第五十四区画「冬の宿場は満室のようです」
十二月十日。この日の宿の帳場は、朝から同じ言葉を繰り返していた。
「申し訳ございません。本日、満室でございます」
二十三から二十四まで、全部埋まっている。それも三日連続でだ。
「……セリア。これ、想定と比べてどうだ」
「想定を大幅に上回っています」
彼女は帳面を開き、いつもの平坦な声で読み上げた。
「開業前の試算では、冬季の宿泊は月に四十泊程度と見込んでいました。十二月は、本日までの十日間で、既に九十八泊です」
「四倍か」
「はい。理由は明白です。街道が、閉まったからです」
◆◆◆◆
北方の冬は、道を消す。
雪が積もれば荷馬車は動かない。峠は塞がり、川は凍り、隊商は立ち往生する。
その時、彼らはどうするか。どこかで、春を待つのだ。
そして、この大陸の北で、冬に「待てる場所」は、ほとんど無い。
「宿泊代、湯銭、食事代。それから、馬の飼葉と、厩の使用料。車輪と車軸の修理。荷の保管料」
セリアの指が、帳面の上を滑っていく。
「十日間の合計、金貨で六十一枚。……開業月の十一月が、丸一月で九十枚でしたので」
「冬の方が、稼いでるのか」
「そうなります」
俺は、思わず笑った。
「冬は、敵じゃない。商品だ、そう言ったのが本当になるとはな」
「不思議なものです」
「言ってみるもんだな」
◆◆◆◆
冬営地としてのアエルナは、思っていた以上に、よく回った。
止まった隊商には、時間がある。時間がある客は、金を使う。
鍛冶直売所では、この冬で車輪の鉄輪を三十七本打ち直した。薬局は、凍傷と、乾いた咳と、しもやけで連日いっぱいだ。酒蔵の樽出しは、初日で二樽が空いた。
そして、湯屋である。
「領主どの。湯屋の売上を見てくれ」
バルガスが、珍しく興奮した顔で帳面を持ってきた。
「十日で、湯銭だけで金貨八枚じゃ。北の湯はタダで入れるのに、こっちには銭を払う客が並んどる」
「北の湯は、うちの民のものだからな。旅の客は、こっちだ」
「じゃがな、あの連中、一日に二度も三度も入るんじゃぞ。……雪の中を歩いてきた人間にとって、湯というのは、そういうものらしい」
……そうだろうな、と思う。
前世でも、冬のスキー場の温泉旅館は、宿泊料より風呂で客が来ていた。人間が湯に払う金の額は、結局、その場で求められているかどうか、その一点に尽きるのだろう。
◆◆◆◆
もう一つ、予想外だったのが、獣人たちである。
十一月の開業日に「東の風が旨い」と言って現れた、あの一団。彼らはファルサの香料商だが、南へ帰る途中で雪に捕まり、そのまま越冬を決めた。
率いているのは、ミルザという名の女だった。背が高く、耳と尾があり、口が悪い。
「宿代が高い」
「相場です」
「……ダメか。高くはないな。悔しいが、妥当だ」
「ありがとうございます」
「その代わり、うちの香辛料を食堂に置け。売れる」
これが、当たった。
ファルサの南方香料、赤い粉と、黒い実と、乾いた葉。これを食堂の煮込みに使ったところ、その日のうちに評判が立った。
「あったかい! なんか、腹の中があったかい!」
「これ、雪の日に効くぞ!」
子ゴブリンたちが騒ぎ、ドワーフが「酒に合う」と言い出し、エルフが「薬効がある」と分析を始めた。
三日後には、食堂の献立に『香辛の煮込み』が正式に載った。
「ミルザさん。この香辛料、うちで買い取りたい。定期で」
「ふん。……北の連中は、辛いものを食わないと聞いていたが」
「寒い土地ほど、辛いものが売れるものです。まだ、この王国で文化として、根付いていない。それだけの話でしょう」
ミルザは、片眉を上げた。
「妙な言い方をする男だな」
……あまり、喋りすぎないように気をつけよう。
◆◆◆◆
その日の午後、俺は執務室で工事の帳面を睨んでいた。
冬の間に片付けたいことが多すぎる。建具の直し、雪下ろしの当番編成、来春の河港の予備調査、それから——
「領主様。失礼いたします」
リーフェだった。薬箱を提げている。
「治療院の報告か」
「いいえ。……本日は、あなたの診察に参りました」
「俺の?」
「はい」
彼女は、返事も待たずに卓の前まで来ると、俺の手首を取った。
あまりに自然な動作だったので、抵抗する暇もなかった。細い指が、脈に当たる。
「……脈、速いです」
「働いてるからな」
「座って書き物をしていて、この速さは、働いているとは申しません」
彼女は、俺の目を覗き込んだ。
「眠りが浅いですね。冬に入ってから、夜半に執務室の灯りが点いていた日が、四日あります」
「……数えてたのか」
「はい」
即答だった。
「十一月一日から、毎晩、数えております。灯りが消えた刻限も、朝、あなたが最初に食堂へ来られた刻限も」
……この人は。
「リーフェ」
「はい」
「それは、少し、その」
「気味が悪い、と仰りたいのですね」
「いや、そういうわけでは」
彼女は、まったく怯まなかった。
「構いません。医の者は、気味が悪いものです。……ですが、これは私の仕事です」
彼女は薬箱から、小さな包みを出した。乾いた葉と、細かい根。
「冬用の煎じ薬です。眠りを深くします。眠くなる薬ではありません、眠りの質を上げる薬です。夜、寝る前に湯で」
「……ありがとう」
「お礼は結構です」
リーフェは、薬箱の蓋を閉めた。
そして、まっすぐ俺を見て、こう言った。
「領主様。私は、あなたに命を拾っていただきました。氏族五十二名、一人も欠けずに、です。……ですから、これは恩返しではありません」
「じゃあ、何だ」
「担当です」
彼女は、静かに言った。
「この街には、水を見る者がいて、火を見る者がいて、石を見る者がいます。銭を見る方も、いらっしゃいます。……ですが、あなたを見る者が、いませんでした」
「…………」
「ですから、私が引き受けます。あなたの身体は、私の担当です。……この街で一番大事なものを、誰も点検していないというのは、あなたの言葉を借りれば、管理の失敗でしょうから」
……返す言葉が、なかった。
「分かった。承認する」
「ありがとうございます。では、月に一度、診察を」
「三月に一度で」
「月に一度です」
「……月に一度で」
◆◆◆◆
その時、扉が開いた。
「タクミ様。両替の相場を——」
セリアだった。
彼女は、俺の手首を取ったままのリーフェを見て、一瞬、動きを止めた。
ほんの一瞬である。まばたき二つ分。普通は気づかない。
だが、俺は、ずっと、この子の顔を見てきた。
「診察だ。うちの院長が、俺の身体を担当してくれるらしい」
「……そうですか」
セリアは、いつも通りの声で言った。
「良いことだと思います。領主の健康は、当領の最重要資産ですので」
「同じようなことを言われたよ、さっき」
「はい。私も、そう記録しております」
彼女は、帳面を軽く持ち上げた。
「就寝の刻限と、起床の刻限。食事の量。執務時間。……私の日誌にも、共にしてからこれまでの記録がございます」
「……そうか」
「はい」
リーフェが、その言葉に、目を丸くした。
「まあ。……では、セリア様の記録と、突き合わせをさせていただきたく」
「どうぞ」
「大変助かります。私の記録は、まだ一月と少しですので。……ですが」
リーフェは、悪気なく、本当に悪気なく、こう続けた。
「お身体のことは、私の方が正確でしょう。——医の者ですので」
部屋の温度が、半度ほど下がった気がした。
セリアの表情は、まったく変わらなかった。
「……ええ。そうですね」
彼女は、両替の相場表を卓に置いて、静かに一礼し、出て行った。
扉が閉まる音は、いつもと同じ大きさだった。
……いつもと、まったく同じ大きさだったのが、逆に妙だった。
◆◆◆◆
「リーフェ」
「はい」
「一つ、言っておく。……その『担当』ってのは、程々にしてくれ」
彼女は、きょとんとした顔をした。
「あなたの一族は、もう保護される側じゃない。俺に礼を返す義務なんて、どこの紙にも書いてない」
「……ええ。書いてありません」
リーフェは、静かに頷いた。
「ですから、これは契約ではないのです。契約でなくてもすることを、私は初めて、自分で選びました」
「……」
「あの規程には『対価を求めない』と書いてありました。あれを読み上げていただいた日から、私はずっと考えておりました。——対価を求められないのなら、私は何を返せばいいのだろうと」
彼女は、薬箱を抱え直した。
「答えが、出ました。返すのではなく、こちらから始めるのです。私が勝手に始めて、あなたが勝手に受け取る。それなら、貸し借りになりません」
……全く、この人は。どうも、うちの規程を、俺より深く読んでいるらしい。
「分かった。好きにしてくれ」
「はい。月に一度で」
「……月に一度でな」
◆◆◆◆
十二月の宴の日は、雪で延びて、この日の夜になった。
生活区画管理規約、第二条。夜の鐘から朝の鐘までは静かな時間とする。ただし、月の初めの一夜を「宴の日」とし、この限りでない。あの条文である。
今夜は、その特例の夜だ。
支度の最中、俺は妙なものを見た。
厨房の裏で、エルフの娘たちがセリアを取り囲んでいたのである。
「セリア様、これを。銀葉の宴の飾りです」
「……私は、宴の当番ではありませんので」
「当番の話ではありません。祭りですので」
押し切られたらしい。しばらくして広場に出てきた彼女の耳の上には、白い小さな花の細工が留められていた。造花である。冬のこの土地に、生花はない。
俺は、正直に言った。
「似合ってる」
彼女は、こちらを見ずに帳面を開いた。
「……本日の宴の予算は、金貨二枚と銅貨三十でございます」
「聞いてないぞ、そんなことは」
「報告事項ですので」
耳の先が、篝火の色より少しだけ赤かった気がしたが、それは火のせいかもしれなかった。
センター広場は、人でいっぱいだった。うちの民が百十三人。それに、足止めを食らっている隊商の客が、五十人以上。
篝火。灯り茸の行灯。香辛の煮込みの匂い。樽から直に注がれる酒。
そして、音楽である。
ガリムの笛が旋律を出し、獣人が革張りの太鼓を叩き、ドワーフが足を踏み鳴らし、エルフが高い声で唱和する。ゴブリンは、なんというか、全力で叫んでいる。
滅茶苦茶だった。調も拍も揃っていない。
なのに、なぜか、踊れる。
「タクミ様。あれは、音楽と呼んでよろしいのでしょうか」
「呼ばなきゃ、あいつらに失礼だろう」
◆◆◆◆
最初に踊り始めたのは、子供たちだった。
次に獣人。ミルザが「北の連中は、腰が固い」と言って、ドワーフの若い衆を引きずり出す。ドワーフが踊ると、地面が揺れた。
「りょうしゅ! りょうしゅも!」
子ゴブリンが三匹がかりで俺の手を引いた。
「待て、待て。俺は踊れない」
「アネゴも!」
「私は結構——」
結構、と言い終わる前に、うちのCFOも引きずり出されていた。
◆◆◆◆
結果として、俺とセリアは、篝火の脇で向かい合うことになった。
周りは全員、勝手に踊っている。誰も見ていない。というより、全員が自分の踊りに忙しい。
「……どうします」
「どうする、と言われてもな」
「タクミ様は、踊れますか」
「前の世界の踊りなら。……立食のパーティーで壁際にいる技術は、一流だった」
「それは踊りではありません」
「そっちは」
「一応、教養として」
セリアは、少しだけ顎を上げた。
「男爵家の娘ですので。十歳まで、教師が付いておりました」
「……習ってたのか」
「はい。ですので、私が導きます」
そう言って、彼女は俺の手を取った。
……手が、冷たかった。
この子は、いつも手が冷たい。五年前の裏庭でも、そうだった。
「右足から。……いえ、逆です。私の右足と、あなたの右足がぶつかります」
「難しいな」
「難しくありません。相手を見て、半拍遅れて動くだけです」
俺は、言われた通りにやってみた。盛大に踏んだ。
「痛いです」
「すまん」
「もう一度」
二度目は、少しマシだった。三度目で、なんとか形になった。
周りの喧騒は、ずっと続いている。笛と太鼓と叫び声。火の粉が、雪の残る地面の上を舞っていく。
そして四度目の途中で、セリアがふと、俺の足元を見て言った。
「……足の運びが、矛盾しています」
俺の動きが、止まった。
「タクミ様?」
「……いや」
俺は、笑った。
「五年前にも、言われたな。それ」
彼女が、はっとした顔をした。
五年前の、伯爵家の裏庭。泥に汚れたリボンを拾った十歳の少女が、俺に向かって言った最初の言葉。
——あなたの動線は、矛盾しています。
「……失礼しました。癖です」
「いい癖だ。おかげで、俺は今ここにいる」
セリアは、何か言おうとして、やめた。
それから、俺の手を少しだけ強く握って、次の一歩を導いた。
……その握り方が、教本に載っているものかどうかは、俺には分からなかった。
◆◆◆◆
曲が変わって、俺たちは輪から外れた。
篝火の脇で、ミルザが杯を傾けながら、こちらを見ていた。
「北の領主。お前、鈍いな」
「……何の話です」
「何でもない」
彼女は、耳をひくつかせた。
「鼻が利く一族なんでな。……匂いで分かることは、口で言わん決まりだ」
そう言って、彼女は杯を空け、輪の中へ戻っていった。
……獣人の作法は、時々、心臓に悪い。
◆◆◆◆
宴が終わったのは、真夜中だった。
全員が引き上げた後、俺とセリアは、執務室で月次の締めをやっていた。
鋳鉄の炉が、赤く光っている。灯り茸の行灯が、卓の上に一つ。
「宿泊、九十八泊。湯銭、八枚と銅貨四十。食堂は……」
「セリア」
「はい」
「明日でいいぞ、それ」
「明日は明日の分がございます」
……この子は、こういうところは、絶対に折れない。
結局、二人で夜半まで数字を並べた。
途中から、彼女のペンが遅くなった。
そして、ある行を書きかけたまま、止まった。覗き込むと、寝ていた。
卓に頬をつけて、帳面の上に手を置いたまま。
……無理もない。今日は朝から満室の帳場と、宴の準備と、月次の締めだ。
俺は、椅子の背に掛けてあった自分の外套を取って、その肩に掛けた。
それから、灯りを少し落として、炉に薪を一本足した。
部屋を出ようとして、足を止めた。
外套の下で、彼女の指が、少しだけ動いた気がしたからだ。
……起きているのかもしれない。
だが、確かめる無粋はしなかった。
「おやすみ」
俺は、そう言って、扉を閉めた。
◆◆◆◆
扉が閉まった後。
セリア・フォート・アークライトは、しばらく目を閉じたまま、動かなかった。
肩の外套が、重かった。
……重い、と思った自分に、彼女は少し驚いた。重さを不快と感じたことは一度もないのに、今夜のそれは、確かに重かった。
彼女は、ゆっくりと起き上がった。
そして、外套を丁寧に畳んで椅子に戻し、それから、なぜか、もう一度手に取って、しばらく膝の上に置いた。
◆◆◆◆
その夜。自室で、彼女は誰にも見せない帳面を開いた。
【十二月十日】
宿泊九十八泊。湯銭八枚と銅貨四十。冬営地としての収益は、想定の四倍。当領は、冬に強い。
当初の想定を修正する。冬季は閑散期ではない。繁忙期である。
以下、私事。
◆◆◆◆
本日、リーフェ様が、タクミ様の診察を始められた。
これは、当領にとって極めて有益である。私は、これを歓迎すべきである。
あの方の健康は、当領の最重要資産である。それを専門の医が管理するのは、正しい経営判断である。
私の記録は、素人の観察に過ぎない。就寝と起床の刻限、食事の量、機嫌。数えているだけである。脈を診ることも、薬を調じることもできない。
リーフェ様は「お身体のことは私の方が正確でしょう」と仰った。
これは、事実である。
◆◆◆◆
ここから先を、記録すべきかどうか、私は一刻ほど迷った。
結論として、記録する。この帳面は、誰も監査しないので。
あの言葉を聞いた時、私の胸のあたりに、説明のつかない動きがあった。
試みに分類する。
怒りではない。リーフェ様に非は一切ない。悲しみでもない。損失は発生していない。恐れでもない。私の職務は何一つ脅かされていない。
では何か。
……私は、この感情の名前を、知っている。
辞書に載っている。物語にも出てくる。子どもでも知っている言葉である。
だから、書けないのではない。まだ、これを書きたくない。それが正しい。
科目三は、名前が付けられない科目である。今夜のこれは、名前が付けられるのに書きたくない項目である。
両者は、別の勘定である。……はずである。
◆◆◆◆
なお、本日、宴の日において、私はタクミ様に踊りを指導した。
あの方の足の運びは、五年前と同じく、矛盾していた。
これに訂正の必要を認めない。
以上。




