第五十一区画「名前のない科目はまだそのままのようです」
戸締りを終えて外へ出ると、街には、点々と灯りが残っていた。
食堂は片付けの真っ最中。湯屋の釜番が最後の火を落としている。旧市街の窓には、まだ何軒も灯りが点いていて、たぶんどこも、今日の話をしているのだろう。
俺たちは、砦へ向かってゆっくり歩いた。
薬草園の脇を通りかかった時、畝の前に人影があった。
「リーフェ。まだ起きてたのか」
「……はい。眠れそうになくて」
彼女は、膝をついて、まだ小さな芽の並ぶ畝を見ていた。
「今日、私の薬を、五十人の方が買っていかれました。……そのうちの半分の方は、王都へ持ち帰ると仰いました」
「売れたな」
「はい。……森を出た日には、考えられないことです」
彼女は立ち上がり、西の空を見た。
闇の向こう、遥か西。焼かれた森のある方角である。
「森還りの積立は、いくらになりましたか」
「今日の分の締めは、明日だ。……薬の売上の一割だから、そう大きな額じゃない」
「それでいいのです」
リーフェは、静かに言った。
「大きいか小さいかではなく、積み始めた、ということが大事なので。……いつか、あの森にも」
彼女は、西の闇を見つめた。
「この街のような、灯りを」
俺は、何も言わなかった。
その願いに、今の俺が言えることは何もない。西の森を焼いているのは帝国で、それは俺の手の届く範囲の外にある。
……だが、いつかは。
「リーフェ。今日、いくら稼いだか、覚えておいてくれ」
「……はい?」
「灯りを点けるには、金が要るんだ。人も要る。技も要る。……全部、これから積む」
彼女は、少し驚いた顔をして、それから、笑った。
「……あなたは、どんな話でも、必ず算盤に載せてしまわれるのですね」
「載せないと、願い事のままで終わるからな」
◆◆◆◆
執務室。
卓の上に、今日一日の紙が山になっていた。来場者台帳、売上の走り書き、苦情の紙片、両替の記録、検量所の当番日誌。
俺とセリアは、向かい合って座った。
「では、締めましょう」
「頼む」
「まず、人と物の棚卸しです」
彼女は、帳面を開いた。
「当領の人口、百十三名、及び警備最高顧問一頭。四月十一日の入領時点では、人間二名と馬二頭でした」
「馬も数えるのか」
「当時の総資産の、かなりの割合を占めておりましたので」
……否定できない。
「街の設備。上下水道一期、街道一期、浴場、酒蔵、鍛冶場、石灰窯、陶管窯、乾燥室、調剤場、治療院、薬草園、緩衝緑地、南門、そして、交易市場アエルナ、一期」
彼女は、そこで一度、間を置いた。
「四月に、あなたが仰った四つの段階を、覚えておいでですか」
「……水、道、人、ハコ」
「はい。本日をもって、四つ目の『ハコ』が、一期完了です」
……そうか。半年と一月。
あの日、崩れかけた砦の前で、俺は何も無い荒野を指して、そんなことを言った。セリアは黙って帳面に書き取って、たぶん内心では「この人は大丈夫だろうか」と思っていたはずだ。
「次の段階は、何になさいますか」
「……当分は、育てる時期だ」
俺は、正直に答えた。
「建てたものを、回す。使う。直す。不足箇所だけ、部分的に増やす。そして、冬を越す。……新しいハコを建てるのは、来年からでいい」
「来年」
「ああ。来年は、石と鉄で建てたい」
セリアが、顔を上げた。
「石灰と、砂と、砂利と、鉄。全部、この土地にある。組み合わせ方は知ってる。……試して、失敗して、また試す時間さえあれば、この世界の誰も見たことのない建物が建つ」
「予算は」
「まだ分からない」
「では、先に申し上げておきます。当領の来年度予算は、既にかなりの部分が埋まっております」
「何で」
「冬の食糧、防備二期、住居の増築。それから——」
彼女は、静かに言った。
「金貨九十枚。債権の買い取り用として、温存してあるものです」
……ああ。 その話か。
◆◆◆◆
「使うことになると思うか」
「分かりません。ですが」
セリアは、帳面の上で指を組んだ。
「本日、当領の名は、大陸中の商人に知れ渡りました。……良いことばかりでは、ありません」
「そうだな」
「今日ここに来た二百四十一組の中には、私たちの取引先になる者もいれば、私たちを測りに来た者もおりました。そして、その報告は、明日には南へ向かいます」
「王都と、商都にな」
「はい」
俺は、窓の外を見た。
南の空は、真っ暗だった。何も見えない。だが、その闇の向こうには、俺の実家があり、王都があり、そして、商都のゴルドー商会がある。
今日の売上の話は、遅くとも半月で、あの算盤屋の前に届くだろう。
「……喧嘩を売られる準備は、しておくか」
「はい。ただし」
セリアは、帳面を閉じた。
「今日は、しません。全員、限界です。あなたも含めて」
「……そうだな」
「明日から、順に片付けます。まず苦情台帳。開業一日で、十九件」
「もう十九件か」
「はい。内訳、湯屋の長湯について七件。厠の行列について四件。迷子について三件。センター広場の唄がうるさいという申し立てが一件。申立人は、隣で唄っていた別の集団です」
「……そこは仲良くしてくれ」
「残り四件は、通路の混雑です。あなたが今日、その場で直された分は、含んでおりません」
俺は、腕を組んだ。
「上等だ」
「上等、ですか」
「苦情の出ない建物は、空いている建物だけだ」
◆◆◆◆
「では、最後に一件」
セリアが、別の紙を取り出した。
「未払いの約束について、決済の記録を残します」
「……なんだって?」
「八月二十五日、地鎮祭の前夜。あなたは私に、こう仰いました。『いつか話すよ。——多分、もうすぐだ』」
彼女は、几帳面な字で書き付けた。
『未払いの約束 一件、本日をもって、決済済み』
「……律儀だな」
「約束を帳簿に載せる以上、決済も載せます。それが監査です」
彼女は、ペンを置いた。
それから、少しだけ、こちらを見た。
「タクミ様。昨夜のお話について、一つだけ」
「ああ」
「私は、あの話を、誰にも申しません。あなたが仰るまでは」
「助かる」
「ただし」
セリアは、まっすぐに言った。
「一つだけ、覚えておいてください。あなたが前の世界で成し得なかったことを、私はもう、知っています。ですから、次は、私が見張ります」
「見張る、ね」
「はい。休まない領主を、私は許しません。……昨夜、あなたは眠っていません。今夜は、必ず寝てください」
「……分かった」
「では、報告は以上です。おやすみなさいませ」
◆◆◆◆
その夜。自室の蝋燭の下で、セリア・フォート・アークライトは、誰にも見せない帳面を開いた。
【十一月一日】
交易市場アエルナ、開業。
来場、二百四十一組。延べ八百六十三名。店子売上、金貨百八十二枚。当領の取り分、金貨二十二枚。初日、黒字。
建設費の回収は、この分でいけば、二月もかからない。私の演算では、四十六日である。
なお、本日の当領の名声、及び信用の増加分は、金貨に換算できない。従って、計上しない。悔しいことに、私の演算をもってしても、値が出ない。
◆◆◆◆
科目三について、記録する。名称は、なお保留。
本日、残高が、確定的に増加した。
増加の要因を、正確に記す。
一、開場の合図を出す前、あの人が深く息を吸われたこと。あれは、恐れておられた。八百人の前で、恐れておられた。それでも、開けた。
二、秤を偽った男を、追い出されなかったこと。私は、あの場で追い出すのが正しいと思った。あの人は、貸し出された。……私の判断は、まだ、あそこまで及ばない。
三、休憩所で、片手で目を覆っておられたこと。
これについては、詳述しない。この帳面は誰も監査しないが、書くべきでないことは、書かない。
◆◆◆◆
昨夜、あの人は、全てを話された。前期繰越。閉じられた帳簿。
私は、あの人の来歴を問わない。それは、五年前にあの方自身が私に教えた作法である。
ただ、一つだけ、書いておく。
あの人は、最期に、こう願われたのだそうだ。
——誰もが無理なく、豊かに安心して暮らせる街を創りたい、と。
そして、自身は、自分の創った場所で一度も休んだことがなかった、とも。
本日、あの人は、ご自分の建てた建物の中で、休憩所の縁台に座られた。
私が、腕を引いて、座らせた。
私は、それを見届けた。当領の補佐官として。
……そして、それ以外の何かとして。
科目三の残高は、膨れ上がってしまっている。利率の確認はしない。返済の予定も当分、ない。
……当分、というのは、便利な言葉だ。
以上。
◆◆◆◆
セリアは、帳面を閉じ、蝋燭を吹き消した。
窓の外、南の空は、静かに暗い。
その闇の向こうで、いま、数枚の紙が動き始めていることを、この夜の彼女は、まだ知らない。




