額の痣(4)
執務室の扉が開かれてアルフレデリックが姿を見せた途端、コンスタンティンは手を上げた。隣にはミゼリコルドの姿もある。アルフレデリックは足早に二人の待つ応接卓へと向かう。
「戻りました」
二人に礼を執り、コンスタンティンの対面に腰を下ろした。
「どうであった?」コンスタンティンが問う。
「危惧したとおり、申告以外にもディアヌローズは魔力を動かしていました」
コンスタンティンは弾けるように椅子から身を乗り出した。
「問い糺したのか!?」
「額の紋様が消えていましたので」
「それならよいが──」
コンスタンティンは端座し、動かした魔力の程度を訊ねた。
アルフレデリックは頭を振る。
「そもそもディアヌローズ自身が分かっていません。ディアヌローズを庇って拉致犯に斬られた者がおりました。その者を癒そうとしたようです」
「気持ちは分からぬでもないな……」
呟くように、ミゼリコルドは言葉を落とした。
アルフレデリックは眉宇を寄せる。
「愚かな行為です。──庇った者を助けたいと願ったら、掌に熱が集まったと。魔力の自覚すらありません。魔力腺の損傷は、想定をさらに上回っているでしょう。治療方針を変更しなければなりません」
「何とかなりそうか?」コンスタンティンは問う。
「魔力腺の傷み具合と魔力量回復の均衡をとるのは、極めて困難です。厳しいと言わざるをえません」
アルフレデリックは淡い金の目を伏せ、暫し迷いを見せた。再び視線を上げる。
「……ディアヌローズは理解していました。傷ついた魔力腺では、魔力が回復した時には耐えられないことを」
コンスタンティンが瞠目する中、その経緯をアルフレデリックは語る。
「洗礼前は特に、精神状態によって体内魔力量が増減するのはご存じでしょう。──保護して間もない頃のディアヌローズは精神的に不安定で、体調を崩しがちでした。魔力量が多いであろうことは、すぐに察しがつきました」
コンスタンティンが「それで?」と先を促す。
「魔力腺の発達が魔力量の増加に追いつかなくなった場合、治癒魔術ではどうにもならないと教えました。だから極力平静でいるように、と。その一度きりでしたが、憶えていたようです。多少怖がらせておけば、気を付けるだろうと考えてのことでした。──」
ですが、とアルフレデリックは一拍息をついて、話を再開する。
「──それが裏目に出ました。魔力腺が損傷した場合について、あそこまで正確に考察できるとは思いも寄りませんでした。私の落ち度です」
悔いるように目を伏せた。
「普通に生活して魔力腺が損傷するなど、早々起こらんからなぁ……」
お手上げとばかりに、コンスタンティンは椅子の背へと倒れこむように凭れた。
ミゼリコルドは白銀の長い顎鬚を撫で、
「さて、どうするか」と、独り言ちるように口にした。
「魔方陣による魔力の排出が一般的だが……あれではな」
困り果てたようにコンスタンティンは言った。
アルフレデリックは相槌を打つ。
「ええ。魔方陣による排出は、魔力の集まる掌か額。通常は掌で、素肌から直に排出させます。ですがディアヌローズはその掌は左右とも爛れ、額は紋様に影響を及ぼしかねない。八方塞がりです」
腕を組んだコンスタンティンは、眉間に縦皺を刻む。
「血族であれば負担なく魔力を抜けるのだが……」
「今できうる限りをするよりほかはあるまい。──明日は私が診る日であったな。まずは掌の治癒を重点的に施し、紋様が消えているのであれば、額から魔方陣での魔力排出を試みようて」
そう言ったミゼリコルドに、アルフレデリックが「導師……」と言い淀む。暫し逡巡したのち、懸念を口にする。
「──紋様ですが、また現れたやもしれません」と目を逸らし、
「厳しく接してしまいましたので」と、気まずそうに言った。
「必要に迫られてか?」
ミゼリコルドは静かに訊ねた。その声は、岩から染み出る澄んだ水のようだった。何の色も持っていない。責めるでなく、諭すでもない。ただ聴いた者の心に、深く沁み込んでいく。
「……いえ」
「そうか」
たった一言だけ、ミゼリコルドは口にした。だが、けして突き放すような声音ではない。柔らかく、穏やかで、導くような響きがあった。
アルフレデリックは言葉を返さず、深く礼を執る。
その様を、コンスタンティンは黙したまま、緑柱石の瞳で見つめた。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
二の鐘で、ディアヌローズは目を覚ました。一瞬、真っ暗で何事かと身を竦め、そして力を抜いた。昨夜、帳をすべて閉じてもらったのは自分だったことを思い出したからだ。
これまでは、起床の声が掛けられるまでの間、庭を眺めて過ごすのが愉しみだった。その日の天候、季節の移ろい、偶に現れる生き物たちの姿──。朝の光には心が浮き立ち、雨が玻璃を濡らす日にはその音に耳を傾けた。夏の深緑、秋は虫の音、冬には梢で輝く雪の白。そして花が艶やかに咲き誇る春。
でも今は、眠り落ちる前には点いていた脇卓の灯りさえも消え、暗闇だけがある。気の塞がる思いに、我知らず自身の腕に縋って、ぎゅっと目を閉じた。きょうからは、これが日常──。だったら、愉しめる工夫をしよう。
瞼の向こうに、春の花たちを思い浮かべてみる。まずはペルマム。色が幾種類もあるデージーに似た花。中でも特に気に入っているのはエレオノールの瞳と同じ、柔らかな杏色。それから花かんざしのように小さくて可憐な、白花のアンテモ。沈丁花と変わらないダフネ。香りさえも思い出せる。
暗闇の中でも、花咲く光の中にいられる。季節を問わず、その日の天候も関係なく、思い描く景色に身を置くことができる。
──だから、大丈夫。
自分自身に言い聞かせた。
不調をみんなに悟られないよう、迷惑を掛けないようにと、きのう立てた誓いを胸に刻む。
体調だって悪くなく、微かに額が疼くだけ。だから大丈夫、と胸の内に言葉を重ねた。
やがて二と半の鐘が鳴って、帳がベアトリスによって開かれた。本物の、眩い朝の光に手を翳す。笑顔で朝の挨拶を交わし、朝の洗面から朝食までをベアトリスの手を借りて終えた。
突然音もなく、玻璃からウルラが抜けてきた。ディアヌローズの前を旋回し、新しい止まり木に降り立つと、真っ白な翼を畳んだ。
ディアヌローズはすんすんと匂いを嗅いで、「血の臭いがするわ」と眉を寄せた。すぐに失敗したと首を竦める。
案の定、ウルラはむくれたように「フェブルは食しておらぬ」と、そっぽを向いてしまった。
慌ててディアヌローズは言い募る。
「もう疑ってないわ。信じてる。わたしの魔力の代わり、狩りに行ってきたのでしょう? ごめんなさい」
本当のところ、ディアヌローズは臭いも含めて血が苦手である。爛れるからだけでなく、庭で魔獣に襲われた光景や、レミから流れ出た血の感触が思い出されてしまうからだ。けれど自分の都合で魔力をウルラに渡せない今、狩りはウルラにとって命を繋ぐ手段であると重々承知している。
「理解しておるなら、よい」
睥睨するウルラに、ディアヌローズは機嫌を取り結ぼうと試みる。
「その止まり木はウルラに合うようにと、アルフレデリック様が用意してくださったのよ。どうかしら?」
「──よいのではないか」
ディアヌローズは微苦笑を浮かべる。この梟はやはり素直な質ではないらしい。ビジュの止まり木には目もくれなかったのだから、気に入ったのだろうに。何となくその止まり木を用意してくれた人が思い出されて、ディアヌローズは内心でくすりと笑った。声を出して笑ったら、ウルラの機嫌がまた悪くなる、そんな気がした。
昼過ぎ。治癒を施すため、ミゼリコルドがディアヌローズを訪った。
ミゼリコルドはまず首と掌に治癒の施術を行い、最後に額の包帯を解いた。アルフレデリックの懸念どおりに、微かな文様を認める。魔方陣での魔力排出を試すのは諦め、爛れの施術は必要なかったが、形ばかり青い光をあてて再び包帯を巻いた。
包帯を巻き終えたミゼリコルドに、ディアヌローズは貝紫の瞳を向ける。
「額の包帯を外してはいけませんか?」
「そうさな。アルフレデリックは何と言っておった?」
「わたくしがうっかり触って、瘡蓋が剥がれたら痕になると……」
口をとがらせる。
「私も同感だな。可愛い額には痕が残らぬ方がいい。そう思わないかね」
ミゼリコルドに穏やかな口調で訊ねられ、ディアヌローズは不承不承
「……それは、そうですけれど……」と口にする。
ミゼリコルドは青い目を細め、白銀の口髭を動かしてにっこり笑む。
「ならば決まりだな」
優しいミゼリコルドに強請れば包帯を外してもらえる、とディアヌローズは踏んでいた。なのに結果は惨敗。かといってアルフレデリックの時みたいに、反発心は抱いていない。ただ軽くいなされて、納得させられた。
早く目立つ包帯を取り去って、元気になったとみんなに示したい。心配を掛けたくない。その焦る気持ちだけがディアヌローズの心に残った。
その翌日、再びミゼリコルドがディアヌローズのもとへやって来た。
ディアヌローズは訝し気に眉を寄せて、訊ねる。
「きょうはアルフレデリック様の日、ではありませんでしたか?」
「私が其方に会いたかったのだが、アルフレデリックの方がよかったかな?」
悲し気に白銀の眉を下げた。
少々芝居じみている気もしたが、ディアヌローズは「いいえ」と口角を上げる。
アルフレデリックは怒りが収まらないのだろう。それだけ深く、アルフレデリックの矜持を傷つけた。もう会ってはもらえないのかもしれない、とディアヌローズは思った。
ミゼリコルドは額から紋様が消えていることを確認すると、腰の物入れから魔方陣が刺繍された袋を取り出して、それをディアヌローズに見せた。
「これが何か分かるかな?」
ディアヌローズは人差し指を唇につけ、小首を傾げた。白金の髪がさらりと肩を滑る。
「星の欠片を集めた袋と同じ、でしょうか……」
「そうとも。この袋の刺繍は、魔力を吸い出す魔方陣だ。袋の中の魔石に、其方の魔力を移すことができる。通常は掌から行うが、其方はまだ掌が使えぬ。故に、額で試そうと思う。上手くいったなら、その魔石を其方の随獣に渡すといい。さすれば、随獣は狩りに行かずともよくなる」
ぱあっと顔を輝かせて、ディアヌローズはミゼリコルドを仰ぎ見た。もしも上手くいけば、ウルラは不便が解消され、ディアヌローズ自身も負い目が無くなる。
「少しの間、じっとしておいで」
ミゼリコルドはディアヌローズに目を瞑らせる。
片手でディアヌローズの後頭部を支え、もう一方の手で瘡蓋とは反対側の額へと慎重に袋をあてた。十数えるほどで袋を額から離し、また同じ間ほど額にあてるを繰り返した。
その間ディアヌローズは、掌の時よりも格段にむずむずする額のこそばゆさを、必死になって堪えた。
やがて袋からかっと光が放たれ、光はすぐに収まった。
ミゼリコルドの手が離れ、
「見てごらん」と、ミゼリコルドは袋の中身を掛け布の上に出した。
小粒の魔石が三つ。
ディアヌローズがその内の一つを手に取って光に翳してみれば、虹色に鈍く輝いて見えた。
「もっと魔力を籠めれば、光輝くでしょう?」
「無理をしてはならぬよ。随獣に渡すには十分足りておるからな」
ミゼリコルドの許しを得て、ディアヌローズはウルラを呼ぶ。ウルラは掛け布の上にふわりと下りると、あっという間に啄んだ。
◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆
ディアヌローズが助け出されて領事棟に戻ってから、十日ほど経った。
血による爛れは日々順調に回復しているものの、掌の包帯を外すには至っていない。
魔力腺も回復はしていたが、魔力の回復する方が早くて、魔方陣による魔力の排出は追いついていなかった。
加えて、額の紋様が再び現れてもう消えることはなく、ほんの微かではあるが形を取り始めている。それでもミゼリコルドの検証によって、僅かずつの魔方陣による魔力排出は、紋様に影響が出ないと分かった。しかし今以上の魔力排出を試すことは、さすがのミゼリコルドも躊躇った。
もう現状、打つ手がなかった────
ディアヌローズは自らに課した誓いを守り、けしてみんなの前では笑顔を絶やさない。ただ、日に日に増す痛みを堪えるのが難しくなってきて、昼寝と称して帳を閉め切り、ひとり痛みに耐えている。身体を丸めて息を詰め、痛みが引くのをひたすら待った。脂汗が滲み、痛みで漏れそうになる声を、枕に顔を押し付けて堪えた。
領事棟の白い廊下。
フォセットが硬い表情で歩いている。
足を止め、ひときわ重厚な大扉の前で小鐘を鳴らした。




