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第五十ニ区画「女神は査定基準を明かさないようです」

 気づくと、真っ白な空間だった。


 上下左右の感覚が曖昧になる、果てのない白。


 ……ここは、覚えている。


 心臓が止まった直後に、一度だけ立った場所だ。


「——お久しぶりです」


 鈴を転がしたような声がした。


 振り返ると、いた。神々しい後光を差した金髪碧眼の絶世の美女が、ふわりと宙に浮いている。あの日と、一分の狂いもなく同じ姿だ。


 ただ、一点だけ違っていた。


 彼女は、紙の束を抱えていた。


「……女神様」


「はい」


「その手のものは」


「あなたのところの、館内図です」


 あっさりと言われた。


「よく出来ていますね。番号を振ったのが良い。それから、この絵の記号。字の読めない方への配慮が、実に……」


「なんで持ってるんですか」


「刷り物というのは、あちこちへ流れるもの、ということですから」


 ……いくらなんでも、流れすぎだろう。


  ◆◆◆◆


「本日は、開業のお祝いに参りました」


 女神は、館内図を丁寧に畳んだ。


「おめでとうございます。……間に合いましたね」


「……ええ」


 それだけで、喉の奥が詰まった。


 この人は、俺が前の世界の最後の夜に何を思ったかを、最初から知っている。


「率直に申し上げますと、驚いております」


「何にです」


「私は、あなたに剣と魔法をお勧めしました」


 女神が、じとりとした目を向けてきた。


「魔物を一掃する強大な魔力。軍勢を単機で蹂躙する無双の剣術。……どれも人気の品でございます。それをあなたは、その場で断りました」


「事務的で地味な要求で、すみませんでしたね」


「そうです、地味だったのです!」


 女神が、ずい、と乗り出してきた。


「私はこの何もない白い空間で、あなた方の生涯を眺めるのが唯一の娯楽なのです。血沸き肉躍る英雄譚を期待して、あれだけ良い品を並べたというのに、あなたは何と仰いましたか」


 ……やっぱり、この人、暇人じゃないか。


「……相手の真のニーズを見抜き、有利な環境を構築する力を、と」


「面接ですか、あれは」


 ……返す言葉がない。


「で、どうだったんです」


「はい?」


「その、地味な要求で始まったこの十五年間……娯楽として、どうでした」


 女神は、一瞬固まった。


 それから、非常に不本意そうに、口を開いた。


「…………面白かったです」


「そうですか」


「悔しいことに、たいへん面白かったです」


 彼女は、頬を膨らませた。神様がやると、後光ごと膨れて見える。


「今の所、魔王の姿もない。勇者も出ていない。剣と魔法は……序盤の魔物との戦いだけでしたね。なのに、なぜあれほど手に汗握るのですか。契約書の朗読で、なぜ私が拳を握らねばならないのですか」


「そりゃまあ、あれは俺も緊張したので」


「あの、金床を取り返した場面。……あれは、良かったです」


「ありがとうございます」


「録画して、三度、見返しました」


 ……この人、本当に暇なんだな。


  ◆◆◆◆


「ただ、一つだけ、申し上げてもよろしいですか」


 女神が、すっと目を細めた。


「あなたは、あの日、こう仰いました。——『私は争いなんてしませんし、この世界でのんびりと暮らしますから』と」


「……言いましたね」


「『健全な都市計画にしかこの力を使いませんよ』とも」


「……ええ」


「岩山で商人と、何やら、争っておられましたが」


「争ってませんよ。紙で交渉しただけです」


「紙で人を追い詰めるのは、争いではないと?」


「はい、交渉の内です」


「龍と、対価の値切り合いをなさっていましたね」


「あれは調達です」


「……なるほど。これが、都市計画ということですか」


「都市計画です」


 女神は、しばらく俺の顔を見つめ、それから、諦めたように息を吐いた。


「まあ、よろしいでしょう。血は流れておりませんし」


  ◆◆◆◆


「それから、私はあの日、忠告を一つ差し上げました。覚えておいでですか」


 俺は、少し考えた。……ああ。あれか。


「『この力だけでは生き残れない。信頼できる仲間を作ってください』」


「はい。よく覚えておいでで」


「……あれは、正しかったです」


 俺は、正直に言った。


「あの二つのスキルだけじゃ、俺は最初の一月で野垂れ死んでました。セリアがいなければ、最初で詰んでいただろうし、街に来てから、水路を掘る手も、石を積む腕も、夜の見張りも、全部よそから来た連中のおかげで成り立っているものですから」


「よろしい。……ところで、一つ伺ってもよろしいですか」


「どうぞ」


「作りすぎでは?」


「……は?」


「私は『信頼できる仲間を作ってください』と申し上げました。数人を想定しておりました。せいぜい、四、五人の一党を」


 女神は、館内図を広げて、こちらへ突きつけた。


「百十三人と、龍が一頭。しかも四種族。規約と契約書つきで」


「……多かったですか」


「多いですよ! 一党どころか、自治体です!」


「ええ。でも、街を作るには人手が要りますから。それに、これからも増えますよ」


 女神は、頭を抱えながらこちらを見ていた。


  ◆◆◆◆


「さて。お祝いの次は、事務連絡でございます」


「神様にも事務があるんですか」


「私の仕事は、九割が事務です」


 女神は、どこからか小さな帳面を取り出した。……神様が帳面を持っている。うちのCFOと同じ持ち方だった。


「まず、あなたの権能について。ご不満があると伺っておりますが」


「不満というか——名前です」


「名前?」


「【万象の鑑定眼】に【神域の用途指定】。……仰々しすぎませんか。もっとこう、簡潔に」


「あれは、私の趣味です」


 きっぱりと言われた。


「せめて名前くらい格好よくしなければ、私が耐えられませんでした。あなたの注文があまりに地味だったので」


「……」


「あの二つ名は、私の最後の抵抗です。触らないでください」


  ◆◆◆◆


「では、本題を。——あなたのスキルについて、仕組みをお教えします」


 俺は、姿勢を正した。


 これは、ずっと訊きたかったことだ。


「特に、用途指定の効き目に、ムラがあるんです。自分の領地の中では、無制限で、ずっと効く。外だと数分で消えるし、貼れる枚数に上限がある。……その上限も、この前、勝手に三枚から四枚に増えました。基準はなんですか?」


「査定基準は、非公開です」


「そこは、教えてないんですか」


「ですが、仕組みだけは申し上げます。——あなたは、もう半分、ご自分で気づいておられますから」


 女神は、指を一本立てた。


「思い出してください。あなたはあの日、こう注文なさいました。『自分が指定した区画の用途や環境法則を書き換える力』と」


「……言いました」


「用途、と仰ったのです」


 彼女は、静かに言った。


「用途というものは、作った者が決めるのではありません。使う者が決めるのです。どれほど立派な図面を引いても、そこに住む者が『ここは違う場所だ』と思っていれば、それはその通りの場所になる。……あなたは、そういう力を注文されました」


 ……ああ。そういうことか。


「だから、うちの領地では効くのか」


「はい。あなたの街の方々は、あなたの決めた用途を、そのまま受け入れて使っておられます。休憩所は休む場所。上水路は汚してはならない場所。市場は正しく量る場所。全員が同じことを思っている場所に、私が判を捺します。すると、それは本当になります」


「他人の土地で効かないのは」


「そこの方々が、そう思っていないからです。……あなたは他所で、いきなり紙を貼って、いきなり『ここはこういう場所だ』と宣言なさる。あれは、根拠のない看板です。数分保つだけでも、私はかなり無理をしております」


「……すみません」


「上限が増えたのも、同じ理屈です」


 女神は、館内図を軽く振った。


「あなたの街が、大きくなったからです。人が増え、決まりが増え、そこで暮らす者が『この街はこういう街だ』とはっきり思うようになった。だから、街の外に対しても、その考えを少し押し出せるようになった。……街の格、と申し上げてもよろしいでしょう」


「じゃあ、あれは女神様の贈り物じゃなくて」


「贈り物ではありません」


 彼女は、はっきりと言った。


「あなたと、あなたの街の方々が、自分で稼いだ分です。私は、それを計上している、ただそれだけです」


  ◆◆◆◆


「それから、本日付で、あなたの目に新しい棚が入ります」


「棚?」


「あなたの言うところの、提案の機能です。これまでは水と、道と、建物ばかりでしたでしょう。本日、市場が開きました。人と物と金の集まる場所です。……相場と、物の流れが加わります」


「便利ですね」


「ただし、これまで通り、あなたの中やあなたの街に在る知識からしか出しません。あなたの街に商人が集まった分だけ、答えが増えます」


「じゃあ、うちのCFOの頭の中も入ってるわけだ」


「セリアさんは、かなり前から入っておられますよ」


 ……道理で、たまに提案が異様に細かいわけだ。


  ◆◆◆◆


「では、こちらから一つ、伺ってもよろしいですか」


 女神が、少し身を乗り出した。


「あの、ゴブリンの方々の……『カミ』の信仰について」


「……ああ」


 俺は、気まずくなった。


「あれは、その、勘違いなんです。契約書を大事にしろと言ったら、いつの間にか紙を拝み始めて。ザグのばあちゃんの教えと混ざって、なんだかよく分からないことに。……まあ、女神様からすれば、いい迷惑ですよね」


「いいえ」


 女神は、はっきりと言った。


「届いております」


「……は?」


「私のところへ、届いております。あの方々の祈りが」


 俺は、言葉を失った。


「不思議なことに、宛先が『紙』なのですが、こちらへ参ります。本日もたくさん届きました。『市場、開いた』『たくさん、稼いだ』『ちゃんと、生きてる』」


 彼女は、腕を組んだ。


「私は、この仕事を、それなりに長くやっております」


「どのくらい」


「あなた方の数え方ですと、少々、桁が」


「……はい」


「その間、私のところへ届く祈りは、大抵、同じです。雨を降らせてください。病を治してください。戦に勝たせてください。作物を実らせてください。それは、全部、願いです」


 女神は、静かに言った。


「契約書に手を合わせて『約束が守られました』と報告してくる信徒は、初めてです」


「……」


「あれは、願いではありません。報告です。決算報告のようなものです。……私は、初めて、決算報告を受け取る神になりました」


 彼女は、少し笑った。


「願われるばかりよりも、報告を受け取ることができるというのは、悪くない気分なのですよ」


  ◆◆◆◆


「札の言い回しについても、申し上げておきます」


「言い回し?」


「『ようこそ』『ご利用は一名様』『お静かに』『足元にご注意ください』。……あれは、私が書いているのではありません」


「じゃあ、誰が」


「あなたです」


 女神は、当然のように言った。


「私は、あなたの中にある『この場所はこう扱われるべきだ』という考えを、そのまま札にしております。あの丁寧な言い回しは、あなたが二十年、そういう言葉の中で生きてきた証です」


 ……そういうことだったか。


 案内板。掲示物。館内放送。


「本日はご来館いただき、誠にありがとうございます」


「……つまり、うちの街の神託は、全部、館内アナウンスなんですか」


「はい」


「ひどい話だ」


「良い話だと思いますが」


  ◆◆◆◆


「さて」


 女神が、姿勢を正した。


「お祝いと、事務連絡は済みました。——最後に、贈り物を一つ。一度だけ、お見せします」


 彼女が、手を横に振った。


 白い空間に、景色が開いた。


 午前十時の光。


 硝子の向こうから、秋の陽が差し込んでいる。


 吹き抜け。天窓。エスカレーター。磨かれたコンクリートの床。


 ……見覚えのある場所だった。


 当たり前だ。俺が、時間をかけて、考えた建物である。


 人がいた。


 大勢いた。開店を待っていた列が、次々と中へ流れ込んでくる。子供が親の手を引いて走る。若い女が二人、上の階を指さして何か言っている。老夫婦が、案内板の前で立ち止まっている。


 そして、考え尽くした導線の上を、人が歩いていた。


 右へ折れて、中央のエスカレーターの前で足を止め、上を見上げて、それから両側の店の方へ流れていく。


 ……全部、計画の通りだった。


「……ちゃんと、開いたんですか」


「はい。翌日、予定通りに」


 女神が、静かに言った。


「あなたの同僚の方々が、開けられました。……あなたが積み上げた紙が、全部そこにありましたので。誰も、迷わなかったそうです」


「……そうか」


「そして、その建物は、今もあります。人が歩いています。今日も、明日も」


 俺は、その光景を見ていた。


 顔は、見えなかった。誰が誰かも分からない。ただ、人の流れだけが見えた。


 ……それで、充分だった。  


「もう、いいです」


 俺は、そう言った。


「充分です。ありがとうございます」


 景色が、静かに閉じた。


  ◆◆◆◆


「一つ、申し上げてもよろしいですか」


 女神が言った。


「あなたは、あの夜、こう思われました。『誰もが笑顔になる最高の場所を創りあげてきたのに、自分がそこで休む時間は、一秒もなかった』と」


 俺は、黙った。


「そして、こう願われました。『次こそ、自分のペースで。誰もが無理なく、豊かに安心して暮らせるホワイトな街を創りたい』、あなたの最期の願いは、それでした」


 ……ああ。そうだ。


 あの時、痛みと暗闇の中で、俺が最後に考えたのは、そんなことだった。


 女神は、館内図を、そっと開いた。


「週に二日の休み。傷の治療は雇い主の払い。倒れた者には、対価を求めずに屋根と飯を出す。夜には静かな時間を定め、疲れた者のために縁台を置く。……あなたは、その願いを、律儀に一つずつ、紙に書いておられます」


「……意図はしていませんでした」


「そうでしょうね」


 彼女は、少し笑った。


「あなたは、いつも実務の顔でそれをなさる。『働きすぎると効率が落ちる』『事故が起きると工期が延びる』『苦情の出ないビルは空きビルだけ』理屈をつけないと、優しさを実行できない方です」


「……理屈がないと、続かないので」


「はい。だから、続いております」


 女神は、まっすぐこちらを見た。


「一つだけ、確認をさせてください。……あなたは、今日、休みましたか」


 俺は、思わず、笑った。


 センター広場の脇の、木陰と縁台。淡い札。有無を言わさず腕を引かれて、座らされた瞬間に抜けた、全身の力。


 冷たい湧水。目の前を歩いていく人。


「……休みました」


「はい」


「うちの補佐に、無理やり座らされて」


「存じております」


 女神は、深く頷いた。


「では、あなたの最期の願いは、叶いました。……ただし、私が叶えたのではありません」


 彼女は、はっきりと言った。


「あなたが、自分で叶えました。私は、判を捺しただけです」


  ◆◆◆◆


「では、事務連絡の、続きです」


 空気が変わった。


「冬が来ます」


「……ええ」


「北方の冬です。雪が降り、街道が細り、人の行き来が止まります。あなたは、それを商売に変えるつもりでいる。良い判断です」


「褒めてもらえるなら、光栄です」


「ですが」


 女神は、指を一本立てた。


「冬に細るのは、道だけではありません。金の流れも細ります。銭が回らなくなった土地では、貸し借りが力を持つ。……紙が、剣より強くなる季節です」


 この人は、全部見ている。俺の商売相手を知っている。


「南のことですね」


「私は、名を申しません。神が個別の人間の名を挙げるのは、公正ではありませんので」


「……はい」


「一つだけ、事実を申し上げます」


 彼女は、静かに言った。


「あなたが今日、市場を開いたことで、あなたを見る目が、変わりました。これまで、あなたは『放っておいてよい辺境』でした。今日から、あなたは『欲しい土地』です」


 白い空間が、少しだけ冷えた気がした。


「守るものが、増えましたね」


「……ええ」


「増えた分だけ、狙われます。そういう仕組みです」


「知ってます。前の世界でも同じでした」


 俺は、肩をすくめた。


「儲かる物件には、必ず、横から手が伸びてくるんです」


「よろしい」


 女神は、満足そうに頷いた。


「では、最後に。私は、手を貸しません」


「……はっきり言いますね」


「はい。私が代わりに戦ってしまえば、あの街は、あなた方のものではなくなりますので」


 彼女は、深く頭を下げた。


「あなたの街は、あなた方が建てました。守るのも、あなた方です。……私にできるのは、あなた方が『こうあるべきだ』と決めたことに、判を捺すことだけです」


「充分ですよ」


 俺は、笑った。


「うちの街は、紙が大好きな連中の集まりなんで」


  ◆◆◆◆


「では、そろそろ」


 女神の姿が、薄くなり始めた。


「あ、待ってください。最後に一つだけ」


「どうぞ」


「あの日、聞きそびれたことがあるんです。……この世界のことを、色々と」


「ええ。あの時は、お時間でしたので」


「今なら、いいですか」


 女神は、少し考えた。


「一つだけなら」


「じゃあ、これを。この土地は、なんで死んだんですか」


 白い空間が、一瞬、静かになった。


「十五年前に、何かがあったはずです。あの山の下の栓は、自然に詰まったものじゃない。……誰かが、何かをした」


 女神は、答えなかった。


 代わりに、こう言った。


「それは、あなたが自分で掘り当ててください」


「……ヒントは」


「あなたたちは、掘るのが得意でしょう」


 後光が、薄れていく。


「良き第二の人生を。次は、そうですね」


 彼女は、最後に少しだけ悪戯っぽく笑った。


「次の決算報告を楽しみにしております」


  ◆◆◆◆


 目が覚めた。


 寝台の上。窓の外は、まだ薄暗い。夜明け前だ。


 ……夢だった。


 だが、妙にはっきりしている。夢というのは大抵、起きて三十を数えるうちに輪郭が溶けるものだが、これは残った。館内図を抱えて頬を膨らませた女神の顔まで、克明に残っていた。


 俺は起き上がって、窓を開けた。


 冷たい空気が入ってくる。もう、冬の匂いだ。東の空が、わずかに白んでいる。


『おはようございます』


「うわ」


 視界の隅に、見慣れないものが灯っていた。


『【万象の鑑定眼】——提案の対象に、新しい項目が追加されました』


『追加:相場/物の流れ』


『※提示できる内容は、当領に在る知識に依ります』


「……本当に、事務連絡だったのか」


 試しに、昨日の売上の数字を思い浮かべてみる。


『分析を、提示しますか?』


 ……頼む。


『本日の販売実績に基づく所見(伝承元:テオ/セリア/ノルトール商会番頭・その他)』


 一、干し茸の単価は、現在の需要に対して低すぎます。値上げの余地、約三割。


 二、鉄製品は在庫が不足。増産か、価格の引き上げが必要。


 三、両替の手数料が低すぎます。損はしていませんが、儲けも出ていません。


 四、冬季は街道の状況により隊商の来訪が減少します。備蓄と、宿泊需要への対応を推奨。


 ……いきなり有能だな。


 しかも、こいつは俺の値付けを三つも駄目出ししてきた。


「……悔しいな」


 窓の外に、アエルナが建っている。昨日、八百六十三人が歩いた建物だ。今日も、開く。


 そして、その向こう、南の空を見た。


 闇がまだ濃い。


 その先で、いま、紙が動いている。


 北へ向かう発注書。うちの街が冬を越すための、麦の紙。南で束ねられているだろう証文。……こちらの中身は、まだ誰も知らない。


「……冬か」


 紙が、剣より強くなる季節。……逆に好都合だ。


 こっちは、半年で何枚ものの紙を書いてきた。……紙の喧嘩なら負ける気がしない。


 これから来るであろう困難に立ち向かうため、今日も俺は市場を開くのだった。


第四棟「死の土地に市場を開くことにします」完

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