第六十二区画「査定はできないようです」
二月十日の朝、相場板の前で、セリアが動かなくなった。
「タクミ様」
「どうした」
「……銀が、おかしいです」
彼女は、手元の書付を睨んでいた。
「昨日の聞き取りで、銀を『高い』と申告した方が、九名。……九名です」
「多いのか」
「異常です」
彼女は、はっきり言った。
「これまで、一日の申し立ては多くて四件。それも、出身と扱う品がばらけておりました。……昨日の九名は、全員が同じことを言っております。銀の値が、南で上がっていると」
「南で」
「はい。九名とも、南から来た商人です」
俺は、相場板を見上げた。
金、銀、銅の三段。毎朝、書き換えている数字。
……この板は、商人の申告を根拠にしている。
人数が揃えば、動く。
「セリア。九人分の申告を、真に受けたら、うちの銀の値は」
「二分ほど、上がります」
「上がると、どうなる」
彼女は、即座に答えた。
「当領が持っている銀が、高く評価されます。……そして、当領は今、手形の準備として、銀を相当量保有しております」
「準備が、水増しされる」
「はい」
……なるほど。
実に、綺麗な手だ。
銀の値を吊り上げれば、うちの金庫の中身は帳簿の上で膨らむ。準備が増えたように見えれば、うちは手形を多く発行できる。
そして——
「相場を、後で戻されたら」
「はい」
セリアの声が、低くなった。
「発行しすぎた手形だけが、残ります」
◆◆◆◆
その日の午後、俺たちは検量所の奥に籠もった。
卓の上に、この三月分の聞き取りの記録が積み上がっている。
「タクミ様。九名の名を、全て台帳と突き合わせました」
「結果は」
「……九名のうち、六名が、当領で一度も取引をしておりません」
俺は、顔を上げた。
「来場はしてるのか」
「はい。記帳台には名があります。ですが、記帳の『お求めの品』の欄が、六名とも空欄です。そして、検量所にも、宿にも、店にも、記録がございません」
「……買い物をせずに、相場の話だけして帰ったわけだ」
「はい」
「残りの三名は」
「取引はございます。ただし、いずれも一度だけ。それも、銅貨で少額の買い物を一つ」
……ああ。来たという記録だけを作りに来ているということか。
「セリア。相場の申告に、資格の条件はあったか」
「ございません。どなたの申告も、同じ重みで扱っております」
「それが、穴だな」
「はい」
彼女は、素直に認めた。
「設計が甘かったということです」
「いや。設計の話じゃない」
俺は、首を振った。
「この仕組みは、正直な市場でしか動かないんだ」
俺は、記録の山を叩いた。
「うちは、来る商人が正直だという前提で作った。実際、三月の間、それで問題なかった。……問題が起きたのは、わざと嘘を言いに来る奴が現れたからだ」
「……対策を、考えます」
「頼む。ただし」
俺は、一つだけ釘を刺した。
「申告を止めるのは、無しだ」
彼女が、顔を上げた。
「聞き取りをやめれば、この手は防げる。だが、そうしたら、うちの相場は誰の声も反映しなくなる。……ガルドラの石工が『銀が安すぎる』と言いに来た、あの日の値打ちが消える」
「はい」
「防ぎたいのは嘘だ。声じゃない」
◆◆◆◆
セリアが答えを持ってきたのは、その日の夜だった。
彼女は、二枚の紙を卓に並べた。
「二つ、ご提案がございます」
「確認しよう」
「一つ目。申告の重みを、取引の実績で決めます」
「重み」
「はい。これまで、どなたの申告も同じ一件として扱っておりました。……これを改めます」
彼女は、一枚目を指した。
「当領での取引の記録がある方の申告は、そのまま数えます。取引の記録が無い方の申告は、記録として残しますが、相場の算定には入れません」
「拒否はしないのか」
「いたしません」
彼女は、はっきり言った。
「拒否をすれば、『あの市場は都合の悪い声を聞かない』と言われます。……聞きます。書きます。ですが、重みが違います」
「なるほど」
「一年、二年と当領で商いをされた方の声は、重く。昨日初めて来られた方の声は、軽く。……これは、差別ではなく、実績です」
「二つ目は」
彼女は、二枚目を指した。
「そもそも、申告に頼るのをやめます」
「……やめる?」
「はい。相場の根拠を、実際に成立した取引の記録に置き換えます」
俺は、その紙を手に取った。
そこには、検量所の記録の集計が書かれていた。
この一月で、どの貨幣が、何枚、どの値で両替されたか。市場で、どの品が、いくらで売れたか。門の記帳台に、どの品目の需要が何件記録されたか。
「……全部、うちが持ってる数字だな」
「はい。当領は、聞かなくても、既に知っております」
彼女は、静かに言った。
「銀が本当に南で上がっているなら、南から来た商人は、銀を持ち込まなくなります。手元に置いて、南で売った方が得ですので」
「持ち込みの量に、現れる」
「はい。ですが、今月の南からの銀の持ち込みは、先月より一割増えております」
……つまり。
「南では、上がってない」
「はい。上がっているなら、持ってきません」
俺は、しばらくその紙を見ていた。
……見事だ。
言葉は、いくらでも作れる。九人を雇うのは、簡単だ。
だが、実際の商いは、作れない。
銀を持ち込むということは、その商人が本当に「ここで売った方が得だ」と判断したということだ。金を払って、荷を運んで、危険を冒して、ここまで来ている。
嘘をつくには、高すぎる。
「セリア。それ、一言でまとめると、なんだ」
彼女は、少し考えて、言った。
「——申告は、いくらでも作れます。ですが、成立した取引は、作れません」
◆◆◆◆
三日後、告示が出た。
◆◆◆◆
『相場の算定について(告示・改二)』
一、当市場の相場は、当市場において実際に成立した取引の記録を主たる根拠として定める。
二、商人からの聞き取りは、引き続きこれを行う。ただし、算定における重みは、当市場における取引の実績に応じるものとする。
三、取引の実績のない方からの申告も、記録には残す。ただし、算定には入れない。
四、算定の根拠となった取引の記録は、名を伏せた上で、毎月これを掲示する。
五、掲示の相場と、実際の取引の値とのずれは、従前どおり毎月公表する。』
◆◆◆◆
第三条を読んだ時、テオが唸った。
「……記録には残す、でございますか」
「そこが肝心だ」
俺は、頷いた。
「相場を動かそうとした九人の名前は、うちの台帳に永久に残る。……いつか、その九人が別の用事でうちに来た時に、この記録が効く」
「確かに効きますね……。そっくりそのまま、信用の証になりますから」
テオは、糸目を細めた。
「タクミ様。その台帳、そのうち大陸で一番怖い紙になりますよ」
◆◆◆◆
効果は五日で出た。
南から来る「申告だけの商人」が、ぱたりと止まったのである。
効いたのは、たぶん第四条だ。算定の根拠になった取引の記録を、毎月掲示する。
——つまり、誰の声が採用されたかが、見える。
採用されなかった側は、自分が数えられていないことを、掲示を見れば分かる。
「セリア」
「はい」
「……向こうも、これで諦めると思うか?」
「いいえ」
彼女は、即答した。
「この手が塞がったと分かれば、次の手に移るだけです」
「その通りだな」
◆◆◆◆
そして、その次の手が何なのかを、俺は既に知っていた。
先日、あの使者が言い残していったからだ。
——あなたが、そこにいないことを買いたいのです。と。
◆◆◆◆
その夜、俺は執務室で、一人で紙を広げていた。
……無意識だった、と言えば嘘になる。
半分は、意識してやっていた。仕事だと思ったのだ。
『CFO兼筆頭補佐官の不在による影響——試算』
俺は、そう書いた。
そして、下に項目を並べ始めた。
◆◆◆◆
一、帳簿および監査。
現在、月次の締めに要する日数——二日。
代替者による場合の推定——十日以上。誤りの発生を見込む必要あり。
二、相場の算定。
毎朝の決定、月次の突合、根拠の保存。
代替——不可。実績の集計を担える者が、当領に他にいない。
三、契約の起草および読み聞かせ。
代替——一部可(領主)。ただし領主の業務時間を圧迫する。
四、手形の発行残高の管理、準備率の監視。
代替——不可。
五、来場者台帳の集計、需要の分析。
代替——不可。
六、朝礼、苦情台帳、人員配置、予算……』
◆◆◆◆
書きながら、指が止まった。
……なんだ、これは。
俺は、セリアがいなくなった場合の損失を、項目ごとに数えている。
まるで、設備が一台壊れた時の影響を洗い出すみたいに。
俺は、その紙を、裏返した。
……気分が悪かった。
だが、しばらくして、俺はまたその紙を表に返した。
必要だからだ。
交渉というのは、こちらが何を失うかを正確に知っている側が勝つ。相手は、それを知っている。だから、うちも知らなければならない。
感情で守れるものは、何もない。
俺は、その紙に、また書き足し始めた。
◆◆◆◆
——扉が、開いた。
「タクミ様、明日の朝礼の——」
俺は、顔を上げた。
セリアが、戸口に立っていた。
そして、卓の上の紙を、見ていた。
……角度が悪かった。表題が、正面から読める向きになっていた。
『CFO兼筆頭補佐官の不在による影響——試算』
◆◆◆◆
時間が、止まったように感じた。
俺は、何か言おうとした。
……違うんだ。これは、そういう意味じゃない。
いや。
……そういう意味だ。
俺は、この子を、失った場合の損失として計算していた。それは事実だ。事実である以上、言い訳をするのは、もっと悪い。
「……セリア」
「失礼いたしました」
彼女は、ごく普通の声で言った。
「明日の朝礼の予定です。卓に置かせていただきます」
彼女は、書付を卓の端に置いた。
紙のことには、一言も触れなかった。
……見なかった振りをする、という選択も、この子はできる。
だが、それをしなかった。見た上で、触れなかった。
それが、一番きつかった。
「セリア。これは」
「必要な作業です」
彼女は、俺の言葉を遮った。
「率直に申し上げます。それは、あなたがなさるべき仕事です」
「……」
「不在の影響を測らずに交渉に臨む者は、必ず足元を見られます。……私が同じ立場でしたら、同じ紙を作ります」
彼女は、深く一礼した。
「では、失礼いたします」
◆◆◆◆
扉が、閉まった。
いつもと、まったく同じ音だった。
……いつもと同じ音だったのが、逆に、こたえた。
◆◆◆◆
その夜、俺は自室に戻ってから、しばらく寝台に座っていた。
……また、確かめたいことがあった。
やってはいけない、と思った。
人に対して、この目を使ったことは、ほとんどない。査定というのは、そういうものだ。値を付けるという行為は、値を付けていい相手にしかやってはいけない。
だが、俺は以前、無意識に見てしまった。
そして、今日、あの紙を書いた。
もう、やっているのだ。
……なら、最後まで確かめておけ。
俺は、目を閉じて、彼女のことを思った。
そして、開いた。
*
『セリア・フォート・アークライト——』
タグが、灯った。
そして、その後が、出てこなかった。
いつもなら、瞬きの間に数字が並ぶ。品位も、価値も、用途も、状態も。
何も、出ない。
しばらく待って——ようやく、続きが灯った。
『算定不能』
俺は、そのタグを、長いこと見ていた。
……ああ、やっぱり、そうか。
この目は、以前、見た時も、そう言った。
値を付けられないものだけを、この目は算定不能と呼ぶ。
そして今、ずっと隣にいた人間に対して、同じ答えを出している。
「……使えない眼だな、本当に」
俺は、そう呟いた。
声が、思ったより掠れていた。
◆◆◆◆
だが、……使えない、というのは、正確じゃない。
俺は、寝台の上で、少し考え直した。
この眼は、値を付けられるものには、必ず値を付ける。土地にも、鉄にも、薬にも、貨幣にも。
その眼が、彼女には付けられないと言っている。
……つまり、こうだ。
あの商会は、値の付かないものに、値を付けようとしている。
三千枚だの、二千枚免除だの、そういう紙を持ってきて。
俺は、立ち上がった。
寝るのはやめた。
「——そもそも、査定が、間違ってる」
◆◆◆◆
翌朝、俺は執務室で、昨夜の紙を再度見て、破ろうとした。
だが、結局、破りはしなかった。うちの領では、書いた紙を破らない。
控えとして残した上で、表題を書き換えた。
◆◆◆◆
『CFO兼筆頭補佐官の不在による影響——試算(不採用)』
備考——本試算は、前提を誤っている。当該人員は、代替の可否を論じる対象ではない。当領にとって、唯一無二の存在である。したがって、交渉においてこの数字を用いない。
王国暦一〇五一年 二月十四日 領主 タクミ
◆◆◆◆
これを、俺は書類綴りの一番上に入れた。
……セリアは、必ず見る。あの子は、全部の書類を見る。
言い訳をする気はない。謝る気もない。
俺は、紙で答えを出すことにした。この街の流儀で。
◆◆◆◆
その日の夕方。
彼女が、書類綴りを持って執務室に入ってきた。
いつも通りの顔で、いつも通りの手順で、書類を確認していく。
そして、一番上の紙のところで、指が止まった。
……止まった時間は、二呼吸ほどだった。
彼女は、何も言わなかった。
書類綴りを閉じ、いつも通りに次の報告を始めた。
「本日の手形の回転、四・四回。前日より〇・二回の増加です」
「……そうか」
「準備率、四割八分。規律内です」
「ああ」
「それから——」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
そして、初めて、俺の顔を見た。
「タクミ様」
「なんだ」
「その紙の書き方は、あなたらしいと思います」
それだけ言って、彼女は次の書類をめくった。
……この子は、こういうところが、本当に。
俺は、天井を見上げた。
「……セリア」
「はい」
「一つ、言っておく」
「どうぞ」
「あの商会の査定は、間違っている」
彼女の手が、止まった。
「向こうは、君に値を付けたつもりでいる。三千枚だの、二千枚免除だの。……あれは、間違いだ」
「……根拠は」
「この眼が、そう言ってる」
俺は、はっきり言った。
「鑑定眼は、この世で一番正確だ。……その眼が、君には値が出ないと言ってる」
「でも、鑑定眼はあくまで俺にしか分からない根拠だ。だから、査定が間違っていると決めたのは、最終的には俺だ。独断で悪いな」
セリアは、しばらく、こちらを見ていた。
いつもの、氷の目だった。
だが、その目が、ほんの少しだけ、揺れた気がした。
「……タクミ様」
「ん」
「それは、査定の失敗ではありませんか」
「そうだな」
俺は、笑った。
「ああ、失敗だ」
「良いのですか」
「何度考えても、結論は同じだったからな」
彼女は、何か言おうとして——やめた。
そして、深く一礼して、部屋を出て行った。
◆◆◆◆
その夜。自室で、彼女は誰にも見せない帳面を開いた。
【二月十四日】
相場の算定方式を、実績基準へ改めた。告示改二。効果は五日で出た。当面、あの手は封じられる。
以下、私事。
◆◆◆◆
本日、あの方は、私の不在の影響を試算した紙を、不採用とされた。
破らずに、控えを残し、表題を書き換えて、綴りの一番上に置いた。
私が必ず読む場所である。
……あの方は、口では何も仰らなかった。
紙で答えを出された。
この街の流儀である。私とあの方で作りあげてきた流儀である。
◆◆◆◆
なお、あの方は、私に鑑定の眼を用いたと仰った。
結果は、算定不能であったと。
私は、これについて、正確に記録しておく必要がある。
あの眼は、この世の全てに値を付ける。私はその働きを間近で見てきた。あの眼が価値を正確に出せなかったもの。
この領地であるデッドエンドがすぐに思いついた。
そして、私もこの領地と同様に計れない存在だということである。
◆◆◆◆
この事実を、どう扱うべきか。
私は、一刻ほど考えた。
結論として、科目三には計上しない。
理由を記す。あれは、あの方の眼の性質であって、あの方の意思ではない。眼が値を出さなかったことを、私の側の残高として計上するのは、過大計上にあたる。
監査を担う者が、自分に都合よく数字を積むことは、あってはならない。
したがって、計上しない。
……ただし。
本日の帳面に、事実として一行だけ記す。
あの方は最後の判断は、「俺が決めた」と言われた。そして、「何度考えても同じだった」とも。
これは、科目三に計上せざるを得ないと判断した。
◆◆◆◆
なお、私は本日、一つの決断を固めた。
まだ、誰にも申し上げていない。
あと数日、準備を整える。
……この帳面にも、まだ書かない。
書けば、揺らぐからである。
以上。




