第六十五区画「朝礼の席には空席があるようです」
その日の朝礼は、いつも通りの刻限に始まった。
いつも通り、百十三人が広場に集まり、いつも通り、輪ができた。
……ただ一つ、いつもと違うことがあった。
俺の隣に、誰も立っていない。
輪が、静かだった。
全員、事情は知っている。この街は狭い。夜のうちに、話は端まで届いていた。
誰も、何も言わない。
俺を見ている。……ああ、そうか。
この人たちは、朝礼が始まるのを待っているのだ。
「——朝礼を、始める」
自分の声が、思ったより普通に出た。
「本日の予定を、読み上げる」
俺は、手元の紙を見た。
昨夜、引き継ぎ書を読みながら、自分で作った予定表である。
……項目が、抜けている。
書き終えた時は、これで全部だと思った。だが、こうして読み上げようとすると、いつもより明らかに短い。
あの人が読んでいたものには、何が入っていたのか。
思い出そうとして、思い出せなかった。毎朝聞いていたのにだ。
「……水班、量水堰の氷割り。鍛冶場、炉の三番を今日から使う。乾燥室、薬草の入れ替え。それから」
俺は、そこで一度、詰まった。
「……検量所は、通常通り」
「りょうしゅ」
輪の中から、小さな声がした。ノグだった。
「あさの、そうばの、はりだしは」
……それだ。
朝礼の最後に、必ず一項目あった。
——本日の相場は、追って掲示します。
毎朝、セリアが言っていた。
「……ノグ。相場は、今日は」
「もう、はりました」
子ゴブは、木箱の上でぴょんと跳ねた。
「きのうの、ぜんぶ、うつしました。アネゴの おしえた とおりに」
俺は、しばらく、その顔を見ていた。
「……見に行っていいか」
「いいよ!」
◆◆◆◆
相場板の前に、俺たちは移動した。
板には、数字が並んでいた。
金。銀。銅。そして、前日からの変更の欄。
字は、お世辞にも綺麗ではない。ゴブリンの字である。だが、桁は合っていた。
「ノグ。これ、誰が計算した」
「ぼくと、ガグ」
「根拠は」
「きのうの、とりひきの きろくから、ひろった」
彼は、脇に抱えた書付を見せた。
検量所の記録と、記帳台の記録が、几帳面に写してある。
「あのね、アネゴが、かいてくれてた。このかみを みて、このかずを ひろって、こうやって わるって」
……別紙の、どれかだ。
四十一件のうちのどれか。
俺は、まだ全部読み切っていない。
ガグが、後ろから歩いてきた。
「領主」
「ああ」
「昨日の夜、俺たち、やってみた。……三回、やった」
「三回?」
「一回目、間違えた。桁、ひとつ。……二回目も、間違えた」
彼は、耳を伏せた。
「三回目で、合った。……たぶん」
「たぶんか」
「たぶん」
俺は、書付を受け取って、目を通した。
……合っていた。
金の値は据置。銀が、わずかに下がっている。根拠として拾った取引の記録も、正しい。
「合ってる」
「!」
「ガグ、ノグ。よくやった」
二人が、飛び跳ねた。
……だが。
俺は、その板を見上げながら、別のことを考えていた。
この二人は、昨夜、俺に何も言わずにこれをやった。
俺が引き継ぎ書を読んでいる間に、自分たちで別紙を見つけて、三回計算して、朝までに板を書き換えた。
誰も、指示していない。
「ガグ。……なんで、やった」
「え?」
「俺は、まだ頼んでなかったろう?」
ガグは、きょとんとした顔をした。
それから、当然のように言った。
「紙に、書いてあった」
「……」
「アネゴの紙に、ガグがやるって、書いてあった。……だから、やった」
俺は、その場でしばらく動けなかった。
あの子は、いなくなる前に、この二人に仕事を割り当てていた。
名指しで。理由まで書いて。
——市場での使用回数の数え上げ、ガグ様。門と検量所の記録から拾えます。
——発行残高との割り算、ノグ。計算は簡単です。桁を間違えないよう、必ず二度。
……二度どころか、三度やったらしいが。
◆◆◆◆
その日、俺は執務室に籠もって、引き継ぎ書の別紙を最後まで読んだ。
四十一件。
読み進めるうちに、俺は、ある事実に気づいた。
……別紙の大半に、名前が書いてある。
第七、備蓄の見込み「実地の数え上げは、ドルグ様。あの方は数え間違いをなさいません」
第十二、苦情台帳の処理「傾聴はリーフェ様。裁定は領主。この二つを分けてください。同じ者がやると、聞いてもらえたと思う前に裁かれます」
第十九、賃金の計算「バルガス様が、一族分は既にできます。ゴブリンの分は、ザグ様に読み上げてご確認を」
第二十三、来場者台帳の集計「ノグ。ただし、月に一度は必ず領主が目を通すこと」
第三十、契約の期日「別表に月ごとに並べました。これを見落とすと、当領は約束を破る領になります」
……全部、そうだった。
誰が、何を、どうやるか。そして、なぜその人なのか。
俺は、最後まで読んで、紙を置いた。
……セリアは自分の仕事を、分解していた。
いなくなる前の一日や二日で、こんなことはできない。
一つ一つの業務を、誰なら担えるかを見極めて、その人に合う形に噛み砕いて、書き出す。……何ヶ月もかけて、少しずつやっていたはずだ。
俺は、四十一件目を、もう一度読んだ。
当領は、私がいなくとも回ります。そのように、設計いたしました。私とタクミ様で。
……設計、と書いてあった。あれは、比喩ではなかったのだ。
◆◆◆◆
だが、その日の夕方に、それが崩れた。
「領主どの」
バルガスが、執務室に来た。手に、書付を持っている。
「三月の予算の件じゃがな」
「ああ」
「ここに、四月の穀物の手当が書いてある。……四百俵、と」
「そうだな」
「じゃが、今の在庫と食う量で計算すると、四百では足りん」
俺は、顔を上げた。
「足りないか」
「足りん。ワシの見立てじゃと、四百五十は要る。……いや、待て。エルフの子らが増えて、食う量が変わっとるはずじゃな。四百六十か」
彼は、指を折っている。
「……いや、待て。冬の間は、隊商の飯が食堂に入っとる。あれは、こっちの持ち出しか、向こう持ちか」
「向こう持ちだ。だが、材料はうちが出してる」
「なら、その分は」
……止まった。二人とも、止まった。
俺は、算盤を引き寄せた。
弾いてみた。……合わない。
いや、合っているかどうかが、分からない。
人数は分かる。備蓄も分かる。消費の平均も、記録がある。
だが、それらを組み合わせた時に何が起きるかが、分からない。
冬は消費が増える。隊商が入れば、さらに増える。だが、手形で買う分と現物でもらう分があって、月をまたぐと繰り越しがあって——
「……バルガス」
「なんじゃ」
「これ、セリアは一人でやってたのか」
「……そのようじゃな」
棟梁は、髭を撫でた。
「毎月、朝の一刻でな。ワシは、あれを見ながら『よう働く娘じゃ』と思うとった」
彼は、書付を見た。
「……よう働く、で済ませとった」
結局、その計算に、俺とバルガスとドルグの三人で、丸一日かかった。
出た答えは、四百六十二俵。
……そして翌日、俺は引き継ぎ書の別紙を読み返して、第七項の末尾を見つけた。
なお、四月の穀物は、四百六十俵前後と見込んでおります。内訳の考え方は、下記の通りです。
一、人数(百十三名)に、冬季の増加分(一割二分)を掛けます。
二、隊商への提供分を足します。ただし、代金は宿代に含まれます。
三、繰り越しを引きます。
四、必ず、二分の余裕を見てください。足りないより、余る方が安く済みます。
……書いてあった。最初から、書いてあった。
俺たち三人が丸一日かけて出した答えが、そこに一行で書いてあった。
しかも、二分の余裕を見ろ、という注記まで付いていた。
「……領主どの」
「なんだ」
「ワシは、今、大変に情けない気分じゃ」
「奇遇だな。俺もだ」
◆◆◆◆
その夜、俺は執務室で、一人で数字を見ていた。
手形の回転。準備率。備蓄。人数。
……ガグとノグが数えた数字が、卓の上に並んでいる。
数字は、揃っている。だが。
俺は、別紙の三十八項を、もう一度開いた。
◆◆◆◆
『三、数字を見て判断すること。領主タクミ様。
三つ目は、分けられません。
数えるのは誰でもできます。それが何を意味するかを読むのは、あなたの仕事です。あなたはいままでもそうしてきたはずです。』
……そうだ。この街は、回っている。
設計した通りに、確かに回っている。ガグが数え、ノグが割り算をし、ドルグが備蓄を数え、バルガスが賃金を計算し、リーフェが苦情を聞いている。
全部、回っている。
だが、その数字を見て、次に何をするかを決める人間は、この街に一人しかいなかった。
それが、いなくなった。……いや、違う。
俺は、その一行を、もう一度読んだ。
——それが何を意味するかを読むのは、あなたの仕事です。
……この子は、それを、最初から俺の仕事だと書いている。
自分の仕事だと書いていない。
あの人は、四十一件のうち四十件を人に配って、最後の一件だけを俺に置いていった。
しかも、それは元々、俺の仕事だった。いつの間にか、彼女に任せてしまっていた。
俺は、卓の上の数字を、もう一度見た。手形の回転、四・四回。悪くない。準備率、四割八分。規律内だ。
備蓄、四百六十二俵の見込みに対し、テオの定期便で足りる。
冬の売上は、想定の四倍のまま。
……この街は、大丈夫だ。
少なくとも、あの子が帰ってくるまでは、持つ。
◆◆◆◆
翌朝の朝礼で、俺は全員に言った。
「一つ、報告する」
輪が、静まった。
「昨日、一昨日と、この街は回った。……予定は出た。相場は貼られた。備蓄は数えられた。苦情も処理された」
俺は、輪を見回した。
「回った」
誰も、何も言わなかった。
「セリアの引き継ぎ書に、こう書いてある。——当領は、私がいなくとも回ります。そのように、設計いたしました」
俺は、その紙を掲げた。
「昨日、それが本当だったと分かった」
「……りょうしゅ」
ノグが、小さく手を挙げた。
「アネゴ、かえってくる?」
輪の全員が、俺を見た。……ここで、何を言うかだ。
嘘は、つけない。この街は、口約束をしない街だ。
だが、絶望を配るのも、領主の仕事ではない。
俺は、正直に言うことにした。
「分からん」
輪が、揺れた。
「本人が『復職の見込みは不明』と書いてきた。……だから、分からん。それが事実だ」
俺は、そこで一度、間を置いた。
「だが、一つ、はっきりしてることがある」
「セリアは、四月の予算を作っていった」
輪が、しん、とした。
「四十一件の引き継ぎ書を作って、四月までの穀物の量を計算して、賃金の払い方を書いて、備蓄の余裕まで見ていった」
俺は、紙を掲げた。
「四月にこの街がどうなってるかを、細かく決めていった人間が、四月以降ににこの街を見ないつもりだと、俺は思わない」
しばらく、誰も動かなかった。
それから、ザグが、鍋兜の縁を上げた。
「……領主」
「なんだ」
「取りに行くんだろ」
「行く」
俺は、即答した。
「ただし、勝てる形で行く。……今日から準備を始める」
「危険予知」
俺は、いつもの通りに言った。
「本日の危険、三つ」
輪から、声が上がった。
「こおり!」
「まいご!」
「ひのようじん!」
「よし。……それから、四つ目」
俺は、そこで少しだけ声を張った。
「焦ることだ」
「向こうは、期限を切ってきた。……焦らせて、無理な形で判を捺させるのが、あの商会のやり方だ。三年前も、十二年前も、そうだった」
俺は、輪を見回した。
「だから、焦らない。準備が整うまで、行かない。……それが、結果的に一番早い」
「——ご安全に!」
「「「ご安全に!!!」」」
◆◆◆◆
その日から、遠征の準備が始まった。
編成、荷、路銀、日程。それと、手札の整理。
夕方、リーフェが治療院から上がってきた。
「領主様。旅の薬を、揃えております」
「頼む」
「……それと、一つ、お願いがございます」
彼女は、珍しく言い淀んだ。
「私も、参りたいのですが」
「駄目だ」
俺は、即答した。
「なぜ、でしょうか」
「エルフが王国の街道を歩けば、目立ちすぎる。……それに」
俺は、彼女を見た。
「リーフェがいなくなったら、この街の医が、いなくなる」
「……はい」
彼女は、素直に頷いた。
それから、包みを差し出した。
「では、こちらを」
開けると、煎じ薬の包みが、いくつも入っていた。
しかも、一包ずつ、日付と刻限が書いてある。
「……これは」
「二月分ございます。日付を書きましたので、その通りにお飲みください」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「セリア様に、教わった通りに時間を記載しております」
俺は、その包みを、しばらく見ていた。
「リーフェ」
「はい」
「あの子が、引き継いでいったのは」
「……はい」
彼女は、静かに言った。
「私は、あの方に間違いなく、遠慮されておりました。それは、間違いございません」
「……」
「ですが、セリア様は、しっかりと私は引き継ぎをなさいました」
彼女は、顔を上げた。
「……あの方は、戻ってこられるおつもりです」
「なぜ、そう思う」
「引き継ぎというのは」
リーフェは、はっきりと言った。
「戻る場所がある者が、するものです」
◆◆◆◆
その夜、俺は懐から一枚の紙を出した。
第三条で止まったままの、契約書の草案である。
『第三条(対価) 賃金は、』
……ここから先が、書けない。
俺は、しばらくその一行を見て、それから、ペンを取った。
そして、こう書いた。
第三条(対価) 賃金は、月払いとする。額は、乙と協議のうえ定める。なお、当領は、乙に対し、次のものを支払うことができない。
一、乙がこの一年に当領へもたらした利益に見合う額。
二、乙が引き継ぎ書に記した四十一件の業務に見合う額。
三、乙が、この領を「私がいなくとも回る」ものに設計した、その働きに見合う額。
右のいずれも、算定が不能である。
したがって、賃金の額は、乙との協議によるものとする。
……ふざけた条文だな、と思った。払えないものを、契約書に列挙している。
だが、これ以上正確な書き方は、どこにも無い。
俺は、その紙を折って、懐に戻した。
第四条は、まだ書いていない。
……南への道中に、考える時間はいくらでもある。
窓の外は、まだ雪だった。




