第五区画「どうやら価値を算定できないものは多いようです」
成人の儀から数日後。よく晴れた早朝のことだ。
伯爵家の裏口には、荷馬車に毛が生えた程度のオンボロ馬車が一台、二頭の馬と共に停まっていた。俺の辺境行きを見送る者は、家族を含めて誰一人いない。
俺は馬の首筋を撫でながら、呟く。
「お前ら、すまないが、よろしく頼む」
「ヒヒーン!」
元気な馬たちだ。これなら、無事、死の土地まで辿り着けるだろう。
「さて、と。身軽なもんだ」
トランクと手荷物を提げて乗り込もうとした、その時。
「……タクミ」
か細い声に振り返ると、裏口の陰に、人目を忍ぶように立つ女性がいた。
そこにいたのは、母——シルファ・フォン・ローゼンベルクだった。
母は足早に歩み寄り、抱えていた包みを押し付けるように差し出してきた。厚手の外套と、小さな革袋。袋の中で硬貨が重たげな音を立てる。
「北は、ここよりずっと冷えますから。……それと、これは私の持参金から出したお金です。ですから、誰にも文句は言わせません」
「母上——」
「ごめんなさい」
俺の言葉を遮り、母は深く頭を下げた。
「あの家で、私は……あなたを守るどころか、目を合わせることさえしなかった。母親らしいことを、何ひとつしてあげられなかった。今さら許してほしいとは言いません。ただ……どうか、生きて」
……ああ、知っている。
後ろ盾を持たない彼女もまた、あの実力主義の館では、味方のいない『窓際』の住人だった。
無能の烙印を押された息子を庇えば、次に居場所を失うのは自分。組織で生き延びるための処世術——前世で嫌というほど見てきた構図だ。責める気には、なれない。
「……ありがたく頂戴します。母上も、どうかご自愛ください」
包みを受け取り、少しだけ迷ってから、俺は付け加えた。
「いつか、誰もが安心して休める都市を作ります。その時は——いい報告をしますよ」
母は一瞬泣きそうに顔を歪め、けれど何も言わず、逃げるように館へ戻っていった。
残された俺は、腕の中の包みを見下ろす。
試しに【鑑定眼】を起動すれば、『魔獣毛の外套:市場価値・銀貨三十枚』『金貨五枚、銀貨二十枚』と、空中に無機質な査定文字が並んだ。
まあ、資金としては、正直、焼け石に水の額だ。
(……妙だな。この荷物の本当の価値だけは、俺のスキルを持ってしても、算定できそうにない)
俺は革袋を、事業資金とは別のポケットに仕舞った。この金は事業には使わない。——使えない。
◆◆◆◆
時は、わずかに遡る。
その日の未明。セリア・フォート・アークライトは、生家の自室で旅行鞄の紐を締めていた。
アークライト男爵家の負債、金貨換算でおよそ三千枚。返済の原資、事実上皆無。
そして三日前、父が持ち帰った「解決策」——娘を、祖父ほども歳の離れた好色な老貴族の後妻に差し出すこと。支度金という名の身売り代金は先方持ち。父はそれを「良縁」と呼んだ。
その夜のうちに、私は逃亡計画の検討を終えていた。私の頭は、感情が波立っている時でも、冷たく回るみたいだった。
王都へ赴き平民に紛れる案。教会に保護を求める案。国外へ出る案等々。——立案した三十七通りの計画は、追手の予算、手持ちの路銀、身元照会の網を変数に入れた瞬間、すべて成功率が許容値を割った。
残ったのは、たった一つ。
誰もが忌避し、追手を差し向ける費用対効果すら成立しない土地。実家の権力も伯爵家の目も届かない、地図の外側。
——辺境領デッドエンド。そして、その新しい領主。
(これは打算で、合理的判断です)
鞄の紐を締めながら、自分に言い聞かせる。
無能と蔑まれる領主の下でなら、実務はすべて自分が握れる。帳簿を管理し、支出を絞れば、きっと数年は生き延びられる。完璧に筋の通った、損得の計算。
……ただ一つ。私の帳簿には五年前から、どうしても計算の合わない項目が、記載されたままだった。
泥に汚れた母のリボン。目の前に差し出された、真っ白なハンカチ。
あの日の少年は、リスク管理だの賠償責任だの、損得の言葉ばかりを並べながら——損得にまるで合わない行動をした。
『——算定できないものを守れてよかったな、そのリボン』
一言一句、違わず覚えている。忘れたくても、私の【絶対記憶】は忘れ方を知らないのだ。
洗って、火熨斗をかけて、返す機会を五年間計算し続けて——結局返せなかった白いハンカチは、今も鞄のいちばん奥に畳まれている。
そして、数日前の成人の儀。広間の誰もが嘲笑う中、私は見ていた。父親の足元にすがって泣いていたあの人の呼吸が、五年前と同じように、まったく乱れていなかったことを。
あの涙は演技。ならば、あの場で交わされた契約書は——。
(確かめるだけです。あの人が、あの死の土地で何をするつもりなのか)
好奇心。淑女の家出の動機として、これほど不適切な言葉もない。だから私はそれを鞄のいちばん奥、ハンカチの隣に押し込んで、家を出た。
東の空が白み始めた頃、伯爵家の裏口。オンボロ馬車に乗り込もうとする背中へ、声を投げた。
「——タクミ様。お待ちください」
◆◆◆◆
振り返ると、旅行鞄を手にしたセリアが立っていた。艶やかな黒髪を一つにまとめ、相変わらず氷のように感情の読めない瞳で、まっすぐ俺を見ている。
「僭越ながら、このセリア・フォート・アークライト、タクミ様の辺境赴任に補佐官として同行いたします」
……なるほど、家出か。アークライト家の懐事情と縁談の噂は、俺の耳にも届いている。親の手が届かない最果ての地は、確かに最高の隠れ家だろう。
そして俺にとっては、願ってもない拾い物だ。
構想を実務に落とし込む財務責任者(CFO)兼プロパティマネージャーは、喉から手が出るほど欲しかった。彼女の演算能力と記憶力は、幼い頃から折り紙付きだ。
「歓迎するよ、セリア。これからよろしく頼む」
「……え。……ええ。よろしくお願いいたします」
二つ返事の快諾に、セリアは一瞬拍子抜けした顔をし、すぐにいつもの涼しい表情へ戻って馬車に乗り込んだ。
やがて馬車は王都を発ち、舗装もされていない街道をガタガタと北へ進み始める。
向かいの席のセリアが、車窓を眺めたまま釘を刺してきた。
「タクミ様。あらかじめ申し上げますが、向かう先は魔物の跋扈する『死の土地』です。現地では無謀な真似はなさらず、大人しくしていてください。帳簿は私がなんとかごまかして、数年は細々と食いつなげるよう計算いたしますので」
実質「お前は何もするな、私が管理する」という宣言である。頼もしい限りだが——いかんせん、スケールが小さい。
「帳簿のごまかし? そんなチマチマしたことはしないよ。数年後、あの土地は莫大な利益を生むこの世界の中心になるんだから」
「……現実逃避もそこまでになさってください。あの荒れ地で、一体何を——」
呆れ顔の言葉が、ピタリと止まった。俺が膝の上に広げた羊皮紙——そこに描かれた図面を、目にしてしまったからだ。
「な……なんですか、これは」
定規で引いたような真っ直ぐの街路。商業・工業・居住に色分けされた区画
地下を這う上下水道の導線に、物流効率を極限まで計算し尽くしたメインストリート。この世界の誰も見たことのない『都市計画図』だ。
生まれてから今日までずっと作り続けていた計画図面だ。こんな大規模かつ長期間の案件など初めてだ。
「俺たちの新しい領地の設計図さ。まずは強力なアンカーテナント——核になる住人を誘致して、インフラを一斉に整備する」
「あんかー……? いんふら、とは……?」
「安全で快適な『最高のハコ』さえ用意すれば、人と金は放っておいても集まってくる。俺たちはあそこで、世界一ホワイトな国づくりを始めるんだ」
楽しげに図面をなぞる俺を見て、セリアがゴクリと喉を鳴らした。
その瞳に浮かんでいたのは、得体の知れないものへの『怯え』か——それとも、彼女の心の奥の方にある『好奇心』だったのか。それは分からない。
だが、もうオンボロ馬車は止まらず、砂埃を巻き上げ、一路、最果ての魔境デッドエンドへ向かっていく。
前世で命を削った社畜デベロッパーの、二度目の人生を懸けた壮大な建国プロジェクトが、いま幕を開けようとしていた。




