表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/29

第五区画「どうやら価値を算定できないものは多いようです」

 成人の儀から数日後。よく晴れた早朝のことだ。


 伯爵家の裏口には、荷馬車に毛が生えた程度のオンボロ馬車が一台、二頭の馬と共に停まっていた。俺の辺境行きを見送る者は、家族を含めて誰一人いない。


 俺は馬の首筋を撫でながら、呟く。


「お前ら、すまないが、よろしく頼む」


「ヒヒーン!」


 元気な馬たちだ。これなら、無事、死の土地まで辿り着けるだろう。


「さて、と。身軽なもんだ」


 トランクと手荷物を提げて乗り込もうとした、その時。


「……タクミ」


 か細い声に振り返ると、裏口の陰に、人目を忍ぶように立つ女性がいた。


 そこにいたのは、母——シルファ・フォン・ローゼンベルクだった。


 母は足早に歩み寄り、抱えていた包みを押し付けるように差し出してきた。厚手の外套と、小さな革袋。袋の中で硬貨が重たげな音を立てる。


「北は、ここよりずっと冷えますから。……それと、これは私の持参金から出したお金です。ですから、誰にも文句は言わせません」


「母上——」


「ごめんなさい」


 俺の言葉を遮り、母は深く頭を下げた。


「あの家で、私は……あなたを守るどころか、目を合わせることさえしなかった。母親らしいことを、何ひとつしてあげられなかった。今さら許してほしいとは言いません。ただ……どうか、生きて」


 ……ああ、知っている。


 後ろ盾を持たない彼女もまた、あの実力主義の館では、味方のいない『窓際』の住人だった。


 無能の烙印を押された息子を庇えば、次に居場所を失うのは自分。組織で生き延びるための処世術——前世で嫌というほど見てきた構図だ。責める気には、なれない。


「……ありがたく頂戴します。母上も、どうかご自愛ください」


 包みを受け取り、少しだけ迷ってから、俺は付け加えた。


「いつか、誰もが安心して休める都市を作ります。その時は——いい報告をしますよ」


 母は一瞬泣きそうに顔を歪め、けれど何も言わず、逃げるように館へ戻っていった。


 残された俺は、腕の中の包みを見下ろす。


 試しに【鑑定眼】を起動すれば、『魔獣毛の外套:市場価値・銀貨三十枚』『金貨五枚、銀貨二十枚』と、空中に無機質な査定文字が並んだ。


 まあ、資金としては、正直、焼け石に水の額だ。


(……妙だな。この荷物の本当の価値だけは、俺のスキルを持ってしても、算定できそうにない)


 俺は革袋を、事業資金とは別のポケットに仕舞った。この金は事業には使わない。——使えない。


  ◆◆◆◆


 時は、わずかに遡る。


 その日の未明。セリア・フォート・アークライトは、生家の自室で旅行鞄の紐を締めていた。


 アークライト男爵家の負債、金貨換算でおよそ三千枚。返済の原資、事実上皆無。


 そして三日前、父が持ち帰った「解決策」——娘を、祖父ほども歳の離れた好色な老貴族の後妻に差し出すこと。支度金という名の身売り代金は先方持ち。父はそれを「良縁」と呼んだ。


 その夜のうちに、私は逃亡計画の検討を終えていた。私の頭は、感情が波立っている時でも、冷たく回るみたいだった。


 王都へ赴き平民に紛れる案。教会に保護を求める案。国外へ出る案等々。——立案した三十七通りの計画は、追手の予算、手持ちの路銀、身元照会の網を変数に入れた瞬間、すべて成功率が許容値を割った。


 残ったのは、たった一つ。


 誰もが忌避し、追手を差し向ける費用対効果すら成立しない土地。実家の権力も伯爵家の目も届かない、地図の外側。


 ——辺境領デッドエンド。そして、その新しい領主。


(これは打算で、合理的判断です)


 鞄の紐を締めながら、自分に言い聞かせる。


 無能と蔑まれる領主の下でなら、実務はすべて自分が握れる。帳簿を管理し、支出を絞れば、きっと数年は生き延びられる。完璧に筋の通った、損得の計算。


 ……ただ一つ。私の帳簿には五年前から、どうしても計算の合わない項目が、記載されたままだった。


 泥に汚れた母のリボン。目の前に差し出された、真っ白なハンカチ。


 あの日の少年は、リスク管理だの賠償責任だの、損得の言葉ばかりを並べながら——損得にまるで合わない行動をした。


『——算定できないものを守れてよかったな、そのリボン』


 一言一句、違わず覚えている。忘れたくても、私の【絶対記憶トータル・リコール】は忘れ方を知らないのだ。


 洗って、火熨斗ひのしをかけて、返す機会を五年間計算し続けて——結局返せなかった白いハンカチは、今も鞄のいちばん奥に畳まれている。


 そして、数日前の成人の儀。広間の誰もが嘲笑う中、私は見ていた。父親の足元にすがって泣いていたあの人の呼吸が、五年前と同じように、まったく乱れていなかったことを。


 あの涙は演技。ならば、あの場で交わされた契約書は——。


(確かめるだけです。あの人が、あの死の土地で何をするつもりなのか)


 好奇心。淑女の家出の動機として、これほど不適切な言葉もない。だから私はそれを鞄のいちばん奥、ハンカチの隣に押し込んで、家を出た。


 東の空が白み始めた頃、伯爵家の裏口。オンボロ馬車に乗り込もうとする背中へ、声を投げた。


「——タクミ様。お待ちください」


  ◆◆◆◆


 振り返ると、旅行鞄を手にしたセリアが立っていた。艶やかな黒髪を一つにまとめ、相変わらず氷のように感情の読めない瞳で、まっすぐ俺を見ている。


「僭越ながら、このセリア・フォート・アークライト、タクミ様の辺境赴任に補佐官として同行いたします」


 ……なるほど、家出か。アークライト家の懐事情と縁談の噂は、俺の耳にも届いている。親の手が届かない最果ての地は、確かに最高の隠れ家だろう。


 そして俺にとっては、願ってもない拾い物だ。


 構想を実務に落とし込む財務責任者(CFO)兼プロパティマネージャーは、喉から手が出るほど欲しかった。彼女の演算能力と記憶力は、幼い頃から折り紙付きだ。


「歓迎するよ、セリア。これからよろしく頼む」


「……え。……ええ。よろしくお願いいたします」


 二つ返事の快諾に、セリアは一瞬拍子抜けした顔をし、すぐにいつもの涼しい表情へ戻って馬車に乗り込んだ。


 やがて馬車は王都を発ち、舗装もされていない街道をガタガタと北へ進み始める。


 向かいの席のセリアが、車窓を眺めたまま釘を刺してきた。


「タクミ様。あらかじめ申し上げますが、向かう先は魔物の跋扈する『死の土地』です。現地では無謀な真似はなさらず、大人しくしていてください。帳簿は私がなんとかごまかして、数年は細々と食いつなげるよう計算いたしますので」


 実質「お前は何もするな、私が管理する」という宣言である。頼もしい限りだが——いかんせん、スケールが小さい。


「帳簿のごまかし? そんなチマチマしたことはしないよ。数年後、あの土地は莫大な利益を生むこの世界の中心メガロポリスになるんだから」


「……現実逃避もそこまでになさってください。あの荒れ地で、一体何を——」


 呆れ顔の言葉が、ピタリと止まった。俺が膝の上に広げた羊皮紙——そこに描かれた図面を、目にしてしまったからだ。


「な……なんですか、これは」


 定規で引いたような真っ直ぐの街路。商業・工業・居住に色分けされた区画ゾーニング


 地下を這う上下水道の導線に、物流効率を極限まで計算し尽くしたメインストリート。この世界の誰も見たことのない『都市計画図マスタープラン』だ。


 生まれてから今日までずっと作り続けていた計画図面だ。こんな大規模かつ長期間の案件など初めてだ。


「俺たちの新しい領地の設計図さ。まずは強力なアンカーテナント——核になる住人を誘致して、インフラを一斉に整備する」


「あんかー……? いんふら、とは……?」


「安全で快適な『最高のハコ』さえ用意すれば、人と金は放っておいても集まってくる。俺たちはあそこで、世界一ホワイトな国づくりを始めるんだ」


 楽しげに図面をなぞる俺を見て、セリアがゴクリと喉を鳴らした。


 その瞳に浮かんでいたのは、得体の知れないものへの『怯え』か——それとも、彼女の心の奥の方にある『好奇心』だったのか。それは分からない。


 だが、もうオンボロ馬車は止まらず、砂埃を巻き上げ、一路、最果ての魔境デッドエンドへ向かっていく。


 前世で命を削った社畜デベロッパーの、二度目の人生を懸けた壮大な建国プロジェクトが、いま幕を開けようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ