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第五十六区画「銭が無いなら信用を刷ればいいようです」

 その朝、俺は検量所で、妙なものを見た。


 客がいる。荷もある。値も、折り合っている。なのに、取引が成立していない。


「……ですから、値には不服はねえんです」


 ガルドラから来た石工の頭が、困り果てた顔で言った。


「鉄を、この値で買いたい。買いたいんですよ。……ただ、手元に銭が無い」


「売った分の代金は」


「王都の得意先が、まだ払ってくれねえんで。あっちも銭が無いんだと」


 俺は、市場を見回した。人はいる。物もある。店も開いている。だが、銭だけが、無い。


 この日、成立しなかった商談は、確認できただけで十一件。売り手も買い手も、値には納得している。銭が無いというだけで、十一件が流れた。


 ……これは、うちの懐の話じゃない。市場という生き物の、血が止まりかけている。


  ◆◆◆◆


 執務室で、セリアが数字を並べた。


「当領の一月の売上は、十二月とほぼ同じ。むしろ僅かに増えています。……ですが、現金だけが減り続けています」


「原因は」


「三つです」


 彼女は、指を三本立てた。


「一つ、良い貨幣が出てこない。皆、旧鋳の金貨は仕舞い込みます。払いに使われるのは薄い新鋳ばかり。二つ、掛けが増えた。『春に払う』という取引が、十二月の三倍です。三つ——」


 そこへ、使いが上がってきた。商業ギルドの通達だという。


  ◆◆◆◆


『商業ギルド北方支部 通達

 冬季の街道事情に鑑み、当分の間、北方三十里以遠を宛先とする為替の取扱いを見合わせる。』


  ◆◆◆◆


「……三つ目が、これです」


「セリア。去年の冬は、為替は止まったか」


「止まっておりません。この十年、一度も」


 為替というのは、遠くへ銭を送る仕組みだ。現物の金を運ばずに、紙のやり取りで決済する。これが止まれば、遠隔地との商売は、金貨を積んだ馬車を冬の街道に走らせるしかなくなる。


 そんな商人はいない。野盗の的だ。


「つまり」


「はい」


 セリアが、静かに言った。


「当領は、大陸の決済の網から、切り離されました」


  ◆◆◆◆


 その日の午後、俺は幹部を集めた。


「原因は三つある。だが、症状は一つだ。信用できる支払いの手段が、足りない」


 俺は、卓に白い紙を一枚置いた。


「だから、作る」


「……何をじゃ」


「手形だ」


「て、がた」


 バルガスが、渋い顔をした。


「領主どの。それは、紙に値打ちがあるという話か?」


「いや」


 俺は、はっきり否定した。


「紙に値打ちはない。紙は、ただの紙だ」


「じゃあ、なんじゃ」


「値打ちがあるのは、この紙を持ってくれば必ず中身を渡す、という約束の方だ。紙は、その約束を書き留めたものにすぎない」


「……ようわからん」


 そこへ、輪の隙間から、小さな声が上がった。


「りょうしゅ。……かみ、なんで、おかねに、なるの?」


 記録係の子ゴブだった。


 ……よし。


 こういう時、一番小さい奴に分かる説明ができなければ、その仕組みは失敗する。前の世界で、そう教わった。


「湯屋に行くだろう」


「いく!」


「上着を預けると、木札をもらうな」


「もらう。ばんごう、かいてある」


「その木札を持っていけば、上着が返ってくる。……木札そのものは、ただの木だ。焚き付けにもならない、小さな木の板だ」


「うん」


「だが」


 俺は、指を一本立てた。


「必ず上着と換えてもらえる限り、あの木札は、上着と同じ値打ちがある。……手形も、同じだ」


 子ゴブは、しばらく考えていた。


 それから、言った。


「……じゃあ、うわぎ、かえさない ゆやだったら?」


 場が、静まった。


 ……本当に、こいつらは、いい質問をする。


「木札は、ただの木に戻る」


 俺は、正直に答えた。


「そして、その湯屋には、二度と誰も上着を預けない」


「…………」


「だから、必ず返すんだ」


  ◆◆◆◆


 ザグが、鍋兜の下から、ゆっくり顔を上げた。


「……カミに、書く」


「そうだ」


「書いたことは、守る」


「そうだ」


「なら」


 ゴブリンの長は、あっさり言った。


「なる。銭に、なる」


「待て待て、そう単純にはいかんじゃろう」


 バルガスが手を振った。


「ワシらは領主どのを知っとる。じゃが、余所の商人は知らん。知らん相手の紙を、誰が受け取る?」


「いい質問だ。だから、裏付けを三つ用意する」


 俺は、検量所の方角を指した。


「一つ目。桝と秤だ」


 全員が顔を上げた。


「うちの市場は、三月やってきて、目方で客を騙したことが一度もない。貨幣の中身まで測って、良いものは高く、悪いものは正直に安く換算してきた。……大陸で、この市場だけがそれをやってる」


 俺は、バルガスを見た。


「あんたの親の分銅がある限り、うちの秤は狂わない。秤が狂わない街の紙は、狂わない。商人は、そう考える」


「二つ目」


 セリアが引き取った。


「アエルナには、毎月確実に入る金があります。区画の家賃、湯銭、宿代、両替の手数料、通行と厩の料。……天候にも戦にも左右されにくい収入です。手形は、この収入を裏に置きます」


「三つ目」


 俺は、そこで一度、間を置いた。


「毎月、金庫の中身を全部公表する」


 場が、ざわめいた。


「……公表、ですか」


「発行した手形が全部でいくらか。金庫に地金と良貨がいくらあるか。両方を毎月掲示して、刷り物にして配る。求められれば、金庫の中も検めさせる」


「そんなことをすれば、こちらの手の内が」


「全部見せる」


 俺は、はっきり言った。


「紙の信用ってのは、隠して守るもんじゃない。開いて守るもんだ」


 俺は、掲示板の方を見た。


「隠した金庫は、噂一つで取り付け騒ぎになる。中身が見える金庫は、噂が立っても、見に来れば済む」


 ……そうやって潰れた銀行を俺はも知っている。


  ◆◆◆◆


 会議の後、セリアが一人残った。


「タクミ様。一つ、お願いがございます」


「なんだ」


「これを、決して『貨幣』とお呼びにならないでください」


 ……ん?


「呼び方の問題か」


「はい。そして、呼び方が一番大事です」


 彼女は、卓に二つの語を並べて書いた。


『貨幣』『手形』


「貨幣を鋳ることは、王家の権限です。領主が貨幣を発行したと言われれば、それは僭称、最も重い部類の罪になります」


「……なるほど」


「ですが、手形は違います。手形は、私人の約束です。物を預かって、引換の証文を出しているだけ。商人なら誰でもやっていることです」


 彼女は、ペンを置いた。


「呼び名は、盾です。……『貨幣』と呼んだ日から、これは謀反の道具になります」


 俺は、その二文字をしばらく見ていた。


 ……なるほどな。


 同じ物でも、どう呼ぶかで法の扱いが変わる。前の世界でも、契約書の表題一つで、まるで違う法律が適用された。


「分かった。徹底しよう。……ただ、セリア」


「はい」


「この紙が回れば回るほど、その盾は薄くなるぞ」


 彼女の目が、わずかに動いた。


「……はい。使われれば使われるほど、実質は貨幣に近づきます」


「いつか、誰かが言う。『これは貨幣だ』と」


「はい」


「その時は」


「その時は」


 彼女は、静かに言った。


「……別の盾を、探すことになります」

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