第五十六区画「銭が無いなら信用を刷ればいいようです」
その朝、俺は検量所で、妙なものを見た。
客がいる。荷もある。値も、折り合っている。なのに、取引が成立していない。
「……ですから、値には不服はねえんです」
ガルドラから来た石工の頭が、困り果てた顔で言った。
「鉄を、この値で買いたい。買いたいんですよ。……ただ、手元に銭が無い」
「売った分の代金は」
「王都の得意先が、まだ払ってくれねえんで。あっちも銭が無いんだと」
俺は、市場を見回した。人はいる。物もある。店も開いている。だが、銭だけが、無い。
この日、成立しなかった商談は、確認できただけで十一件。売り手も買い手も、値には納得している。銭が無いというだけで、十一件が流れた。
……これは、うちの懐の話じゃない。市場という生き物の、血が止まりかけている。
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執務室で、セリアが数字を並べた。
「当領の一月の売上は、十二月とほぼ同じ。むしろ僅かに増えています。……ですが、現金だけが減り続けています」
「原因は」
「三つです」
彼女は、指を三本立てた。
「一つ、良い貨幣が出てこない。皆、旧鋳の金貨は仕舞い込みます。払いに使われるのは薄い新鋳ばかり。二つ、掛けが増えた。『春に払う』という取引が、十二月の三倍です。三つ——」
そこへ、使いが上がってきた。商業ギルドの通達だという。
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『商業ギルド北方支部 通達
冬季の街道事情に鑑み、当分の間、北方三十里以遠を宛先とする為替の取扱いを見合わせる。』
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「……三つ目が、これです」
「セリア。去年の冬は、為替は止まったか」
「止まっておりません。この十年、一度も」
為替というのは、遠くへ銭を送る仕組みだ。現物の金を運ばずに、紙のやり取りで決済する。これが止まれば、遠隔地との商売は、金貨を積んだ馬車を冬の街道に走らせるしかなくなる。
そんな商人はいない。野盗の的だ。
「つまり」
「はい」
セリアが、静かに言った。
「当領は、大陸の決済の網から、切り離されました」
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その日の午後、俺は幹部を集めた。
「原因は三つある。だが、症状は一つだ。信用できる支払いの手段が、足りない」
俺は、卓に白い紙を一枚置いた。
「だから、作る」
「……何をじゃ」
「手形だ」
「て、がた」
バルガスが、渋い顔をした。
「領主どの。それは、紙に値打ちがあるという話か?」
「いや」
俺は、はっきり否定した。
「紙に値打ちはない。紙は、ただの紙だ」
「じゃあ、なんじゃ」
「値打ちがあるのは、この紙を持ってくれば必ず中身を渡す、という約束の方だ。紙は、その約束を書き留めたものにすぎない」
「……ようわからん」
そこへ、輪の隙間から、小さな声が上がった。
「りょうしゅ。……かみ、なんで、おかねに、なるの?」
記録係の子ゴブだった。
……よし。
こういう時、一番小さい奴に分かる説明ができなければ、その仕組みは失敗する。前の世界で、そう教わった。
「湯屋に行くだろう」
「いく!」
「上着を預けると、木札をもらうな」
「もらう。ばんごう、かいてある」
「その木札を持っていけば、上着が返ってくる。……木札そのものは、ただの木だ。焚き付けにもならない、小さな木の板だ」
「うん」
「だが」
俺は、指を一本立てた。
「必ず上着と換えてもらえる限り、あの木札は、上着と同じ値打ちがある。……手形も、同じだ」
子ゴブは、しばらく考えていた。
それから、言った。
「……じゃあ、うわぎ、かえさない ゆやだったら?」
場が、静まった。
……本当に、こいつらは、いい質問をする。
「木札は、ただの木に戻る」
俺は、正直に答えた。
「そして、その湯屋には、二度と誰も上着を預けない」
「…………」
「だから、必ず返すんだ」
◆◆◆◆
ザグが、鍋兜の下から、ゆっくり顔を上げた。
「……カミに、書く」
「そうだ」
「書いたことは、守る」
「そうだ」
「なら」
ゴブリンの長は、あっさり言った。
「なる。銭に、なる」
「待て待て、そう単純にはいかんじゃろう」
バルガスが手を振った。
「ワシらは領主どのを知っとる。じゃが、余所の商人は知らん。知らん相手の紙を、誰が受け取る?」
「いい質問だ。だから、裏付けを三つ用意する」
俺は、検量所の方角を指した。
「一つ目。桝と秤だ」
全員が顔を上げた。
「うちの市場は、三月やってきて、目方で客を騙したことが一度もない。貨幣の中身まで測って、良いものは高く、悪いものは正直に安く換算してきた。……大陸で、この市場だけがそれをやってる」
俺は、バルガスを見た。
「あんたの親の分銅がある限り、うちの秤は狂わない。秤が狂わない街の紙は、狂わない。商人は、そう考える」
「二つ目」
セリアが引き取った。
「アエルナには、毎月確実に入る金があります。区画の家賃、湯銭、宿代、両替の手数料、通行と厩の料。……天候にも戦にも左右されにくい収入です。手形は、この収入を裏に置きます」
「三つ目」
俺は、そこで一度、間を置いた。
「毎月、金庫の中身を全部公表する」
場が、ざわめいた。
「……公表、ですか」
「発行した手形が全部でいくらか。金庫に地金と良貨がいくらあるか。両方を毎月掲示して、刷り物にして配る。求められれば、金庫の中も検めさせる」
「そんなことをすれば、こちらの手の内が」
「全部見せる」
俺は、はっきり言った。
「紙の信用ってのは、隠して守るもんじゃない。開いて守るもんだ」
俺は、掲示板の方を見た。
「隠した金庫は、噂一つで取り付け騒ぎになる。中身が見える金庫は、噂が立っても、見に来れば済む」
……そうやって潰れた銀行を俺はも知っている。
◆◆◆◆
会議の後、セリアが一人残った。
「タクミ様。一つ、お願いがございます」
「なんだ」
「これを、決して『貨幣』とお呼びにならないでください」
……ん?
「呼び方の問題か」
「はい。そして、呼び方が一番大事です」
彼女は、卓に二つの語を並べて書いた。
『貨幣』『手形』
「貨幣を鋳ることは、王家の権限です。領主が貨幣を発行したと言われれば、それは僭称、最も重い部類の罪になります」
「……なるほど」
「ですが、手形は違います。手形は、私人の約束です。物を預かって、引換の証文を出しているだけ。商人なら誰でもやっていることです」
彼女は、ペンを置いた。
「呼び名は、盾です。……『貨幣』と呼んだ日から、これは謀反の道具になります」
俺は、その二文字をしばらく見ていた。
……なるほどな。
同じ物でも、どう呼ぶかで法の扱いが変わる。前の世界でも、契約書の表題一つで、まるで違う法律が適用された。
「分かった。徹底しよう。……ただ、セリア」
「はい」
「この紙が回れば回るほど、その盾は薄くなるぞ」
彼女の目が、わずかに動いた。
「……はい。使われれば使われるほど、実質は貨幣に近づきます」
「いつか、誰かが言う。『これは貨幣だ』と」
「はい」
「その時は」
「その時は」
彼女は、静かに言った。
「……別の盾を、探すことになります」




