第六十四区画「アークライト男爵家も動くようです」
オーウェン・フォート・アークライトは、二月の朝、屋敷の窓から桟橋を見ていた。
セレン川の中流。屋敷から半里ほど下ったところに、石積みの桟橋が一本、突き出している。長さ三十間ほど。先端の一部は崩れて、水に沈んだままだ。
その周りに、荷揚げ場の跡と、倉の礎石が四棟分。
それが、アークライト男爵家の全財産である。
あの桟橋を建てたのは、彼の祖父だった。
祖父は、川に賭けた。
セレン川は、北の山から南の海まで、大陸を縦に貫いている。当時、川を使う荷は少なかった。街道の方が早く、安全だったからだ。
だが祖父は、こう考えた。
——いずれ、北が開ける。北の荷が南へ下るようになれば、川が要る。その時、桟橋を持っている者が勝つ。
……見通しとしては、悪くなかった。
実際、その通りになりつつある。今、北は開けている。開けているどころではない。
ただ、祖父の想定になるまでは、遅かった。
五十年は、家一つを潰すには、十分すぎる時間である。
◆◆◆◆
「旦那様。……お客様が」
老いた家僕が、扉の外から告げた。
この屋敷に残っている使用人は、三人だけである。三人とも、給金が二年遅れている。それでも辞めないのは、行くところが無いからだ。
「どちらの」
「ゴルドー商会の、お使いの方でございます」
オーウェンは、窓から目を離さなかった。
「……返答は、済んでいると伝えてくれ」
「それが、その」
家僕は、言いにくそうに続けた。
「お嬢様が、商都に入られたとのことで」
◆◆◆◆
オーウェンは、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと振り返った。
「……セリアが?」
「はい」
「一人でか」
「一人で、と伺っております」
彼は、窓枠に手をついた。
手が、震えているのが分かった。
◆◆◆◆
娘が家を出たのは、去年の春である。
十五になった、その年の三月。
……そもそもの始まりは、十二年前だった。
桟橋が二度目に流された年、彼はカルデン子爵から金貨八百枚を借りた。担保は、領地の南の一部。
二年後、返せなかった。書き換えになった。
その二年後、また返せなかった。
三度目の書き換えの席で、子爵の代理人が、こう言った。
——担保に出せる領地が、もうございませんな。と。
あの日のことを、オーウェンは、繰り返し思い出す。
代理人は、慇懃だった。声を荒らげもしなかった。ただ、書類の余白を指で叩きながら、こう続けた。
「ご当主。ご息女がおられますな」
「……娘が、なんだと」
「担保に、と申し上げております」
「馬鹿を言うな。娘を、担保になんか——」
「よくあることでございます」
男は、少しも動じなかった。
「王国の下位貴族では、珍しくもございません。むしろ、それしか残っていない家の方が、多うございます」
……よくあること。
その一言に、オーウェンは、何も返せなかった。
「ご安心ください。すぐにどうこう、という話ではございません。ご息女が十五になるまでに、お返しいただければ済むことでございます」
男は、十二年後の日付を書き入れた。
「十二年ございます。……ご当主。十二年もあれば、なんとかなるとは、お思いになりませんか」
◆◆◆◆
……なると、思った。いや。思おうと、した。
その時、娘は七つだった。七つの娘が十五になるまでの八年は、途方もなく長く思えた。その間に桟橋が直り、荷が来て、返せるはずだと——彼は、そう考えることにした。
彼は、判を捺した。
◆◆◆◆
『第九条 甲が、乙の息女セリアが満十五歳に達するまでに本債務を完済しないときは、乙は、当該息女の身柄を甲に引き渡すものとする。』
◆◆◆◆
……甲が、子爵である。乙が、彼である。自分の娘のことが、条文に書かれていた。
◆◆◆◆
娘が、その条項を知ったのは、三年後だった。
十歳の秋である。
その日、彼が書斎にいると、娘が入ってきた。
小さな手に、証文の控えを持っていた。
どこから持ち出したのかは、聞くまでもなかった。この子は、いつも帳場にいた。数を数えるのが好きで、算盤の音がすると寄ってきた。卓に手が届かないから、踏み台を置いてやっていた。
「お父様」
「……どうした」
「一つ、伺わせてください」
娘は、その紙を卓に置いた。
第九条の行に、小さな指を当てていた。
「この、セリア、というのは、私のことですか」
オーウェンは、答えられなかった。
娘は、しばらく待っていた。
それから、こう言った。
「……分かりました」
それだけだった。
泣きもしなかったし、責めもしなかった。
彼女は、紙を持ったまま、静かに部屋を出て行った。
◆◆◆◆
……その夜から、娘は変わった。
いや、変わったというより——急いだ。
算盤を、異様な速さで覚えた。帳簿を、片端から読んだ。父が留守の間に、家の勘定を全部やり直した。
商業慣行録という分厚い本を、棚から引きずり出して、読み始めた。
十歳の子供が、である。
……なぜそうしたのかを、当時のオーウェンは、考えなかった。
考えたくなかったのだと、今なら分かる。
あの子は、期限までに返す方法を探していたのだ。
自分の身柄が担保になっている借金を、自分で、なんとかしようとしていた。
◆◆◆◆
五年が過ぎた。
書き換えは重なり、額面は三千枚に届いた。桟橋は直らず、荷は来なかった。
そして——娘が十五になった。
◆◆◆◆
去年の三月。子爵の使いが、屋敷に来た。用件は、簡単だった。
「期限でございます。ご当主」
オーウェンは、その日、こう答えた。
「……少し、待ってほしい」
「どのくらい、でございましょう」
「少し、だ。今、手を打っている」
「では、次の朔日に、また参ります」
……手など、打っていなかった。打てるものが、何も無かった。
◆◆◆◆
その夜、娘が書斎に来た。五年前と、同じように。
だが、この時は、紙を持っていなかった。
「お父様」
「……ああ」
「今日の、お返事を伺いました」
彼女は、扉の前に立ったままだった。
「一つだけ、伺わせてください」
オーウェンは、顔を上げられなかった。
「お父様は、断ってくださらないのですか」
◆◆◆◆
……あの時。彼は、なんと答えるべきだったのか。この一年、それを何千回も考えた。
断る、と言えばよかった。何があっても渡さない、と。嘘でもよかった。どうせ返せないのだから、嘘でもよかったのだ。
だが、彼は、こう答えた。
「……セリア。他に、どうする」
◆◆◆◆
娘は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「分かりました。お父様には、他の道が見えないのですね」
「セリア」
「では、私が探します」
彼女は、深く一礼した。
「今まで、ありがとうございました」
翌朝、娘の部屋は空だった。
持ち出したものは、着替えが数枚と、母の形見の青いリボンが一本。
それだけだった。
◆◆◆◆
彼は、この一年、あの夜のことを考え続けている。
——あの子は、怖がっていたのではない。
彼女は、あの夜、確かめに来たのだ。
この父親が、自分のために「否」と言うかどうかを。
そして、言わなかった。
……娘が逃げたのは、子爵からではない。
父が、断らないと分かったからである。
◆◆◆◆
人相書きを配り始めたのは、その半年後だった。
最初は、家のためだった。
娘の居場所が知れれば、子爵との交渉に使える。……そう考えた自分を、彼は今も許していない。
だが、途中から、違うものになった。彼は、こう思うようになった。
あの子は、生きているのか。
十五の娘が、着の身着のままで家を出て、一年である。
夜中に目が覚めると、そればかり考えた。人相書きを配れば、誰かが「見たことがある」と言うかもしれない。それだけの理由で、彼は配り続けた。
秋のことである。
王都の商人から、こういう報せが来た。
北の辺境に、黒髪の、算盤の恐ろしく速い娘がいる。
その日、彼は書斎で一人、声を上げて泣いた。
……生きていた。
それだけで、その日は、一年ぶりによく眠れた。
◆◆◆◆
そして、この冬。
子爵からの取り立ては、途絶えた。
理由は、一月ほどして分かった。
◆◆◆◆
『債権譲渡の通知』
右債権は、王国暦一〇五〇年十月をもって、ゴルドー商会へ譲渡いたしました。以後の弁済は、同商会宛にお願いいたします。
カルデン子爵
◆◆◆◆
……売られた。十二年、この家を締め上げてきた男は、娘が逃げたと知るや、あっさりと紙を手放した。
いくらで売ったのかは、書いていない。
だが、想像はつく。回収できない紙である。額面通りに売れるはずがない。
……あの男は、私の娘の値段を、二束三文で処分した。
オーウェンは、その通知を読んだ日、初めて、子爵に対して怒りを覚えた。
彼自身も同じ穴の狢であると分かっていた。けれど、怒らざるを得なかったのだ。
◆◆◆◆
使いが来たのは、一月の初めだった。
二千枚を免除する、と言われた。残り一千枚は、十年の分割で、利は付けない、と。
……破格である。この家の状況で、これ以上の条件は、二度と来ない。
そして、三条を読んだ。
『右の対価として、アークライト男爵家の息女セリアを、当商会の指定する家へ嫁がせるものとする。』
……同じだ。言葉が、違うだけである。
子爵は「身柄を引き渡す」と書いた。この商会は「嫁がせる」と書いた。
それだけの違いで、中身は、一文字も変わっていない。
「……娘は、家におりません」
「存じております」
使者は、静かに言った。
「北の、デッドエンド領という辺境におられます。……当商会は、既に確認しております」
「では、私に何を」
「ご当主の署名を」
男は、書状を差し出した。
「ご息女の意思がどうであれ、父君が署名した紙があるということが、大事なのでございます。……北の領主は、紙を重んじる方だと伺っております」
◆◆◆◆
……ああ。この男たちは、そこまで調べている。
北の領主が紙を重んじるから、こちらも紙を用意する。父親の署名を取れば、娘は断りにくくなる。
そして、「父が署名したのだから、家のために従うべきだ」と、周りが言い出す。
……そういう紙である。
「断ったら、どうなります」
「本提案は、失効いたします。その後は、本店の判断となります」
使者は、丁寧に一礼した。
「率直に申し上げます。本店は、この件を急いでおりません。……あと五年、書き換えを重ねれば、この家は自然に無くなります。その時、ご息女は、無一文の家の娘になります」
「…………」
「今なら、免除がございます。そして、ご息女には、しかるべき家へ入っていただけます。……どちらが、ご息女のためでしょうか」
◆◆◆◆
オーウェンは、三日、悩んだ。
いや——悩んだ、という言い方は、正しくない。
彼は、三日かけて、自分を納得させようとした。
これは娘のためだ。無一文の家の娘になるより、しかるべき家に入る方がいい。二千枚の免除は、この家を救う。使用人の給金も払える。
……そうやって、三日、自分に言い聞かせた。
娘の気持ちなど、全て置き去りにして。
◆◆◆◆
三日目の夜、彼は書斎で筆を取った。
署名の欄に、筆先を近づけた。
そして——手が、震えて、止まった。
彼は、筆を置いて、両手で顔を覆った。
……分かっている。
これは、娘のためではない。
自分が楽になるためだ。
三日かけて考えたのは、どうすべきかではない。どう言い訳をすれば、自分が耐えられるかである。
……そして、これが、去年の春と同じであることも、彼は分かっていた。
あの夜も、そうだった。
「他に、どうする」と娘に言った。あれも、言い訳だった。断る、という道はあった。
彼は、それを選ばなかった。
彼は、一刻ほどそのまま座っていた。
それから、筆を取り直した。
そして、署名した。
……なぜかと聞かれても、答えられない。
ただ、去年と同じ手が、去年と同じように動いた。それだけである。
筆を置いた時、彼はこう思った。
——私は、あの夜から、一歩も動けていない。
◆◆◆◆
そして、今朝である。娘が、商都に入った。一人で。
「……旦那様?」
家僕の声で、彼は我に返った。
「使いの方は、いかがいたしましょう」
「……通してくれ」
「はい」
「いや、待て」
オーウェンは、そこで、自分でも驚くようなことを言った。
「帳場を開けてくれ」
「……え?」
「帳場だ。北の、物置になっている部屋だ」
「あそこは、もう随分と使っておりませんが」
「知っている」
彼は、立ち上がった。
「埃を、払ってくれ」
その部屋に入るのは、久しぶりだった。
卓と、棚と、算盤が一つ。棚には、この家の帳簿が積んである。読まなくなって久しい。
窓際に、小さな踏み台が置いてあった。
……娘のものである。
卓に手が届かないから、これに乗って、算盤を弾いていた。
彼は、その踏み台を、しばらく見ていた。
棚の一番下から、彼は一冊の本を引き抜いた。
埃だらけの、分厚い本である。
『王国商業慣行録』
……この本は、彼の父が買ったものだ。読んだ形跡は、ほとんど無い。
だが、ある頁だけ、指の跡で汚れている。
何度も、何度も開かれた跡である。
彼は、その頁を開いた。
◆◆◆◆
『第百三十七条
債務者、及びその家族は、当該債務に関する帳簿の記載について、
債権者の帳場においてこれを閲覧することを求めることができる。
債権者は、正当な理由なく、これを拒んではならない。』
◆◆◆◆
……あの子が、読んでいた条文だ。この頁だけが、擦り切れている。
十歳から十五歳までの、五年分の指の跡である。
オーウェンは、その本を持って、卓に座った。
そして、十年ぶりに、算盤を引き寄せた。
……娘が商都に入った、と聞いた。
あの子が何をしに行ったのか、彼には、なんとなく分かる気がした。
この頁を、あの子は覚えている。
あの子は、忘れない。
彼は、棚から帳簿を降ろした。
一冊、二冊、三冊。 十二年分ある。……全部、読む。
あの子が十のときに読んで、五年先まで見通した帳簿を、父親が、四十五になって、初めて読む。
遅い。どうしようもなく、遅い。
……だが、あの夜から一歩も動いていない男が、今夜、半歩だけ動く。
「旦那様。……お使いの方が、お待ちですが」
「返しておけ」
彼は、帳簿を開いた。
「私は、帳簿を読んでいる」
◆◆◆◆
その夜、屋敷の北の部屋には、明け方まで灯りが点いていた。
三人の使用人は、誰も何も言わなかった。
ただ、一番年老いた家僕が、夜中に一度だけ、茶を運んだ。
主人は、算盤を弾いていた。
……その手つきは、驚くほど遅かった。
十年、触っていなかったのだから、当然である。
だが、老家僕は、それを見て、少し泣いた。
この屋敷で算盤の音を聞いたのは、一年ぶりだったからだ。




