様子と目視した体調の差異に首を傾げていることだろう。
出てきたばかりの帳を、アルフレデリックはちらりと見遣る。
儚い笑みだった──。ああいう笑みを、遠い昔にアルフレデリックはよく目にした。
だからだ、とアルフレデリックは思う。言葉が勝手に口をついて出てしまったのは。
希望を抱かせるようなことを言うつもりではなかった。ディアヌローズにはすべての目途が立ってから伝えるはずだった。父や導師、フォセットにも知られないよう努めてきた。にも拘らず、事もあろうかディアヌローズに告げてしまった。
アルフレデリックは深く後悔する。こうなれば是が非でも最速で完成させなければならない。
ベアトリスに声をかけ、アルフレデリックは足早に自室へと戻った。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
五日ほどたった。
あの日以来、アルフレデリックはディアヌローズの痛みが増す頃にディアヌローズのもとを訪れて、眠りを授けるようになった。
ディアヌローズは体調も良くなり、額の包帯も外れた。いまは額の紋様も消えている。
ただ額の紋様がいつまた現れるかわからないので、事情を知るフォセットの手によって前髪が揃えられた。その理由をディアヌローズは知らない。
ディアヌローズは切った髪をテチュに贈るつもりだ。また糸として使ってくれたら、と思っている。
その際には遅くなってしまったけれど、お礼として星の欠片も渡すつもりだ。テチュが森の精霊エリィオンに助力を依頼してくれなければ、拉致された子ども達は助からなかったかもしれないのだ。感謝してもしきれない。
テチュは出会った日から姿を見せてはくれないけれど、呼び掛ければ贈り物は受け取ってくれるので、今回もたぶん大丈夫。
そして、できればテチュにお願いしたい事がある。会いに行くのが難しい森の精霊エリィオンに、星の欠片を渡してもらいたいのだ。それが無理なら、会う方法を教えてもらおうと思っている。
*◇*
さらに数日後、アルフレデリックが完成させた治癒を早める魔法陣によって、ディアヌローズの首の爛れは完治し、掌も随分よくなった。
ミゼリコルドによる額からの魔力排出はいまも続いており、魔力を輩出した魔石が脇卓の小盆に幾つも載っている。その魔石をときどきウルラが食べている。
損傷した魔力腺だけは、残念ながら自然回復を待つよりほかない。
それでも周囲の尽力によってディアヌローズの体調は上向き、寝台から出られるようになった。
エレオノールも時折り来訪してはディアヌローズを喜ばせている。
部屋に漂っていた重苦しさはすっかり消え去り、心からの笑顔で満ちている。
*◇*
ある日、ディアヌローズは止まり木でピュルピュル囀るビジュに向かって、
「一緒に歌いたいわ」と呟いた。
『歌えばよい』
言うなり、ウルラは留まっていた止まり木から真っ白な翼を広げて飛び立ち、小盆にある魔石を一つ銜えると、止まり木にいるビジュに向かって放り投げた。
魔石はビジュに向かって放物線を描いていく。
ディアヌローズが呆気に取られている間に、ビジュはあろうことかその魔石を飲み込んだ。
ウルラはおろおろするディアヌローズを気にもせず、
『早く歌うがよかろう』と、急き立てた。
気まぐれにしか歌わないビジュが、都合よく歌ってくれるだろうか──。ディアヌローズはほんの僅かな期待を胸に、花まつり出発直前にビジュが歌った曲を口遊んだ。
すると────
「ピュー ルー ルー …………♪」
驚きのあまり一瞬途切れそうにななったものの、最後まで一緒に歌い切った。
「ほぅ」と、夢見心地に息をつく。掌が治ったら、ヴィオリナに合わせて歌って欲しい。愉しみが一つ増えた。
「すごいわビジュ。ありがとう。愉しかったわ。ウルラもありがとう」
満面の笑顔で言った。
ビジュは小首を傾げて「ピチュッ」と鳴き、ウルラは『構わぬ』とそっぽを向いた。
*◇*
ついに散歩に出るまでにディアヌローズは回復した。
庭に出る許可が下りたある日、支度をしている時だった。
ベアトリスがディアヌローズに腕環を嵌めて、
「さあ、お仕度が終わりました」と言った。
「耳飾りがまだよ」
いつも完璧なベアトリスにしては珍しいと、ディアヌローズはベアトリスを見上げた。
するとベアトリスは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「耳飾りはお嬢様をお護りして、魔石が砕けてしまいましたの。それで──」
あとに続く言葉は、ディアヌローズの耳には入らない。
砕けた、とその言葉だけが谺のように、いつまでもディアヌローズの耳に響き続けた。




