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第六十三区画「休職届は様式通りに出されるようです」

 二月二十日。


 その朝、俺が執務室に入ると、卓の上が、いつもと違っていた。


 いつもは、右の端に朝礼の予定表が一枚。それだけである。 


 この日は、書類が積んであった。しかも、きちんと綴じてある。


 ……セリアの綴じ方だ。二つ穴に、麻の紐。結び目は左上。この街の書類は、全部この形をしている。


「……なんだ、これ」


 俺は、一番上を手に取った。


  ◆◆◆◆


『引き継ぎ書』

 一、月次の締めの手順(全十七項)

 二、相場の算定要領(実績基準・改二以降)

 三、手形の監視要領(準備率、回転、券種別の残高)

 四、来場者台帳の集計方法

 五、苦情台帳の処理と月次見直しの段取り

 六、賃金の計算と支払いの手順

 七、備蓄と消費の見込み(四月まで)

 八、各種契約の期日一覧

 九、当面の予算案(三月・四月)

 十、その他、引き継ぎを要する事項(別紙・全四十一件)』


  ◆◆◆◆


 ……いつ書いたんだ、これを。


 俺は、頁をめくった。


 全部、丁寧に書いてあった。手順が番号で並び、注意書きが小さな字で添えてある。


「この計算は、必ず二度行うこと」


「この数字は、月末ではなく月の三日目に確定する」


「ノグに読ませる場合は、絵記号を添えること」


 ……引き継ぎ書というより、教本だった。三日や四日で書けるものではない。


 俺は、綴りの一番下まで、順にめくっていった。

 そして。


  ◆◆◆◆


 最後の一枚に、辿り着いた。薄い紙が、一枚。


 様式は、当領の書式に則っていた。彼女が作った書式である。


  ◆◆◆◆


『休職届』

  所属   デッドエンド領

  役職   財務最高責任者兼筆頭補佐官

  氏名   セリア・フォート・アークライト

  事由   私事

  期間   二月二十日より

  復職の見込み   不明

  王国暦一〇五一年 二月二十日』


  ◆◆◆◆


 ……追伸は、無かった。


 私信も、無かった。


 紙の裏を見た。何も書いていない。綴りの間に何か挟まっていないか、全部確かめた。無かった。


 完璧に、事務だった。


  ◆◆◆◆


 部屋を飛び出した。彼女の部屋の扉は、開いていた。


 中は、片付いていた。……いや、片付きすぎていた。


 寝台の敷布は畳んで、隅に重ねてある。卓の上は空。棚の書物は、全部背表紙が揃えられている。


 私物が、無い。


 ……この人が、この街に来た時に持っていたものは、少なかった。だから、無くなっても、部屋はほとんど変わらない。


 それが、余計に悪かった。


 卓の上に、一つだけ置いてあった。


 鍵である。


 執務室の鍵、金庫の鍵、書庫の鍵。三本が、紐で束ねてあった。


 ……返して行ったのか。


  ◆◆◆◆


 俺は、南門へ走った。


 夜番が、まだ引き継ぎの最中だった。


「ノグ! 記帳台の控えを!」


「あ、りょうしゅ! おはよう——」


「昨夜から今朝の分だ。全部見せてくれ」


 子ゴブが、慌てて台帳を差し出した。


 俺は、頁をめくった。


 ……あった。


  ◆◆◆◆


『二月二十日 夜明け前』


  氏名     セリア・フォート・アークライト

  所属     デッドエンド領 筆頭補佐官(休職中)

  どちらへ   南

  御用向き   私事

  同行者    馬一頭


  ◆◆◆◆


 ……記帳して、出て行った。


 自分で作った規則に従って。休職中と、わざわざ書いて。


「ノグ。この時、セリアは何か言ってたか」


「えっと……」


 子ゴブは、耳を伏せた。


「『書いておいてください』って」


「それだけか」


「うん。……あと」


 ノグは、少し考えてから言った。


「『門は、正面から出るものです』って」


 ……俺は、しばらく門柱に手をついていた。この子は、逃げなかったのだ。


 塀を越えることもできた。夜のうちに、誰にも見られずに出ることもできた。この街で一番、警備の穴を知っているのは彼女である。


 だが、正面から出た。


 記帳して。休職の届けを出して。引き継ぎを全部済ませて。鍵を返して。


 ……手続きを、一つも飛ばさずに。


  ◆◆◆◆


 半刻後、幹部が執務室に集まった。


 全員、顔を見た瞬間に事情を察していた。


「……追うぞ」


 最初にそう言ったのは、ザグだった。


「俺、行く。今から行く。足、速い」


「まて、ザグ」


「なんで!」


「南だ。領の外だ」


 俺の言葉に、ゴブリンの長が固まった。


「……ザグ、お前が南へ行って、王国の役人に見咎められたら、どうなる」


「……」


「ゴブリンが、無許可で王国の街道を歩いてる。それだけで、うちの領の話になる。血判状の第四条は、うちにも刃が向く条文だ」


「……じゃあ、領主は」


「俺も同じだ。いや、俺の方が悪い」


 俺は、正直に言った。


「除籍された伯爵家の三男が、実家の領地を通って、商都まで走る。……向こうが一番喜ぶ絵面だ」


  ◆◆◆◆


「じゃがな、領主どの」


 バルガスが、低く言った。


「あの娘は、一人で南へ行ったんじゃぞ。……あの商会の、膝元へ」


「分かってる」


「捕まったら、どうする」


「……」


「あの和解案の期限は、あと十日じゃ。向こうは、娘が一人で来るのを待っとったのかもしれん」


 ……その可能性は、俺も考えた。考えて、そして、否定した。


「いや。……セリアは、そういう考え方はしない」


「なぜ言い切れる」


「引き継ぎ書だ」


 俺は、卓の上の綴りを叩いた。


「四十一件の別紙まで付いてる。四月までの予算案が入ってる。……身を投げに行く人間は、四月の予算を作らない」


  ◆◆◆◆


 そこへ、リーフェが息を切らして駆け込んできた。


「領主様! ……セリア様が」


「知ってる。南へ出た」


「いえ、そうではなく。……これを、置いていかれました」


 彼女が差し出したのは、小さな包みだった。


 開けると、乾いた薬草と、細かい根。


 ……見覚えがある。


「これは」


「私が、あなたに調じている冬の煎じ薬です」


 リーフェは、困惑した顔で言った。


「昨夜遅く、セリア様が治療院にお見えになりました。そして、この薬の作り方を教えてほしいと」


「作り方を?」


「はい。分量と、煎じる時間と、飲ませる刻限を、全部書き取っていかれました。……そして、こちらを」


 彼女は、もう一枚の紙を出した。


 几帳面な字で、こう書いてある。


  ◆◆◆◆


『領主の就寝および起床の記録(五年分・要約)』

 平年の就寝の刻限、入眠までの平均、朝食を抜く傾向のある曜日、図面を引く際に休憩を取らなくなる時間の目安、疲労時に最初に出る兆候(右の肩を回す、眉間を押さえる)


 以上、引き継ぎます。

                   筆頭補佐官


  ◆◆◆◆


 俺は、その紙を、しばらく見ていた。リーフェが、静かに言った。


「私はセリア様に遠慮されているのだと思っていました」


「……」


「そして、それは、多分、間違っておりません」


 彼女は、その紙を大事そうに折った。


「ですが、セリア様はその相手に、引き継ぎをしていかれました」


  ◆◆◆◆


 昼過ぎ、俺は一人で執務室に戻った。


 卓の上に、引き継ぎ書の綴りが置いてある。


 ……俺は、それを最初から読み直した。


 全十七項の締めの手順。相場の算定要領。手形の監視要領。


 そして、四十一件の別紙。


 その三十八番目に、こう書いてあった。


  ◆◆◆◆


 三十八、私が不在の間、回転の速さを誰が数えるか

  現時点で、これを担える者はおりません。

  したがって、次のように分けてください。

  一、市場での使用回数の数え上げ——ガグ様(門と検量所の記録から拾えます)

  二、発行残高との割り算——ノグ(計算は簡単です。桁を間違えないよう、必ず二度)

  三、数字を見て判断すること——領主

  三つ目は、分けられません。

  数えるのは誰でもできます。それが何を意味するかを読むのは、あなたの仕事です。

  なお、四・〇を下回った場合は、死蔵が始まっています。

  その時は、ザグ様のお宅の木箱を、もう一度ご覧になってください。


  ◆◆◆◆


 ……俺は、その頁を、机に置いた。しばらく、動けなかった。


 セリアは、いなくなる準備をしながら、この街が回り続ける準備をしていた。俺がそうなってほしいと願っていたのと同様に。


 自分がいない間に何が起きるかを、全部想像して、一つずつ手当てをして。


 ……そして、最後の一項に、こう書いていた。


  ◆◆◆◆


 四十一、その他

  当領は、私がいなくとも回ります。

  そのように、設計いたしました。

  私とタクミ様で。


  ◆◆◆◆


 この子は、同じように思っていてくれたのだ。自分がいなくても回る街を作るのが、仕事だと。そのように設計するのだと。最初から。


  ◆◆◆◆


 夕方、俺は幹部を集めた。


「方針を言う」


 全員が、顔を上げた。


「追わない」


 場が、ざわめいた。


「領主どの——」


「今日は、だ」


 俺は、そこを強く言った。


「今、俺が飛び出したら、何が起きるか。……札は四枚。護衛も無し。実家の領地を通る。向こうの膝元へ、丸腰で走り込む。そして、うちの街には数字を読める人間が一人もいなくなる」


「……」


「向こうは、それを待ってる」


 俺は、卓を叩いた。


「あの使者は、期限を切った。わざわざ、教えてくれた。……なぜだと思う」


 ガリムが、恐る恐る手を挙げた。


「……焦らせるため?」


「そうだ。焦って動いた方が負ける、って型だ。三年前も、そうだった」


 バルガスが、深く息を吐いた。


「……初雪までに、じゃな」


「そうだ」


 俺は、頷いた。


「期限を切って、焦らせて、無理な形で判を捺させる。……あの商会は、それしかやらない。何年も前からそうやってきた。三年前も、今回もだ」


  ◆◆◆◆


「じゃあ、どうするんじゃ」


「準備する」


 俺は、紙を広げた。


「行く。それは決めた。……だが、勝てる形で行く」


 俺は、三つ書いた。


「一つ。遠征の編成。誰を連れて行くか、誰を残すか。留守を守る体制を作る」


「二つ。手札を揃える。四千二百枚の請求権。和解書第四条。薬の供給。……それと、集めてる紙の写しだ」


「三つ」


 俺は、三つ目を書いて、ペンを置いた。


「セリアが、何をしに行ったのかを、考える」


  ◆◆◆◆


「……何を、と申されますと」


「セリアはこの領を出ていったわけではない」


 俺は、はっきり言った。


「引き継ぎ書を四十一件も作って、四月の予算まで組んで、律儀に退職届まで残していった。……それは、戻ってくる人間の仕事だ」


 俺は、南の窓を見た。


「セリアは、仕事をしに行った」


  ◆◆◆◆


 夜。


 俺は、机の隅に手を伸ばした。


 白い紙が、一枚ある。


 二十日前の夜に書き出して、第二条で止まったままの紙だ。


  ◆◆◆◆


『雇用に関する契約書』

 甲 デッドエンド領 領主 タクミ

 乙 セリア・フォート・アークライト

 第一条(身分) 乙は、当領の筆頭補佐官である。

 第二条(業務) 乙の業務は、


   ◆◆◆◆


 ……あの日、俺はここで止まった。


 この人の業務が、書けなかったからだ。輪郭が無い。全部やっている。書きようがない。


 ……そう思っていた。


 俺は、引き継ぎ書の綴りを引き寄せた。


 全十七項。四十一件の別紙。


 ……ここに、全部書いてある。あの子は、自分の業務の一覧を、自分で作って置いていった。


 俺は、しばらくその二つを見比べていた。


 それから、ペンを取った。


  ◆◆◆◆


『第二条(業務) 乙の業務は、別紙に定める。

  別紙——引き継ぎ書(全十七項及び別紙四十一件)の記載による。』


  ◆◆◆◆


 ……書けた。二十日ぶりに、第二条が埋まった。

 俺は、その一行を、しばらく見ていた。


 ……ふざけた条文だな、と思った。


 業務の欄に「別紙による」と書いて、その別紙が、本人の書いた引き継ぎ書である。


 だが、これ以上正確な書き方は、どこにも無い。


 第三条を書き始めて——また、止まった。


『第三条(対価) 賃金は、』


 ……いくらだ。 俺はあの子に、いくら払えばいい。


 俺は、ペンを置いた。


 置いてから、笑った。少し、掠れた笑いだった。


 ……そうか。


 そこも、算定不能か。


  ◆◆◆◆


 俺は、その紙を折って、懐に入れた。置いていくつもりは、無かった。


 ……南へ持っていく。


 道中、考える時間はいくらでもある。第三条から先を、歩きながら書けばいい。


 そして、書き上がった頃には、本人に会えているはずだ。


  ◆◆◆◆


 同じ夜。ノルトールで馬を預けた後に、王国街道を南へ下り乗合馬車の隅で、一人の少女が、膝の上で帳面を開いていた。


 外は、闇である。ランプは無い。


 彼女は、書かずに、ただ開いていた。


 ……昨夜のうちに書くべきことは、全部書いてきた。


 引き継ぎ書。予算案。要領。薬の作り方。記録の引き継ぎ。


 書かなかったのは、一つだけである。


  ◆◆◆◆


 彼女は、その一つを、頭の中で組み立て直した。


 ——十二年前の証文に、三重の輪の組印があった。


 ——三年前のドワーフの証文にも、同じ印があった。


 ——同じ型の紙が、集めた十九枚のうち十四枚にあった。


 つまり、あの紙はまだ無数にあるはず。


 そして、その全部を保管しているのは、この大陸で一箇所だけである。


 商都、ゴルドー商会本店。その帳場。


  ◆◆◆◆


 ……あの帳場に入れる人間は、限られている。


 商会の者。取引先の代表。そして——債務者、及びその家族。


 彼女は、目を閉じた。


 王国の商慣行に、こういう定めがある。債務者は、自身の債務に関する帳簿の記載を、債権者の帳場において閲覧することができる。異議がある場合に備えてのものである。


 ほとんど使われない権利だ。使えば、債権者の心証を害する。まともな債務者は、頼まない。


 だが、書いてある。


  ◆◆◆◆


 彼女は、その条文を、一字一句思い出せる。


 十のときに読んだ、王国商業慣行録の第百三十七条。


 父の帳場で、埃をかぶっていた本である。


 ……あの頃、彼女はそれを読んで、こう思った。


 ——この条文があれば、父は、あの人たちの帳簿を見ることができるのに。


 父は、見なかった。


 見れば、自分が何をされているかが分かってしまうからだ。


  ◆◆◆◆


 彼女は、目を開けた。


 馬車の窓の外を、暗い野が流れていく。


 ……あの街は、私がいなくても回る。


 そのように設計している。私とタクミ様で。


 だから、行ける。


  ◆◆◆◆


 膝の上の帳面に、彼女は一行だけ書いた。


 文字は、暗くて見えない。手の感覚だけで書いた。


  ◆◆◆◆


【二月二十日】

 私は、帳簿上の資産としてではなく、デッドエンド領の担当者として南へ向かう。


                     以上。

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