第六十一区画「三年前の紙はまだ生きているようです」
夜明け前。
執務室の卓には、書類の山が三つできていた。
左が、二章の一件。真ん中が、アークライト家の証文の写し。右が集めた、ゴルドー商会に関わる紙の全部である。
徹夜明けの目に、蝋燭の光が痛い。
「タクミ様。お休みになっては」
「あと一つだけ確かめる。……バルガスを呼んでくれるか。それと、一族の年寄りを、覚えてる人を何人か」
「はい。何を確かめられるのですか」
「三年前の紙が、まだ生きてるかどうか」
◆◆◆◆
半刻後、執務室にドワーフが五人入ってきた。
バルガスと、老ドワーフのドルグ。回復食を考案した、検収番の男と、あとは一族の古老が三人。
俺は、卓に一枚を置いた。あの日の紙である。
◆◆◆◆
『委任状』
第一条(委任) 乙バルガスは、甲タクミに対し、仲買人ドレルとの間の王国暦一〇四七年一月八日付証文に関する交渉、無効の主張、商業ギルドへの申立て、その他本件に関する一切の行為を委任する。
第二条(範囲) 本委任は、前条の件のみに限る。甲は、本件のほかに、乙及びその一族に対し、何らの権利も主張しない。
第三条(対価) 乙は甲に対し、本委任の対価として、銅貨一枚を支払う。甲は、その受領をここに確認する。
第四条(報告) 甲は、交渉の経過を、その都度、乙に報告する。
第五条(取消) 乙は、いつでも、理由を問わず、本委任を取り消すことができる。
王国暦一〇五〇年 六月十五日
甲 タクミ・フォン・ローゼンベルク(署名・印)
乙 鉄鎚のバルガス(署名・印)
◆◆◆◆
「バルガス。この紙は、まだ生きてるか」
「……生きとるじゃろうな」
棟梁は、自分の判をしばらく見ていた。
「取り消しの手続きは、しとらん。期限も書いとらん。……ワシらの側から止めた覚えは、無い」
「もう一枚」
俺は、二枚目を置いた。
◆◆◆◆
『和解書』
第四条(申立ての留保) 丙タクミは、本和解が誠実に履行される限り、商業ギルド公証院への申立てを留保する。甲が本書に違反したときは、丙は直ちに申立てを行い、併せて甲及びその背後の商会の常習的規約違反の事実を公表する。甲はこれに異議を唱えない。
◆◆◆◆
これを見た瞬間、古老の一人が、身を乗り出した。
「……領主どの。これは、あの日の」
「そう、和解書の第四条」
「あの時、わしらは、これを『使わん条文』だと思うとった」
「使わずに済むのが一番いい条文だ……だが」
俺は、その一行を指した。
「使わずに済む、と、使えない、は違う」
◆◆◆◆
「バルガス。確認する。あの和解で、あんたたちが取り戻したのは何だ」
「金床七基。工具。それと、鍛冶を禁ずる条項の取り消しじゃ」
「取り戻せなかったものは」
棟梁が、口を開いて、閉じた。
答えたのは、古老の一人だった。
「……三年じゃ」
執務室が、静かになった。
「三年、鍛冶ができんかった。ワシらは、日雇いをやっとった。石を運んで、溝を掘って。……そういう三年じゃ」
もう一人が、続けた。
「わしの倅は、その三年で、鍛冶を諦めた。今は他所で馬方をしとる。……戻ってこん」
「工具も、半分は無くした。売った。食うために」
「峠で、死んどる奴もいる。冬に、無理して越えようとしてな」
……ああ。俺は、ペンを取った。そして、セリアが口を開く。
「全部、話してください」
「……なんじゃと」
「三年で失ったものを、全部です。一つ残らず」
◆◆◆◆
その日、俺とセリアは、ひたすら書き取った。
バルガスが話し、古老が補い、ドルグが日付を訂正し、そして時々、誰かが黙り込んだ。
三年前の冬の夜。証文に判を捺した日。金床が縄で縛られた朝。街道の日雇い。峠で死んだ人の名前。
途中で、若い衆が数人、部屋の外に集まってきた。ガリムもいた。
「……入っていいぞ」
彼らは、黙って壁際に座った。
自分たちの一族の三年を、他人が書き取っているのを、じっと見ていた。
◆◆◆◆
昼過ぎ、セリアがペンを置いた。
「……概算が、出ました」
彼女は、帳面を持ち上げた。
「順に申し上げます。まず、逸失利益。鍛冶を禁じられていた三年間に、本来得られたはずの稼ぎです」
「どう算定した」
「ガルドラでの、一族の直近三年の稼ぎの平均を基準としました。証言と、当時の取引先の名を突き合わせております。……二十七名、三年分で、金貨二千九百枚」
バルガスが、息を呑んだ。
「二千……」
「次に、金床七基。同等品を新造した場合の費用と、三年分の減価。四百二十枚」
「工具および設備。売却または喪失分。三百十枚」
「移動と、越冬に要した費用。百八十枚」
彼女は、そこで一度、間を置いた。
「そして——」
◆◆◆◆
「峠で亡くなられたお二人について」
部屋の空気が、変わった。
「本来であれば、算定すべきではありません。……人の命に、値は付きません」
セリアは、はっきりそう言った。
「ですが、法の場では、書かないものは、無かったことになります」
バルガスが、顔を上げた。
「ですので、私は扶養していた家族の、失われた生計として算定いたしました。……お二人が生きて働いていれば、家族が受け取れたはずの分です。命の値ではありません」
彼女は、静かに言った。
「三百九十枚。……この数字は、お二人の値打ちではございません。遺族の、失われた暮らしの額です」
誰も、何も言わなかった。
やがて、古老の一人が、掠れた声で言った。
「……嬢ちゃん」
「はい」
「その書き方でよい。……そう書いてくれて、ありがたい」
◆◆◆◆
「……全ての合計」
セリアは、帳面の最後の行を読み上げた。
「金貨、四千二百枚」
執務室が、静まり返った。
……三千枚。あの和解案の額面より、大きい。
「バルガス」
「……なんじゃ」
「これが、あんたたちが取り戻していない分だ」
棟梁は、その数字を、長いこと見ていた。
それから、ぼそりと言った。
「……ワシは、金床が戻った日に、全部済んだと思うとった」
「済んでない」
「……そうじゃな」
バルガスは、髭を撫でた。その手は少し震えていた。
「済んでは、おらんかったな」
◆◆◆◆
午後、俺は正式に依頼をした。
「バルガス。一族に取り計らって欲しい。この請求権を、デッドエンド領に譲渡してもらいたい」
「譲渡?」
「うちが、この四千二百枚を請求する側になる。……理由は二つある」
俺は、指を立てた。
「一つ。一族が個別に請求すると、二十七件の訴えになる。バラバラに潰される。うちがまとめて持てば、一つの大きな紙になる」
「二つ目は」
「……これを交渉に使いたい」
俺は、正直に言った。
「請求すると言ってるんじゃない。請求しないことを、交渉の材料にしたいんだ」
バルガスの目が、細くなった。
「金に換えると?」
「そうだ」
俺は、隠さなかった。
「あんたたちの三年を、俺は取引の札にする。……セリアのために」
◆◆◆◆
執務室が、静かになった。
……ここは、誤魔化してはいけないところだ。
この人たちの三年は、この人たちのものだ。それを俺が、別の目的のために使わせてくれと言っている。
どれだけ言葉を飾っても、やっていることはそれである。
「断ってくれて構わない」
俺は、そう言った。
「断られたら、別の手を考える。……時間はかかるが、無いわけじゃない」
……嘘だ。もう時間もない。この手以外にはない。でも、それでも、そう言わなければいけない。この領はそういう領なのだから。
◆◆◆◆
バルガスは、しばらく黙っていた。
それから、壁際の若い衆を振り返った。ガリムたちが、じっと座っている。
「……ガリム」
「はい」
「お前は、どう思う」
ガリムは、少し考えてから、言った。
「……あの、俺、崩落で埋まった時のことを、思い出してました」
「なんじゃと」
「あの時、領主どのは、俺たちを掘り出すのに、金の話を一言もしませんでした。人手を止めて、丸一日、掘りっぱなしでした」
彼は、顔を上げた。
「本来、あの日、俺たちの命は、どこにも残らない価値に過ぎないもので終わったはずです。でも、今はここにいる」
……よく覚えてるな、と思った。
「そして、今度は、俺たちの失われた三年が、アネゴさんを取り返すのに使われる。……これは正しいと思っています」
執務室に、低い笑いが起きた。ドワーフの笑いだった。
バルガスが、ふん、と鼻を鳴らした。
「……小僧のくせに、中々、良いことを言うわい」
◆◆◆◆
その夜、一族の集会が開かれた。俺は同席しなかった。当事者がいる場で決めることではないからだ。
半刻後、バルガスが一人で執務室へ来た。
「決まった」
「結果は」
「全会一致じゃ」
彼は、卓に一枚の紙を置いた。
一族二十七名の連署。委任状と、同じ並びである。
「一つだけ、条件がある」
「なんだ」
「あの金は、一枚も受け取らん」
俺は、顔を上げた。
「……なんだと?」
「請求権は譲る。じゃが、もし、金が入っても、ワシらは受け取らん。……受け取ったら、三年を売ったことになる」
「だが、あんたたちの———」
「領主どの」
バルガスは、遮った。
「ワシらは、金床を取り返してもらった側じゃ。あの日、お主は一銭も取らんかった」
「あれは仕事だ」
「そうじゃな。だから、これも仕事じゃ」
彼は、髭の奥で笑った。
「もし、金が入ったら、街に入れろ。……ワシらは、その街に住んどる。それで、充分に受け取っとる」
◆◆◆◆
同じ頃。セリアは、自室で別の作業をしていた。卓の上に、彼女が集めた紙の写しが並んでいる。
あの商人が持っていたアークライト家の証文の写し。ドレルの証文の写し。そして、この二月で商人たちから聞き取った、他の家の話。
俺が部屋に入った時、彼女は、その一枚を蝋燭にかざしていた。
「……何をしてる」
「印を見ております」
「印?」
「はい。組印です」
彼女は、俺に一枚を差し出した。
アークライト家の証文の写し。王国暦一〇三九年のものだ。
その隅、署名の下の、目立たない位置に、小さな印がある。三重の輪と、中に一本の縦線。
「……これは」
「ドレル氏の証文と、同じ組印です」
俺は、二枚を並べた。
同じだった。まったく、同じ印である。
「……待て。この証文は、一〇三九年だぞ」
「はい」
「十二年前だ」
「はい」
彼女は、静かに言った。
「十二年前から、私の家は、あの商会の帳簿に載っていました」
◆◆◆◆
俺は、その二枚を、しばらく見ていた。
……そういうことか。
三年前のドワーフの件。十二年前のアークライト家。同じ商会。同じ型の証文。同じ書き換えの手口。
……どちらも間に商会がいた。
「セリア」
「はい」
「一つ訊く。……証文の書き換えはどういう時に起きた」
「返せなくなった時です」
「返せなくなる前に、何かあったか」
彼女は、少し考えた。
そして、ゆっくりと、顔を上げた。
「……貸し増しが、ありました」
「貸し増し」
「はい。返済が滞る少し前に、必ず、追加の融資の申し出が来ております。『事業を立て直すために』と」
彼女は、書付をめくった。
「一〇四一年の春。一〇四三年の夏。一〇四五年の冬。……いずれも、桟橋が流れた直後です」
「桟橋が流れた直後に、向こうから貸しに来た」
「はい」
俺は、卓に手をついた。
……ぞっとする話だった。
「セリア。それは、助けに来たわけではない」
「……はい」
「返せない額まで、押し上げに来てるんだな」
◆◆◆◆
彼女は、しばらく黙っていた。それから、卓の上の写しに、そっと手を置いた。
「……私は、ずっと、父が愚かなのだと思っておりました」
声が、少しだけ低かった。
「なぜ断らないのか。なぜ、また借りるのか。……十のときから、帳場でそれを見ながら、そう思っておりました」
「セリア」
「父は、愚かでした。それは、事実です」
彼女は、顔を上げなかった。
「ですが、そう仕向けた者が、いたのですね」
◆◆◆◆
俺は、何を言うべきか、しばらく迷った。結局、事実だけを言うことにした。
「セリア。これは、君の家一軒の話じゃない」
「はい」
「ドワーフの一族も、同じ型でやられてる。三年前だ」
「はい」
「なら、他にもある」
彼女の目が、動いた。
「同じ型の紙が、大陸にいくつ転がってるか。……それが分かれば、この件は、借金の話じゃなくなる」
「……何の話に」
「商売と同じやり方の話になる」
俺は、二枚の写しを並べたまま言った。
「一軒の家が借金を返せない、ってのは、その家の落ち度だ。誰も同情しない。……だが、同じ手口で四十軒が潰れてるなら、それはまた別の話だ」
◆◆◆◆
セリアは、長いこと、その二枚を見ていた。
それから、静かに言った。
「タクミ様。……その紙は、どこにあると思われますか」
「向こうの帳場だろうな」
「はい」
「見せてはくれないだろう」
「はい」
彼女は、そこで一度、目を伏せた。
「……見せていただける方法が、一つだけございます」
「なんだ」
「いえ」
彼女は、首を振った。
「まだ、思いつきの段階です。……もう少し、整理させてください」
俺は、その時、深く考えなかった。
徹夜明けだったし、目の前にはドワーフの請求権という大きな札が乗ったばかりで、頭がそっちに向いていた。
……この夜、彼女が何を思いついたのか。
それを俺が知るのは、別の日の朝のことである。
◆◆◆◆
部屋を出る前に、彼女がふと言った。
「タクミ様」
「ん?」
「三年前の損失がまだ生きていた、と、聞いた時の皆さんのお顔を、見ておりました」
「バルガスたちか」
「はい。……あの方たちは、忘れていたのではなく、諦めていたのですね」
彼女は、蝋燭の火を見た。
「済んだことにしないと、暮らしていけない。だから、済んだことにする。……よく、分かります」
俺は、その横顔を見た。
……この子も、そうやって、実家のことを済んだことにしてきたのだ。毎年、頭の中で、実家の決算を続けながら。
「セリア」
「はい」
「済んでないぞ、まだ」
彼女の睫毛が、微かに動いた。
「……はい」
「まだ全部、残ってるんだ。だから、ゆっくりやっていこう」
彼女は、少しだけ笑った。
「……ええ。ゆっくり、やりましょう」
◆◆◆◆
翌朝の朝礼で、俺は一つだけ報告した。
「昨夜、岩山の一族から、正式に権利の譲渡を受けた。……三年前の件だ」
広場が、ざわめいた。
「金額を言う。金貨、四千二百枚」
どよめきが起きた。ゴブリンの子供らが「よんせん!?」と叫んでいる。
「使うかどうかは、まだ決めてない。……だが、うちの手札に、大きいのが一枚入った」
俺は、輪を見回した。
「それと、もう一つ」
俺は、そこで一度、間を置いた。
「今日から、うちの領は、紙を集める」
「かみ?」
「そうだ。うちの市場に来た商人が、どこかで妙な証文を掴まされた話を聞いたら、記録してくれ。写しを見せてくれるなら、なお良い。……当領は、そういう紙の話を、いつでも聞く」
「なんで、そんなもん集めるんじゃ?」
バルガスが訊いた。
俺は、南の空を見た。
「……同じ形の紙が、何枚あるかを数えたいんだ」
その日から、検量所の隣に、机が一つ増えた。
貼り紙は、一行だけ。
『妙な証文を掴まされた方は、こちらへ。写しを取らせていただけましたら、検めます。無料』
最初の週で、集まった写しは、十九枚だった。そのうち十四枚に、三重の輪の組印があった。




