第三休工日「王国は知らないふりをするようです」
【西部戦線 王国暦一〇五〇年 十月】
泥と、血と、焦げた麦の匂いがした。
「ローゼンベルク隊、右翼を突破! 敵、退きます!」
伝令の声に、陣幕の中で歓声が上がった。
ギラン・フォン・ローゼンベルクは、兜を脱ぎ、汗を拭い、それから、部下たちに向かって短く頷いた。
「よくやった。負傷者の収容が先だ。追撃はするな」
この二月で、彼の名は西部戦線の全域に知れ渡っていた。帝国の騎兵を三度押し返し、二つの砦を奪い返し、味方の潰走を一度も出していない。武門ローゼンベルクの嫡男。剣を持たせれば、王国でも指折りの男である。
だが、天幕へ戻った彼を待っていたのは、剣ではなく、紙だった。
「若様。……本国からの、督促でございます」
従士が、恐る恐る差し出したのは、財務を預かる家令からの書簡だった。
『兵糧、追加の手配を要す。
馬匹の補充、十七頭。鉄材、革、矢の代金。
傭兵団への支払い、期限を二度延期。以上、金貨にして——』
ギランは、その数字を見た。
それから、しばらく黙って、天幕の外の泥を見ていた。
「……勝つほど、金が減るのか」
「はい」
従士は、正直に答えた。
「勝てば勝つほど、進みます。進めば、補給の線が伸びます。伸びれば、費えます。……勝ち戦とは、そういうものだと」
「父上は、何と」
「『心配は要らぬ、存分に戦え』と」
「……そうか」
ギランは、書簡を折り畳んだ。
彼は、剣の男だった。数字は、彼の戦場ではない。
だから、その一言の裏で、父が何をしているかを、彼は、知らなかった。
◆◆◆◆
【王都・ローゼンベルク伯爵邸 十月中旬】
執務室には、暖炉の火が入っていた。
グレゴール・フォン・ローゼンベルク伯爵は、机の上に広げられた帳簿を、もう一刻も睨んでいる。
数字は、動かない。
領地の実入りは、平年並み。だが、戦費は平年の四倍を超えていた。王命による出兵である。名誉ではある。恩賞も、いずれ出るだろう。
いずれ、だ。
支払いは、今月来る。
「……あと、どれほど保つ」
「年内は、保ちます」
家令が、静かに答えた。
「年を越すには、いずれかを。領地の一部の売却、王家への嘆願、あるいは、借り入れを」
「嘆願は、せぬ」
即答だった。
「武門が、金の無心で王宮の門を叩けるか。ローゼンベルクの名が、廊下で笑われるわ」
「……では」
その時、扉が叩かれた。
「旦那様。ご来客でございます。南のゴルドー商会の方が」
◆◆◆◆
通されたのは、三人だった。
供の二人は入口で控え、進み出たのは、痩せた男が一人。
豪奢な装いではない。むしろ地味な、深い灰色の外套。だが、その仕立てを一目見て、家令の眉が動いた。この地味さを買うには、派手な絹の三倍の金がかかる。
「お初にお目にかかります。ゴルドー商会にて、会頭を務めております。ザイルと申します」
男は、深く、しかし卑屈にならない角度で頭を下げた。
目が、印象的だった。細く、動かず、瞬きが少ない。算盤の玉を並べたような目だ、と家令は思った。
「商人が、何用か」
「本日は、商いに参ったのではございません」
ザイルは、静かに言った。
「お力になりに、参りました」
「……ほう」
「西部戦線でのご嫡男の武功、商都にまで届いております。王国の西の門を、あの若さで支えておられる。……手前ども商人は、平穏な街道があって初めて商いができます。伯爵家のご奮戦は、我らの飯の種を守っていただいているのと同じことでございます」
グレゴールの顎が、わずかに上がった。
……悪い気は、しない。
「そこで、僭越ながら」
ザイルは、卓の上に、一枚の紙を置いた。
「王都の名門に、金の話で気を揉んでいただくのは、王国の損でございます。ご入用の分を、ご用立ていたします」
◆◆◆◆
家令が、その紙を取り上げ、隅から隅まで読んだ。
……妙な、契約書だった。
利は、驚くほど低い。返済の期限も、破格に長い。担保の設定もない。
「……失礼ながら、ゴルドー殿。これは、商いになりますまい」
「なりません」
ザイルは、あっさりと認めた。
「これは、投資でございます」
「投資」
「はい。伯爵家が戦に勝ち、恩賞を得られ、この国が西の脅威を退ける。そうなれば、街道は開き、商いは増え、手前どもの荷は倍になります。今の利より、明日の街道が欲しい。それだけのことでございます」
……筋は、通っている。
通りすぎている、と家令は思った。
「一つだけ、条項がございます」
ザイルが、紙の下の方を指した。
「取り立てて申し上げるほどのものでもございませんが、商会の規定でして」
家令が、その一条を読み上げた。
『第七条 借主は、貸主の商いの妨げとなる行為をしない。また、貸主が商いの便宜を求めたときは、これに応じるよう努める。』
「……努める、と」
「はい。努める、でございます。義務ではございません」
ザイルは、丁寧に微笑んだ。
「例えば、荷が関所で止められた時に、一言口を利いていただく。その程度のことでございます。伯爵家のお名前は、それだけの重みがございますので」
グレゴールは、鼻を鳴らした。
「その程度か」
「その程度でございます」
◆◆◆◆
伯爵が判を捺した後、家令は一人、その写しをもう一度読み返していた。
……何かが、引っかかる。
利は安い。期限は長い。担保もない。誰が読んでも、破格の好条件だ。
だが、この紙には、一つだけ、はっきりしないものがある。
『貸主が商いの便宜を求めたときは、これに応じるよう努める』
——便宜とは、何だ。
範囲が書いていない。上限もない。断った場合の定めもない。
努める、という言葉には、罰がない。罰がないから、誰も気にしない。だが罰がないということは、「努めていない」と言われた時に、言い返す根拠もないということだ。
家令は、長く商家の帳場で下働きをしてから、この家に拾われた男である。
だから、こう思った。
……これは、鎖ではない。鎖を掛けるための、輪だ。
だが、彼は何も言わなかった。
言ったところで、金は無いのだ。
◆◆◆◆
【商都・ゴルドー商会本店 十月下旬】
大きな部屋に、紙の匂いが満ちていた。
卓の上には、証文の束が、山と積まれている。
「今月の仕入れ、まとまりました」
番頭が、帳面を読み上げた。
「西部の戦で金繰りに詰まった貴族家の証文、四十二件。額面の合計、金貨で一万八千。買値は、三千二百でございます」
「安いな」
「持ち主が、もう待てぬのです。回収の見込みが立たぬ紙は、額面の二割でも売ります」
ザイルは、束の中から一枚を引き抜いた。
古い紙だった。三年ほど前のもの。
『アークライト男爵家 借入証文 金貨三千枚』
「これは」
「小さな家です。三代前の代で港の事業に手を出し、失敗して以来、ずっと。……返済の当ては、ございません」
「担保は」
「領地は既に別の証文に取られております。残っているのは、家名と、屋敷と」
番頭は、書付を繰った。
「あとは、娘が一人。行方知れずだそうで」
ザイルの、動かない目が、わずかに動いた。
「娘」
「はい。二年ほど前から、王都で人相書きを配って捜しております。……いかがなさいますか。この一件は、正直、屑紙かと」
「買え」
「え?」
「額面の一割でも、二割でも構わん。買っておけ」
ザイルは、その証文を丁寧に束へ戻した。
「屑紙が値を持つのは、持ち主が変わった時だ。……貸した相手が『いつか返してくれればいい』と思っている紙と、『今すぐ返せ』と言う者の手にある紙は、まったく別の紙になる」
「……なるほど」
「それに」
彼は、静かに言った。
「行方知れずの娘というのは、大抵、どこかにいるものだ」
◆◆◆◆
番頭が下がった後、ザイルは、もう一枚の紙を取り上げた。
こちらは、まったく別の種類の紙だった。
薄い。安い紙だ。そして、印刷されている。木の版で刷ったものだろう。文字は少し滲んでいるが、はっきり読める。
『十一月一日、交易市場アエルナ、開場いたします。
場所、三国の交わる交差点
桝と秤は、当領の定めた物を用います。誰も、目方で損をいたしません。
湯がございます。宿がございます。厠と、手洗い場がございます。
なお、上空を飛ぶ龍は、当領の警備最高顧問です。危害は加えません。』
……ザイルは、その一枚を、長いこと眺めていた。
彼が引っかかったのは、市場の話ではない。龍でもない。
この紙が、同じ物が何百枚も出回っている、ということだった。
商いにおいて、噂は最も安く、最も遅い。噂は途中で変わる。だが、同じ文言が、同じ形で、街道の端から端まで、同じように届くとすれば。
「……これは、何だ」
彼が独りごちた時、扉が開いた。
入ってきたのは、痩せて、以前よりずいぶん老けた男だった。
「ドレルか」
「……はっ」
北の岩山で、金床七基を握り、そして手放した仲買人である。
「北の件、追加の報せは」
「はい。……先月まで、当方の者が二度、街道の様子を見に行かせました。道が、直っております。それも、王都の目抜き通りより良い石畳で」
「石畳」
「加えて、水路。それから、湯屋。……そして今月、市場が」
ドレルは、額の汗を拭った。
「会頭。あの領主は、普通ではございません。手前は、三年、あの手の紙で失敗したことがございませんでした。それが、半日で解かれました」
「知っている。お前の報告は、六月に読んだ」
ザイルは、刷り物を卓に置いた。
「そして今、こうなった。……半年だ、ドレル。荒れ地に市場が建つのに、半年しか掛かっていない」
「……はい」
「わしは、あの土地を『放っておいてよい辺境』として処理していた。訂正する」
彼は、指で刷り物を叩いた。
「あそこは、喉から手が出るほど、欲しい土地だ」
「……いかがなさいますか。もう一度、証文を持って参りましょうか」
「馬鹿を言うな」
ザイルは、初めて感情らしきものを声に出した。
「型を読まれている相手に、同じ型を二度出す商人がいるか。あの領主は、お前の紙を解いた男だぞ」
「では」
「冬を待つ」
彼は、椅子に深く座り直した。
「市場というものは、生き物だ。人と、物と、銭が流れ続けている間だけ生きている。……止めれば、死ぬ」
「止める、と申しますと」
「冬になれば、街道は細る。隊商は動かなくなる。物は入らず、銭は回らない。その時に、あの街が何を買わねばならんかを考えろ」
ドレルの顔が、はっとした。
「……麦、でございますか」
「北方の荒れ地だ。あれだけの人数を、自前の畑で食わせられるはずがない。必ず、外から買っている」
ザイルは、目を細めた。
「そして、あそこの商材は、幻茸だ。王都で値の付いている、あの茸。……売る方も、買う方も、押さえる余地がある」
「手前は、何を」
「まだ動くな。動くのは、雪が積もってからだ」
彼は、刷り物を灯りにかざした。
「それまでは、買え。北の街の商品を、片端から、言い値で買え。……買われて怒る商人はおらん」
◆◆◆◆
【王都・ローゼンベルク伯爵邸 ルイスの執務室 十一月中旬】
その報告書は、三日前に届いていた。
ルイス・フォン・ローゼンベルクは、それを三日、机の上に置いたままにしていた。
読んだ。二度読んだ。三度読んだ。
そして、まだ、どうすべきか決めていない。
◆◆◆◆
『北方辺境、旧グレンツェ砦周辺の状況について』
一、十一月一日、当該領地において「交易市場アエルナ」なる大規模な市場が開場。屋根を持つ石と木の建物。中央に吹き抜けの大広間。宿、湯屋、食堂、薬局、鍛冶の直売所を備える。
二、開場日の来訪者は、記帳によれば二百四十一組。王国、ガルドラ、ファルサの三国より。小官もこれに含まれ、干し茸を購入。代金は正規に支払い。
三、当該市場では、領の定めた桝と秤のみを用いる。私物の使用は禁止。取引において目方を偽ることが、事実上、不可能。
四、住民について。ゴブリンおよそ三十、ドワーフおよそ三十を確認。加えて、エルフ、およそ五十を確認。うち多数は老人および幼年。西方より移住した由。
五、上空を、龍が飛行。開場日には三度旋回。住民に動揺なし。掲示によれば当該領の「警備最高顧問」との由。
六、小官の所見。当該領地は既に、辺境の入植地ではなく、都市である。
◆◆◆◆
ルイスは、指で眉間を押さえた。
市場と、難民と、龍。
……これを、父上に見せたら、どうなるか。
答えは、簡単だ。
「三男が、無断で異種族を五十も入れ、龍を飼い、勝手に都市を作った」
父はそう読む。血判状で縁を切った家の名に、傷がつくと考える。そして、西部戦線で手一杯の頭で、北へ何かをしようとする。
軍を出すか、王家に届け出るか、あるいは家名の保全のために「あれは我が家とは無関係である」と大声で言い立てるか。
どれをやっても、この家は損をする。……いや。
ルイスは、机の引き出しから、もう一枚の紙を取り出した。
血判状の写しである。
彼は、それを灯りにかざした。四月一日、父と弟が判を捺した紙。相互に不干渉を定めた、あの紙。
第四条
『伯爵家、またはその指図を受けて行動する者は、デッドエンド領の統治及び経営に、いかなる干渉もしてはならない』
……この紙は、よく出来ている。
当時は、弟が家から縁を切られる代わりに押し付けられた、無価値な土地の話だと思っていた。
今、読み返すと、違って見える。
これは、弟が父から「手出しをさせない権利」を買った紙だ。金貨一枚の土地と引き換えに。
「……あの時、判を捺したのは、父上の方だぞ。そして、確認を捺したのは……」
ルイスは、低く呟いた。
もし父が北へ手を出せば、この第四条を破ることになる。血判状を破った家が、王国の法廷でどう扱われるか、文官として数年やってきた彼には、その先が、鮮明に見えた。
しかも相手には、市場と、各国の商人の証言と、龍がいる。
「……この家は、北へ向かって自殺する気か」
彼は、報告書を折り畳んだ。
そして、引き出しを開けた。
六月の報告書。八月の報告書。そして十一月の報告書。三通が、そこに並んだ。
閉める時、指が少し止まった。
「……私は、何をしている」
これは、隠蔽である。
当主に上げるべき情報を、次男が握り潰している。理由が何であれ、家の秩序としては、許されることではない。
だが。
ルイスは、閉じた引き出しの上に手を置いた。
「……ならば、家を潰す情報を上げるのが忠義か?」
答えの出ない問いだった。
彼はしばらくそうしていたが、やがて手を離し、別の書類を取った。西部戦線への補給の書類である。
目の前の仕事は、いくらでもあった。
◆◆◆◆
その夜、彼は自室で一人、干し茸の包みを開けた。
密偵が、報告書と一緒に置いていったものだ。「土産でございます」と言って。
乾いた茸を、蝋燭の火にかざしてみる。
……三年前、家の裏庭で、あの弟が何かの草を検分していたのを見たことがある。あの時は、変わった趣味だと思った。
弟の顔を、思い出そうとした。
思い出せたのは、成人の儀の日の、最後に見せた妙に落ち着いた目だけだった。
あの目は、追放される人間の目ではなかった。
……今思えば、あれは、契約に判を捺す人間の目だった。
◆◆◆◆
【ローゼンベルク領・西端 十一月下旬】
冬の入り口の畑に、家令が立っていた。
彼が見ているのは、麦ではない。土である。
北部一帯は、この十数年、じわじわと痩せていた。原因は誰にも分からない。井戸が枯れ、川の水が減り、木が立ったまま枯れる。「土地が老いた」と老人たちは言い、聖職者は「神の御心」と言った。
だが、この二年ほど。
西の端から、順に、戻ってきている。
「今年の収量は」
「西端の三村で、平年の一割二分増でございます」
村長が、帽子を手に、恐る恐る答えた。
「井戸の水も、戻りました。去年から、少しずつ。……木も、緑が濃くなってございます」
「原因は」
「分かりません。……ただ、水の味が、変わりました。旨うなりました」
家令は、しばらく黙って、西の方角を見た。
この土地の水は、北の山から来ている。そして北の山の向こうには、彼が名簿から一行を消した、三男坊の領地がある。
……まさか。
その考えが浮かんで、彼はすぐに首を振った。
馬鹿な。あれは、金貨一枚の値も付かぬ死の土地だ。人が住めるはずもない。
「旦那様には、収量の増加のみ、ご報告する」
「はい」
「……原因不明の項は、いつも通り、書かずにおけ」
家令は、そう言った。
書きようが、なかったのだ。
書けば、伯爵は問うだろう。なぜだ、と。
答えられない報告ほど、この家で嫌われるものはない。
◆◆◆◆
その夜、彼は寝る前に、古い帳面を開いた。
四月一日。
『三男 タクミ・フォン・ローゼンベルク 除籍。デッドエンド領を給付。査定額、金貨一枚』
彼が自分で書いた行である。
その下に、彼は今夜、もう一行を書き足した。
誰にも報告しない、私的な文書として。
『備考 北部西端、地味の回復。原因、不明』
二つの行の間に、線を引くべきかどうか、彼は長いこと迷った。
だが、結局、引かなかった。
◆◆◆◆
【二枚の紙】
十一月の終わり。
北へ向かう街道を、一台の荷馬車が走っていた。
御者台には、糸目の行商人。荷台には、麦の袋と、塩と、毛織と、油。そして懐には、一枚の紙がある。
『穀物定期便契約 価格は締結時をもって固定。全量、当領が引き取る』
それは、冬を越すための紙だった。
同じ頃、南の商都では。
大きな部屋で、証文の束が、種類ごとに仕分けられていた。西部の戦で潰れかけた貴族家の紙。港の事業で失敗した男爵家の紙。金貨三千枚の古い一枚。
それらは丁寧に紐で縛られ、番号を振られ、棚に収められた。
いつでも取り出せるように。
二枚の紙が、同じ冬に向かって、進んでいく。
一枚は、人を食わせるために。
もう一枚は、人を縛るために。
北の街では、もう初雪の予報が出ていた。




