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イストワール国~その花の名を私は知らない~  作者: 天音蓮
第三章 事件編

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額の痣(3)

軽微な修正をしました。


 重々しい和音の鐘が三度、沈黙の落ちる部屋に響いた。


 ディアヌローズは伏し目がちに、新しい包帯の巻かれた手を見つめる。何から話したらいいだろう。どのように伝えたら分かってもらえるだろう。迷うまま、口を開いた。


「──わたくし……今まで痛い思いをしたのは、せいぜい転んで膝や手を擦りむいたくらいでした」


 アルフレデリックは片眉を上げたが、何も言わなかった。


「冬に魔獣に襲われた時にも、怪我一つしませんでした。皆さんが命を賭して魔獣に立ち向かわれ、盾となってわたくしを護ってくださったからです」


 ディアヌローズは前を向いた。自嘲の笑みを浮かべ、続ける。


「なのに愚かなわたくしは、皆さんがご無事かどうかさえ気が回りませんでした。今回だって……。皆さんは、お怪我されませんでしたか?」首を傾げて、みんなを見渡した。


「あの程度で負傷する者などおらぬ」アルフレデリックは無表情で答えた。


「よかったです。わたくしは地下室で水を呼んだ(ラヴァージュ)際に、玻璃で指を切ってしまいました。……額の爛れは、その指でうっかり触ったからです」


 そう言って、額にディアヌローズは触れた。


「触るな」

 間髪入れずにアルフレデリックは咎め、その話は申告済みだと言った。だが急かす気はないらしい。


 次にディアヌローズは、首の包帯に手をやった。


「ここは、バンの手を解こうとした時。後は、いくつか打ち身があります。それらは確かに痛かったですけれど、大したことではありません」


 淡い金の瞳でディアヌローズをひたりと捉えたまま、アルフレデリックは何も言わない。


 ディアヌローズは胸の前で、自身の両掌を凝視する。


「この手は憶えているのです。友人の命の温かさを。バンの凶刃から身を挺してわたくしを護ってくれた、レミから流れ出る温かい血の感触を。止血のために押し付けた上着が、みるみるうちに血で滲んでいく。命が流れ出ていく。もちろん両掌は爛れ、痛みで怯みそうになりました。でも、それよりも──」


 ディアヌローズは話を切って、アルフレデリックを見た。包帯が幾重にも巻かれたディアヌローズの両掌は、小刻みに震えている。


「──遥かに心が痛かった。誰かが自分のために犠牲になるなんて! わたくしには耐えられません」


「だから魔力を動かしたのか?」


 呪文も知らないのにとお思いでしょうねと、ディアヌローズの顔は泣き出す寸前のように歪んだ。


「──何もせずにはいられませんでした。レミを助けたくて、喪いたくなくて、『治って』と願うほどに、掌には熱が集まりました。あれが()()なのでしょう? でも……わたくしにできたのはそこまででした。……あとはアルフレデリック様がご存じのとおりです」


「なぜ言わなかった?」


 これまで数度、アルフレデリックに伝える機会はあった。けれどその度にディアヌローズは迷い、迷った末に話さなかった。話したところで、どうにもならないと思った。アルフレデリックから教えられた魔力腺のことや、レミが孤児であるが故のことで。



 押し黙るディアヌローズに、アルフレデリックは酷薄な声音で告げる。


「答えよ。私の問いが、分からぬ其方ではないだろう」


 諦念を持ってディアヌローズは笑みを浮かべ、重い口を開く。


「──わたくし、アルフレデリック様から教えていただいたことは、きちんと憶えているのですよ。たまに忘れたりもしますけれど、何かしらの折にまた思い出すのです」


 貝紫の瞳で、真っ直ぐアルフレデリックを見つめた。アルフレデリックは黙して続きを待っている。


「聴取でいらした時、魔力腺について以前より詳しく話してくださいました。──アルフレデリック様、わたくし思い出したのです。省いたことがおありでしょう?」


「──何のことだ?」


「魔力腺の発達が、魔力量の増加に追いつかなくなった場合のお話です。治癒魔術ではどうにもならないと教えてくださいました」


「それがどうした」アルフレデリックの表情は変わらない。


「魔力が回復して、多くの魔力が魔力腺を流れるようになった時、傷ついた魔力腺では耐えられないのですよね?」



 周囲から、息を詰めたのが伝わってくる。


 アルフレデリックは微動だにしなかった。そしてディアヌローズの問いにも、答えなかった。

 沈黙は肯定なのだろう。ディアヌローズは推測が確定され、むしろ気分は晴れやかだった。心配を掛けたくなくて、無理やり口角を持ち上げる。


「……後悔はしていません。やり尽くしてしまったところを、アルフレデリック様に助けていただけました。わたくしは満足です」


「其方は莫迦だ。あの者を救おうとするなど」



 アルフレデリックの言葉が、ずしりとディアヌローズの胸に落ちた。

 ──『あの者を救おうとするなど』……。

 ディアヌローズにとっては行く道の、たった一本しかない隘路を塞ぐ、大岩のような言葉だった。大きくて越えられず、重くて動かせず、迂回路もない。


「レミは命の恩人ですもの。申し上げるまでもなく、アルフレデリック様も命の恩人です。何度も助けていただき感謝しております。お世話になりました。──」


 束の間ディアヌローズは迷い、訊ねる。


「──アルフレデリック様のご友人は、孤児を助けたと驚いていらっしゃいました。拉致された子の中にも、孤児と蔑んでいる者がいました。……アルフレデリック様も、孤児だから、とお思いになりますか?」


 途端にアルフレデリックの纏う気が、険悪なものに変わった。


「いつ私が蔑みの言葉を吐いた? ──先ほどの言は、其方の無謀な行為に対してだ」


 アルフレデリックの淡い金の瞳が、一瞬にして銀を濃くする。


 時が止まった心地がした──。

 ディアヌローズは訊ねたことを悔やんだ。何かを言わなくてはいけない。でも、何を? 焦れば焦るほど、思考は上滑りしていく。言葉がするりと逃げていった。ただただ真っ白となった頭で、アルフレデリックを見つめた。


 どれほど時が経ったのかは分からない。実際はかなりの時が経っていたのかもしれないが、ディアヌローズにとっては精一杯の早さで、謝罪と真意を伝えなければと思い至った。

 心臓が早鐘を打ち鳴らす胸に手をあてて、深く呼吸する。張り詰めた緊張の中、乾いた唇を湿らせた。


「……いいえ。そうでなければと願い、お訊ねしたのです。ご気分を害してしまい申し訳ございません」


「これ以上誤解をせぬよう言っておく。レミとやらの治癒を後にした判断に、孤児であることは関係ない。真に、其方の方が重傷だった」


 極めて静かな声だった。銀がより目立つアルフレデリックの瞳は、捉えたもの全てを凍てつかせるような鋭さがあった。


 ディアヌローズは息を詰め、凍りついた頭で後悔を繰り返した。



 沈黙の流れる中、アルフレデリックが窓に目を向けた。


 ディアヌローズもつられて窓を見る。玻璃の向こう、ウルラのいた枝にその姿はない。(エアリューリス)の柔らかな陽射しが若葉に惜しみなく注がれて、とても長閑(のどか)で暖かそうだった。


 パン、と暖炉で薪が爆ぜた────

 きょうはおそらく暖かい日。なのに暖炉には薪がくべられている。寒がる自分のためだと気付いた。アルフレデリックを怒らせ、みんなの心遣いにも気付けない鈍い自分。情けなくて涙が浮かんだ。泣きたくなくて唇を噛む。



 アントナンがディアヌローズのもとに進み出て、黒い瞳を向けた。

「悪気はなかったのでしょう? 確かめたかったのですよね」


 慮るような温情のこもる声で言うと、ディアヌローズの肩に手を置いた。

 ディアヌローズは頷きで返す。声を出すと泣いてしまいそうだった。


「元来、縁の深い者でなければ、魔力を使って助けたりしないものなのですよ。ましてやあの時、アルフレデリック様はお嬢様を癒しておられたでしょう?」


 こくりと、ディアヌローズは再び頷いて顔を俯けた。涙がひと粒零れ落ち、掛け布に吸い込まれていく。


 つくづく自分のことしか考えていなかった。レミの命が係っていたとはいえ、アルフレデリックの都合も考えずにレミの治癒を強請った。あのあと続けざまに魔獣の襲撃に遭い、アルフレデリックは魔術で撃退したけれど、もしも魔力が足りなくなっていたらどうなっていただろう。

 アルフレデリックの命も、みんなの命も、危険に晒す行為だったと今さらながらに理解した。


 頼るしかできなくて、護られてばかりで、何一つ恩返しできないまま──。これ以上、みんなを困らせたり、煩わせたりしない。胸の内で誓いを立てた。



「魔力は有限。治癒せねばならぬ者がいるのに、見ず知らずの者を率先して癒そうとは思わぬ」

 そう告げたアルフレデリックは素っ気なくも、いつもの穏やかな声だった。


 顔を上げたディアヌローズは、庭を見ていたはずのアルフレデリックと目が合った。アルフレデリックの瞳は、淡い金色に戻っていた。


 ディアヌローズは震える喉につばをぐっと飲みこんで、「はい」と消え入りそうな声で返した。


「理解したなら、今後は包み隠さず報告するように」


「……約束いたします」簡易な礼を執った。



 アルフレデリックの脇にいたフォセットが、有無を言わせぬ口ぶりで言う。


「もうよろしいでしょう。お嬢さまの顔色に気付かれませんの?」


 アルフレデリックは、何とも感情の読みにくい表情を見せた。


「ここは、わたくしにお任せになって」毅然と告げる。


 気まずそうに、アルフレデリックは帰っていった。




 扉の閉まる音を聞いて、ディアヌローズは背に挟んだクッションに凭れた。ひどく疲れて、まだ昼にもなっていないのに一日を終えた気分だった。身体の中が痛いことにも気付いて、みんなに悟られないようにしなければと誓いを新たにする。



 フォセットがアルフレデリックの見送りから戻ってきた。


「おかげんはいかがです? 心配されなくても、アルフレデリック様とミゼリコルド様が治してくださいますわ」


 ディアヌローズの頬に触れると、眉を(ひそ)めた。


「少しお熱がありますわね」


「……気のせいよ。お願い、アルフレデリック様にも、ミゼリコルド様にも言わないで」


 困ったようにフォセットは笑んで、仕方ないですねと嘆息した。ディアヌローズの白金の髪を手で優しく梳いていく。


 ディアヌローズは貝紫の目を閉じた。こんな風にフォセットに柔らかく髪を撫でられれば、泣き出したくなるくらいの安心感に包まれる。優しさが沁みてきて、波立つ心が凪いでいく。遣る瀬無さが薄らいでいく。知らず入っていた力が、抜けていった。



「お許しくださいませ」フォセットが、おもむろに謝罪を口にした。


 何事かと、ディアヌローズはフォセットを見上げて首を傾げた。

 フォセットは手を止め、悲し気に顔を曇らせる。


「幼いお嬢さまにあのように厳しい対応をとられるなんて、わたくしのお世話が至らなかったせいですわ」


「アルフレデリック様の乳母をされていたの?」


「ええ。アルフレデリック様がお嬢さまのお歳くらいから、お世話させていただきましたのよ。わたくしにも息子がおりましたから」


「そうでないかと思っていたの。ほんの時たま、アルフレデリック様はフォセットさんの前では子どものようなお顔をされていたから」


 まあ、と眉を上げて、フォセットが微苦笑を浮かべる。


「アルフレデリック様はとても利発で、同じ失敗はなさいませんでした。でも末のお子でしたので、幼い方に接する機会はございませんでしたの。ですからあのような接し方を……。お教えする機会の無かったことが悔やまれますわ」


 フォセットはそう言って、またディアヌローズに謝った。


 ──それだけが理由だろうか。

 ディアヌローズには、他にも理由があるような気がしてならない。アルフレデリックは常に『心を揺らすな』と注意していた。なのに、今回は承知で追及した。二度も──。



 フォセットが、再び髪を撫で梳く。


「少しだけ、アルフレデリック様の弁護をさせてくださいませね」と前置きして、語り始めた。


「他領の中には身分に厳格な領地も存在しますが、ランメルト領は領主様のご意向もあって、身分を振りかざす者は殆どおりません。ですが、愚かな者がいるのも確かですわ。お嬢さまのご懸念も理解できます」


 叱られるような気がして、ディアヌローズは頭を俯けた。いまフォセットにまで咎められたら、心に沁みた優しさが凍えてしまう。心が寒くなってしまう。身体を硬くした。


 髪を撫でていたフォセットの手が、離れた。ディアヌローズは身体の芯がひやりとする。


 間を置かず、その手は背を優しく叩き始めた。気付かれないように息をついて、ディアヌローズは身を預けた。


「──アルフレデリック様は、公平なお方で知られていますのよ。コンスタンティン様も、ミゼリコルド様も、ヴァランタン様もです」


「……だからあんなにお怒りになったのね」


「それでも、幼い方への接し方ではありませんでしたわ。……いい機会ですので、大切なことをお伝えします。──身分を弁えることを忘れてはなりませんよ」



 これまでの話と矛盾を感じ、ディアヌローズは目を(しばたた)かせてフォセットを見上げた。


「驚かれまして?」


 ディアヌローズは頷きで応える。


「貴賤ではありませんよ。身分に応じた役割があるのです。殆どの方はそれを理解しておられますわ。ですが、中には位にばかり目がいって、理解の及ばぬ俗物もいるのです。──けして忘れてはなりません。高位であればある程、重責を担わなければならないのです。ですから目下の者は、尊敬と敬意をもって遇するのですよ」


「──フォセットさんのお話を聞いて、思い出したわ。

 『義務と責務を果たさなければならない』って。……祖母の言葉よ」


 ディアヌローズが『祖母』と口にしたのは、シェリールと知った日以来。コンスタンティンに知らないと言われて、ずっと胸の中でだけ呼んでいた。声にしてみれば口によく馴染み、懐かしさで喉が詰まった。


 フォセットは祖母を否定することなく、微笑んだ。


「まあ。ではわたくしがお伝えするまでもありませんでしたわね」


「そんなことないわ。知っていても、失敗ばかり……。アルフレデリック様を怒らせたばかりだもの」


 もうこれ以上、知らないことで失敗したくない。ディアヌローズは神の家を訪問した時から、ずっと心に引っ掛かっていたことを訊ねる。


「また失敗したくないの。教えてくださいませ。どうして、知らない者と口をきいてはいけないのですか?」


「経験の浅い者がむやみに見ず知らずの者に気安くしては、奸物に利用されかねないからですよ」


「──」


 ディアヌローズは髪を撫でるフォセットの腕に手を置いて、寄せていた身を離した。


「……ありがとう存じます、フォセットさん。──眠くなったの……(やす)んでもいいかしら」


「ええ……。昼にお声掛けしますわね。──(とばり)はどうされますか?」


「──全部閉めてくださいませ……」


 フォセットは帳を順に閉めていく。


 ディアヌローズは顔を俯けたまま、その顔を上げることはなかった。まるで、迷い子が母の迎えを待ち詫びて必死に堪えているみたいに、じっとして動かなかった。


 フォセットはディアヌローズを窺いみると嘆息し、最後の帳を閉じた。




 フォセットの足音が遠ざかり、ディアヌローズは天蓋を見つめた。帳が閉ざされれば昼間でも中は真っ暗で、脇卓の小さな灯りが天蓋で頼りなげに揺らいでいる。


 ──なんて愚かな自分。

 イストワールに転移して間もない頃、階級社会と知って《奏の世界》における貴族の在り方と同じだと決めつけた。偏見を持っていたのは自分。なんて愚かなんだろう。


 そして、アルフレデリックの矜持を傷つけた。

 自分では何一つできもしないくせに。誰かに頼り、他人(ひと)を傷つけるのだけは一人前。


 だから────もう迷惑を掛けたりしない。

 きょう何度目かの決意をする。


 また身体の中が痛くなってきて、掛け布の中にすっぽり潜って身体を丸めた。そうすると幾分か痛みが和らぐ気がする。この数日は額も疼くものだから始末が悪い。痛みが落ち着くと、頭を出して深呼吸した。


 アルフレデリック曰く『心を揺らすな』ならば、魔力腺の損傷においても平静を保てばいいのではないだろうか。そうすれば魔力腺を流れる魔力も安定して、微熱も下がる気がする。転移して子どもになってからというもの、感情の起伏を抑えるのが難しいけれど、試してみる価値はありそうだ。


 ──お祖母(ばあ)さま。見ていてね。


 ディアヌローズは天蓋に手を伸ばした。

 伸ばされた手は繋いでくれる者もなく、朧な影となって彷徨った。






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