第六十三区画「休職届は様式通りに出されるようです」
二月二十日。
その朝、俺が執務室に入ると、卓の上が、いつもと違っていた。
いつもは、右の端に朝礼の予定表が一枚。それだけである。
この日は、書類が積んであった。しかも、きちんと綴じてある。
……セリアの綴じ方だ。二つ穴に、麻の紐。結び目は左上。この街の書類は、全部この形をしている。
「……なんだ、これ」
俺は、一番上を手に取った。
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『引き継ぎ書』
一、月次の締めの手順(全十七項)
二、相場の算定要領(実績基準・改二以降)
三、手形の監視要領(準備率、回転、券種別の残高)
四、来場者台帳の集計方法
五、苦情台帳の処理と月次見直しの段取り
六、賃金の計算と支払いの手順
七、備蓄と消費の見込み(四月まで)
八、各種契約の期日一覧
九、当面の予算案(三月・四月)
十、その他、引き継ぎを要する事項(別紙・全四十一件)』
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……いつ書いたんだ、これを。
俺は、頁をめくった。
全部、丁寧に書いてあった。手順が番号で並び、注意書きが小さな字で添えてある。
「この計算は、必ず二度行うこと」
「この数字は、月末ではなく月の三日目に確定する」
「ノグに読ませる場合は、絵記号を添えること」
……引き継ぎ書というより、教本だった。三日や四日で書けるものではない。
俺は、綴りの一番下まで、順にめくっていった。
そして。
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最後の一枚に、辿り着いた。薄い紙が、一枚。
様式は、当領の書式に則っていた。彼女が作った書式である。
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『休職届』
所属 デッドエンド領
役職 財務最高責任者兼筆頭補佐官
氏名 セリア・フォート・アークライト
事由 私事
期間 二月二十日より
復職の見込み 不明
王国暦一〇五一年 二月二十日』
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……追伸は、無かった。
私信も、無かった。
紙の裏を見た。何も書いていない。綴りの間に何か挟まっていないか、全部確かめた。無かった。
完璧に、事務だった。
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部屋を飛び出した。彼女の部屋の扉は、開いていた。
中は、片付いていた。……いや、片付きすぎていた。
寝台の敷布は畳んで、隅に重ねてある。卓の上は空。棚の書物は、全部背表紙が揃えられている。
私物が、無い。
……この人が、この街に来た時に持っていたものは、少なかった。だから、無くなっても、部屋はほとんど変わらない。
それが、余計に悪かった。
卓の上に、一つだけ置いてあった。
鍵である。
執務室の鍵、金庫の鍵、書庫の鍵。三本が、紐で束ねてあった。
……返して行ったのか。
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俺は、南門へ走った。
夜番が、まだ引き継ぎの最中だった。
「ノグ! 記帳台の控えを!」
「あ、りょうしゅ! おはよう——」
「昨夜から今朝の分だ。全部見せてくれ」
子ゴブが、慌てて台帳を差し出した。
俺は、頁をめくった。
……あった。
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『二月二十日 夜明け前』
氏名 セリア・フォート・アークライト
所属 デッドエンド領 筆頭補佐官(休職中)
どちらへ 南
御用向き 私事
同行者 馬一頭
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……記帳して、出て行った。
自分で作った規則に従って。休職中と、わざわざ書いて。
「ノグ。この時、セリアは何か言ってたか」
「えっと……」
子ゴブは、耳を伏せた。
「『書いておいてください』って」
「それだけか」
「うん。……あと」
ノグは、少し考えてから言った。
「『門は、正面から出るものです』って」
……俺は、しばらく門柱に手をついていた。この子は、逃げなかったのだ。
塀を越えることもできた。夜のうちに、誰にも見られずに出ることもできた。この街で一番、警備の穴を知っているのは彼女である。
だが、正面から出た。
記帳して。休職の届けを出して。引き継ぎを全部済ませて。鍵を返して。
……手続きを、一つも飛ばさずに。
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半刻後、幹部が執務室に集まった。
全員、顔を見た瞬間に事情を察していた。
「……追うぞ」
最初にそう言ったのは、ザグだった。
「俺、行く。今から行く。足、速い」
「まて、ザグ」
「なんで!」
「南だ。領の外だ」
俺の言葉に、ゴブリンの長が固まった。
「……ザグ、お前が南へ行って、王国の役人に見咎められたら、どうなる」
「……」
「ゴブリンが、無許可で王国の街道を歩いてる。それだけで、うちの領の話になる。血判状の第四条は、うちにも刃が向く条文だ」
「……じゃあ、領主は」
「俺も同じだ。いや、俺の方が悪い」
俺は、正直に言った。
「除籍された伯爵家の三男が、実家の領地を通って、商都まで走る。……向こうが一番喜ぶ絵面だ」
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「じゃがな、領主どの」
バルガスが、低く言った。
「あの娘は、一人で南へ行ったんじゃぞ。……あの商会の、膝元へ」
「分かってる」
「捕まったら、どうする」
「……」
「あの和解案の期限は、あと十日じゃ。向こうは、娘が一人で来るのを待っとったのかもしれん」
……その可能性は、俺も考えた。考えて、そして、否定した。
「いや。……セリアは、そういう考え方はしない」
「なぜ言い切れる」
「引き継ぎ書だ」
俺は、卓の上の綴りを叩いた。
「四十一件の別紙まで付いてる。四月までの予算案が入ってる。……身を投げに行く人間は、四月の予算を作らない」
◆◆◆◆
そこへ、リーフェが息を切らして駆け込んできた。
「領主様! ……セリア様が」
「知ってる。南へ出た」
「いえ、そうではなく。……これを、置いていかれました」
彼女が差し出したのは、小さな包みだった。
開けると、乾いた薬草と、細かい根。
……見覚えがある。
「これは」
「私が、あなたに調じている冬の煎じ薬です」
リーフェは、困惑した顔で言った。
「昨夜遅く、セリア様が治療院にお見えになりました。そして、この薬の作り方を教えてほしいと」
「作り方を?」
「はい。分量と、煎じる時間と、飲ませる刻限を、全部書き取っていかれました。……そして、こちらを」
彼女は、もう一枚の紙を出した。
几帳面な字で、こう書いてある。
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『領主の就寝および起床の記録(五年分・要約)』
平年の就寝の刻限、入眠までの平均、朝食を抜く傾向のある曜日、図面を引く際に休憩を取らなくなる時間の目安、疲労時に最初に出る兆候(右の肩を回す、眉間を押さえる)
以上、引き継ぎます。
筆頭補佐官
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俺は、その紙を、しばらく見ていた。リーフェが、静かに言った。
「私はセリア様に遠慮されているのだと思っていました」
「……」
「そして、それは、多分、間違っておりません」
彼女は、その紙を大事そうに折った。
「ですが、セリア様はその相手に、引き継ぎをしていかれました」
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昼過ぎ、俺は一人で執務室に戻った。
卓の上に、引き継ぎ書の綴りが置いてある。
……俺は、それを最初から読み直した。
全十七項の締めの手順。相場の算定要領。手形の監視要領。
そして、四十一件の別紙。
その三十八番目に、こう書いてあった。
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三十八、私が不在の間、回転の速さを誰が数えるか
現時点で、これを担える者はおりません。
したがって、次のように分けてください。
一、市場での使用回数の数え上げ——ガグ様(門と検量所の記録から拾えます)
二、発行残高との割り算——ノグ(計算は簡単です。桁を間違えないよう、必ず二度)
三、数字を見て判断すること——領主
三つ目は、分けられません。
数えるのは誰でもできます。それが何を意味するかを読むのは、あなたの仕事です。
なお、四・〇を下回った場合は、死蔵が始まっています。
その時は、ザグ様のお宅の木箱を、もう一度ご覧になってください。
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……俺は、その頁を、机に置いた。しばらく、動けなかった。
セリアは、いなくなる準備をしながら、この街が回り続ける準備をしていた。俺がそうなってほしいと願っていたのと同様に。
自分がいない間に何が起きるかを、全部想像して、一つずつ手当てをして。
……そして、最後の一項に、こう書いていた。
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四十一、その他
当領は、私がいなくとも回ります。
そのように、設計いたしました。
私とタクミ様で。
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この子は、同じように思っていてくれたのだ。自分がいなくても回る街を作るのが、仕事だと。そのように設計するのだと。最初から。
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夕方、俺は幹部を集めた。
「方針を言う」
全員が、顔を上げた。
「追わない」
場が、ざわめいた。
「領主どの——」
「今日は、だ」
俺は、そこを強く言った。
「今、俺が飛び出したら、何が起きるか。……札は四枚。護衛も無し。実家の領地を通る。向こうの膝元へ、丸腰で走り込む。そして、うちの街には数字を読める人間が一人もいなくなる」
「……」
「向こうは、それを待ってる」
俺は、卓を叩いた。
「あの使者は、期限を切った。わざわざ、教えてくれた。……なぜだと思う」
ガリムが、恐る恐る手を挙げた。
「……焦らせるため?」
「そうだ。焦って動いた方が負ける、って型だ。三年前も、そうだった」
バルガスが、深く息を吐いた。
「……初雪までに、じゃな」
「そうだ」
俺は、頷いた。
「期限を切って、焦らせて、無理な形で判を捺させる。……あの商会は、それしかやらない。何年も前からそうやってきた。三年前も、今回もだ」
◆◆◆◆
「じゃあ、どうするんじゃ」
「準備する」
俺は、紙を広げた。
「行く。それは決めた。……だが、勝てる形で行く」
俺は、三つ書いた。
「一つ。遠征の編成。誰を連れて行くか、誰を残すか。留守を守る体制を作る」
「二つ。手札を揃える。四千二百枚の請求権。和解書第四条。薬の供給。……それと、集めてる紙の写しだ」
「三つ」
俺は、三つ目を書いて、ペンを置いた。
「セリアが、何をしに行ったのかを、考える」
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「……何を、と申されますと」
「セリアはこの領を出ていったわけではない」
俺は、はっきり言った。
「引き継ぎ書を四十一件も作って、四月の予算まで組んで、律儀に退職届まで残していった。……それは、戻ってくる人間の仕事だ」
俺は、南の窓を見た。
「セリアは、仕事をしに行った」
◆◆◆◆
夜。
俺は、机の隅に手を伸ばした。
白い紙が、一枚ある。
二十日前の夜に書き出して、第二条で止まったままの紙だ。
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『雇用に関する契約書』
甲 デッドエンド領 領主 タクミ
乙 セリア・フォート・アークライト
第一条(身分) 乙は、当領の筆頭補佐官である。
第二条(業務) 乙の業務は、
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……あの日、俺はここで止まった。
この人の業務が、書けなかったからだ。輪郭が無い。全部やっている。書きようがない。
……そう思っていた。
俺は、引き継ぎ書の綴りを引き寄せた。
全十七項。四十一件の別紙。
……ここに、全部書いてある。あの子は、自分の業務の一覧を、自分で作って置いていった。
俺は、しばらくその二つを見比べていた。
それから、ペンを取った。
◆◆◆◆
『第二条(業務) 乙の業務は、別紙に定める。
別紙——引き継ぎ書(全十七項及び別紙四十一件)の記載による。』
◆◆◆◆
……書けた。二十日ぶりに、第二条が埋まった。
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
……ふざけた条文だな、と思った。
業務の欄に「別紙による」と書いて、その別紙が、本人の書いた引き継ぎ書である。
だが、これ以上正確な書き方は、どこにも無い。
第三条を書き始めて——また、止まった。
『第三条(対価) 賃金は、』
……いくらだ。 俺はあの子に、いくら払えばいい。
俺は、ペンを置いた。
置いてから、笑った。少し、掠れた笑いだった。
……そうか。
そこも、算定不能か。
◆◆◆◆
俺は、その紙を折って、懐に入れた。置いていくつもりは、無かった。
……南へ持っていく。
道中、考える時間はいくらでもある。第三条から先を、歩きながら書けばいい。
そして、書き上がった頃には、本人に会えているはずだ。
◆◆◆◆
同じ夜。ノルトールで馬を預けた後に、王国街道を南へ下り乗合馬車の隅で、一人の少女が、膝の上で帳面を開いていた。
外は、闇である。ランプは無い。
彼女は、書かずに、ただ開いていた。
……昨夜のうちに書くべきことは、全部書いてきた。
引き継ぎ書。予算案。要領。薬の作り方。記録の引き継ぎ。
書かなかったのは、一つだけである。
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彼女は、その一つを、頭の中で組み立て直した。
——十二年前の証文に、三重の輪の組印があった。
——三年前のドワーフの証文にも、同じ印があった。
——同じ型の紙が、集めた十九枚のうち十四枚にあった。
つまり、あの紙はまだ無数にあるはず。
そして、その全部を保管しているのは、この大陸で一箇所だけである。
商都、ゴルドー商会本店。その帳場。
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……あの帳場に入れる人間は、限られている。
商会の者。取引先の代表。そして——債務者、及びその家族。
彼女は、目を閉じた。
王国の商慣行に、こういう定めがある。債務者は、自身の債務に関する帳簿の記載を、債権者の帳場において閲覧することができる。異議がある場合に備えてのものである。
ほとんど使われない権利だ。使えば、債権者の心証を害する。まともな債務者は、頼まない。
だが、書いてある。
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彼女は、その条文を、一字一句思い出せる。
十のときに読んだ、王国商業慣行録の第百三十七条。
父の帳場で、埃をかぶっていた本である。
……あの頃、彼女はそれを読んで、こう思った。
——この条文があれば、父は、あの人たちの帳簿を見ることができるのに。
父は、見なかった。
見れば、自分が何をされているかが分かってしまうからだ。
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彼女は、目を開けた。
馬車の窓の外を、暗い野が流れていく。
……あの街は、私がいなくても回る。
そのように設計している。私とタクミ様で。
だから、行ける。
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膝の上の帳面に、彼女は一行だけ書いた。
文字は、暗くて見えない。手の感覚だけで書いた。
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【二月二十日】
私は、帳簿上の資産としてではなく、デッドエンド領の担当者として南へ向かう。
以上。




