第六十区画「請求は娘の身柄で来るようです」
二月一日。朝。
その男は、南門の記帳台の前で、既に不機嫌だった。
「だから、私は使者だと申している。ゴルドー商会、北方交渉役のマルドだ。取り次いでもらいたい」
「はい! おなまえ、かいてください!」
記帳台の当番は、今日はノグだった。台の上に木箱を積んで、その上に立って応対している。
「……子供が。名を書けと?」
「ぼく、けんりょうがた です!」
ノグが、胸を張った。任命状を懐から出して見せている。この三日、ずっとやっている。
「そういう話ではない。私は、貴領の領主に——」
「かいてください!」
「…………」
マルドという男は、しばらく無言で子ゴブリンを見下ろしていた。
それから、大きくため息をついて、筆を取った。
◆◆◆◆
『二月一日 朝
氏名 マルド
所属 ゴルドー商会 北方交渉役
どちらから 商都
御用向き 商談
お求めの品 なし』
◆◆◆◆
「けっこうです! ありがとうございます!」
「……用は済んだか」
「はい! あ、それと」
ノグは、にこにこしながら言った。
「うちの けんりょうしょ、みていってください。おもしろいです」
「結構だ」
「……そうですか」
子ゴブリンは、少し寂しそうに耳を伏せた。
……この後、マルドは、その検量所を見ることになる。
彼の意思とは、関係なく。
◆◆◆◆
その一報が上がってきたのは、四半刻後だった。
「タクミ様。……検量所で、少々」
「揉めてるのか」
「揉めております」
行ってみると、卓の前で、あの男が声を荒らげていた。
「王国の金貨だと言っている! 十枚だ! 十枚は十枚だろう!」
周りには、順番待ちの商人が十人ほど。全員が、生ぬるい目でその光景を見ていた。
……ああ。やったな、この人。
◆◆◆◆
事の次第は、単純だった。
マルドは宿を取ろうとした。宿代と厩の料を、王国の金貨で払おうとした。
番台が、いつも通りに言った。「では、検量いたします」と。
それだけである。
「なぜ測る必要がある。刻印を見ろ、王国の」
「はい。王国の金貨でございます」
セリアが、平坦に応じた。
「そして、当市場では、貨幣を枚数では換算いたしません。中に含まれる金の量で換算いたします」
「聞いたことがない」
「三月前から、そうしております」
……そして、検量が始まった。
ノグが、卓の上の十枚を、ちらりと見た。
そして、元気よく言った。
「ぜんぶ、ひかってます!」
「なんだと?」
「あ、えっと」
ノグは、慌てて言い直した。掟の三条を、この子は毎朝唱えている。
「ぜんぶ、はかります!」
◆◆◆◆
結果は、こうだった。
『王国金貨(新鋳) 金・七割。十枚』
「……お客様。こちらの十枚は、いずれもこの二年の鋳造でございます」
セリアが、品位表を卓に広げた。
「品位、七割。当市場での換算は、旧鋳の金貨に換算して、八枚と二分となります」
マルドの顔から、血の気が引いた。
「……二枚、消えたと言うのか」
「消えておりません。最初から入っておりませんでした」
「馬鹿な。王家の刻んだ金貨だぞ!」
「はい」
セリアは、まったく動じなかった。
「当市場は、いかなる国の貨幣についても、良し悪しを申しません。目方と、押しのけた水の量を、数字で書くのみです。……お疑いでしたら、その場で検量をご覧に入れます。無料でございます」
◆◆◆◆
その時、順番待ちの列から、しわがれた声が上がった。
「兄ちゃん、それ、恥ずかしいぞ」
振り返ると、ファルサから来た年寄りの行商だった。
「あんた、南から来たんだろ。南じゃまだ、そのままで通るのか」
「……通る。当たり前だ」
「ここじゃ通らん」
老人は、自分の財布から一枚出して、卓に置いた。
「わしのこれも、測ってもらった。額面より、一割四分高かった。二十年、財布の底に入れっぱなしだったやつだ」
「……高い?」
「そうだ。測れば、いい銭はいい値で買ってもらえる。悪い銭は、悪い値だ。……当たり前だろう」
列の商人たちが、うんうんと頷いた。
マルドは、その光景を、しばらく見ていた。
十人の商人が、当然のような顔をしている。異議を唱えているのは、彼一人である。
……そして、ここが一番効いたはずだ。
彼は、騙されたのではない。知らなかっただけである。自分だけが、この場で、田舎者だった。
◆◆◆◆
「……分かった。それで払う」
マルドは、絞り出すように言った。
「ありがとうございます」
セリアは、深く一礼した。
その顔には、勝ち誇ったところが一分も無かった。
……それが、たぶん、一番きつかっただろう。
◆◆◆◆
面談は、砦の執務室で行われた。
同席は、俺、セリア、そしてバルガスとザグ。二人には「立会人」として入ってもらった。
……本当は、別の理由もあったのだが、それは後で分かる。
「では、本題に入らせていただきます」
マルドは、革の筒から書状を取り出した。
顔は、すっかり商人のそれに戻っている。切り替えの早さは、さすがに一流の商会の使いだ。
「アークライト男爵家の債務について、当商会からの和解の提案でございます」
彼は、卓の上に一枚を置いた。
◆◆◆◆
『和解に関する提案』
一、アークライト男爵家の債務、金貨三千枚のうち、二千枚を免除する。
二、残額一千枚は、十年の分割払いとする。利は付さない。
三、右の対価として、アークライト男爵家の息女セリアを、当商会の指定する家へ嫁がせるものとする。
四、本提案の有効期限は、本日より一月とする。
王国暦一〇五一年 一月
アークライト男爵 ㊞
◆◆◆◆
執務室が、静かになった。俺は、その紙を、二度読んだ。三条。対価として。
……ああ。この書き方をするやつは、必ず地獄に落ちる。前の世界でも、そうだった。
「……ご当主の署名が、ございます」
マルドが、静かに言った。
「お父上は、既にご承諾されております。あとは、ご息女のご意向のみ」
◆◆◆◆
バルガスの手が、卓の縁を握りしめる音がした。木が、みしり、と鳴った。ザグは、動かなかった。だが、鍋兜の下の目が、俺の知っている中で一番冷たい色をしていた。
……そうだ。この二人に立会人を頼んだのは、こういう時のためでもある。
俺とセリアは、この場で顔色を変えるわけにいかない。変えた瞬間、交渉の主導権が向こうへ行く。
だが、誰も怒っていない部屋というのは、それはそれで異常なのだ。
だから、怒る役を、二人に引き受けてもらった。
◆◆◆◆
最初に口を開いたのは、セリアだった。
「拝見しました。写しを、一部いただけますか」
「……写し、でございますか」
「はい。当領では、受け取った書面は全て控えを残します。規程でございます」
彼女は、いつもの声だった。朝礼で予定を読み上げる時と、寸分違わない声。
「それと、いくつか確認をさせてください」
「どうぞ」
「一つ目。この三千枚の内訳を、お持ちですか」
マルドの動きが、一瞬止まった。
「……内訳、と申しますと」
「いつ、いくら貸し付けたか。その明細です」
「そちらは、本店の帳簿に」
「では、お持ちではないのですね」
「……この場には、ございません」
「承知いたしました」
セリアは、それを書き取った。そして、顔も上げずに、こう続けた。
「では、私から申し上げます」
◆◆◆◆
「王国暦一〇三九年、秋。金貨二百枚。父の代の、港の桟橋の修繕費です」
「……は?」
「一〇四一年、春。三百枚。桟橋が流れたため、再度」
「待ちなさい、あなた——」
「一〇四三年、夏。二百五十枚。同じく」
セリアは、帳面すら開いていなかった。卓の一点を見たまま、淡々と続けた。
「一〇四五年、冬。百五十枚。ここまでで、実際に我が家に入った現金は、累計九百枚でございます」
執務室が、静まり返った。
「残りの二千百枚は」
彼女は、そこで初めて顔を上げた。
「利息と手数料が、元本に組み入れられたものです。書き換えは、都合七度。一〇四七年の冬と、一〇四九年の春に、それぞれ大きな組み入れがございました」
マルドの額に、汗が浮いていた。
「……なぜ、あなたが」
「読みましたので」
「読んだ?」
「はい。十のときに」
彼女は、当然のように言った。
「家の帳場に出入りしておりました。父が留守の間、私が数えておりましたので」
◆◆◆◆
……この子は、時々、こういうことをする。
自分の家が壊れていく過程を、十歳の子供が、一人で数えていた。その記憶を、六年間、一字も落とさずに持っている。
「……マルド様」
「……はい」
「そちらの帳簿には、七度の書き換えの記録が残っているはずです。お持ちですか」
「……本店に」
「では、この金額の根拠を、あなたはこの場で示せないということですね」
「…………」
「承知いたしました。それも、書き取ります」
彼女の筆が、静かに走った。
◆◆◆◆
次は、俺の番だった。
「マルドさん。私からも、いくつか」
「……どうぞ」
「三条の『当商会の指定する家』というのは、具体的にどちらですか」
「それは、和解が成立した後に」
「成立した後に、指定すると」
「はい」
「では、この紙に判を捺す時点では、相手が誰か分からないわけだ」
マルドが、口を開いて、閉じた。
「四条。有効期限は一月。……期限を過ぎたら、どうなります」
「提案は、失効いたします」
「失効した後は」
「……本店の判断となります」
「つまり、もっと悪い条件が来る、と読んでいいですか」
「そのようなことは、申しておりません」
「申していない。だが、書いてもいない」
俺は、紙を指で叩いた。
「うちの領では、契約書に書いていないことを、一番よく読むんです」
◆◆◆◆
「最後に、一つだけ」
俺は、その紙を持ち上げた。
「マルドさん。あなたは今、うちの市場の中で商談をしていますね」
「……そうなりますが」
「うちの市場には、出店規約があります。読み上げます」
俺は、暗記している条文を、そのまま言った。
「第六条(禁止) 次の商いを禁ずる。一、人を売り買いすること」
執務室の空気が、変わった。
「……お待ちください。これは売り買いでは」
「三条にはこう書いてある。『右の対価として、息女を嫁がせる』」
俺は、その二文字を指した。
「対価。……人を、対価にしている。うちの規約では、これを商いとは呼びません」
「し、しかし、婚姻は」
「婚姻の話をしているなら、なぜ債務の額が対価の欄に書いてあるんです」
マルドは、答えなかった。
答えられるはずがない。この紙は、そういう風に書かれている。
◆◆◆◆
「マルドさん。本来なら、当領は、この場であなたに退去を命じることができます」
「……」
「ですが、そうしません」
俺は、紙を卓に戻した。
「二つ理由がある。一つ、あなたはこの紙を書いた人ではない。運んできただけだ。……運び手を罰する市場は、二度と使いを寄越してもらえなくなる」
「……もう一つは」
「この紙が、欲しいからです」
俺は、写しの方を指した。
「うちは、受け取った書面は全部残します。この提案書も、控えとして残る。……いつか、どこかで、必要になるかもしれない」
マルドの目が、わずかに動いた。
この男は、馬鹿ではない。今、俺が何を言ったのかを理解したのだ。
この紙は、証拠として保管される、ということを。
◆◆◆◆
面談が終わり、マルドが立ち上がった。戸口で、彼は一度だけ振り返った。
「……ご息女に、一つだけ、お伝えしておきます」
セリアが、顔を上げた。
「当商会は、あなたを買いたいのではありません」
「……では、何を」
「あなたが、ここにいないことを買いたいのです」
……やっぱり、そうか。
「本店の見立てでは、この領の強みは、竜でも、水でも、あの紙でもございません。……帳簿だそうです」
彼は、深く一礼した。
「では、失礼いたします。ご返答は、一月以内に」
◆◆◆◆
扉が閉まった。しばらく、誰も何も言わなかった。最初に口を開いたのは、バルガスだった。
「……領主どの」
「なんだ」
「あの紙は、三年前の紙と、同じ匂いがする」
「同じ奴だろうな」
「じゃろうな」
バルガスは、握りしめていた手を、ゆっくり開いた。卓の縁に、指の跡が残っていた。
◆◆◆◆
その日の夕方には、話は街中に広がっていた。誰が広めたわけでもない。この街は狭い。そして、耳のいい種族が二つもいる。
夕食の食堂は、いつになく静かだった。そして、俺が席を立とうとした時。ザグが、立ち上がった。
「領主」
「なんだ」
「カミに、書く」
食堂が、しん、とした。
「アネゴは、渡さない。……そう、カミに書く」
ゴブリンたちが、一斉に頷いた。ドワーフの卓から「そうじゃ!」と声が上がり、エルフの卓からも、静かな同意の気配がした。
……気持ちは、痛いほど分かる。
だが。
「ザグ。……悪い。それは、書けないんだ」
彼の耳が、跳ねた。
「なんで」
「うちの紙は、うちの中でしか効かない」
俺は、正直に言った。
「『アネゴを渡さない』とうちが書いても、商会は縛られない。よその国の裁きの場に持っていったら、『そちらが勝手に書いた紙ですね』で終わりだ」
「……じゃあ」
「相手を縛る紙は、相手に判を捺させないと書けない。……そして、あの商会は捺さない」
食堂が、重く沈んだ。
……そして、そこで。
「タクミ様」
セリアが、静かに言った。
「一つ、事実の確認をさせてください」
「ああ」
「そもそも私は、当領のいかなる紙にも、載っておりません」
◆◆◆◆
息を呑む音が、いくつも聞こえた。
「ゴブリンの皆様は覚書に。ドワーフの皆様は雇用契約に。エルフの皆様は移住契約に。店子の方々は出店規約に。……全員、どこかの紙に載っています」
彼女は、いつもの平坦な声で続けた。
「私だけが、載っておりません。ですから——」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「当領には、私を守る根拠が、一つもございません」
……昨夜、俺が第二条で止めた、あの紙。あれが、今、必要だった。昨日のうちに書いていれば。せめて、業務の欄を空欄のまま判だけ捺していれば。
「……セリア」
「事実の確認です。責めているのではありません」
彼女は、そう言って、席を立った。
「明日の朝礼の予定を、詰めて参ります」
◆◆◆◆
その夜。
俺は、幹部を執務室に集めた。全員、まだ食堂の空気を引きずった顔をしていた。
俺は、卓に紙を広げた。
「感情の話は、ここまでだ」
全員が、顔を上げた。
「今から、仕事の話をする」
俺は、ペンを取った。
「一月ある。……向こうは『返答は一月以内に』と言った。つまり、一月は動かないと、自分から言ったわけだ。……大した親切だな」
バルガスが、髭の奥で、初めて笑った。
「一月あれば、何ができる」
「たっぷりできる」
俺は、紙に三つ書いた。
「一つ。あの三千枚の額が、本当はいくらなのかを証明する。セリア、続きを頼めるか」
「はい。……ただし、私の記憶だけでは足りません。証明する紙は、向こうにしかありません」
「分かってる。そこは後で考える」
俺は、二つ目を書いた。
「二つ。こっちの請求書を作る」
「請求書?」
「三年前の話だ、バルガス」
棟梁の顔が、上がった。
「あんたたちが金床を七基取り上げられて、山を追われて、三年、鍛冶を禁じられた。……あれ、まだ精算してないよな」
「……精算」
「和解書の第四条を覚えてるか。申立ての留保。うちは、契約違反十一件を公表する権利を、まだ握ったままだ」
バルガスの目が、ゆっくりと見開かれた。
「……あの紙は、まだ、生きとるのか」
「生きてる」
俺は、はっきり言った。
「三年前の紙は、まだ生きてるんだ。……向こうが忘れてるだけでな」
◆◆◆◆
三つ目を書いて、俺はペンを置いた。
「三つ。あの商会が、どういう型で商売してるかを調べる」
「型」
「ドレルの証文。今度の和解案。……どっちも、同じ書き方をしてる。同じ奴だとバルガスに言った通りだ」
俺は、二枚の紙を並べた。
「同じ型で書かれた紙が、他にどれだけあるか。……それが分かれば、この件は一軒の家の借金の話じゃなくなる」
セリアが、静かに顔を上げた。
「……何の話に、なるのですか」
「今のところは何も決まってはいない」
俺は、窓の外の闇を見た。
南の空。商都の方角。
「だが、うちの街には、こういう時に読む紙が、山ほどある」
◆◆◆◆
その夜、執務室の灯りは、朝まで消えなかった。
……そして机の隅では、第二条で止まったままの紙が、一晩中、白いままで置かれていた。




